この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

 
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すべては行動から生まれる。
 
 
 
とはいえ、
 
それはわかっていてもできないのが、みんなの悩みどころ。
 
それがなぜなのかを、今日は考えてみましょう。
 
 
 
多くの人がなにかをしようとするとき、
 
ついつい「構えて」しまいますね。
 
 
 
でも、
 
人は「構える」と動けなくなってしまうんです。
 
 
 
たとえば、走るために構えるとしましょう。
 
そうすると、動けなくなりますよね。
 
それを「動かす」ためには「合図」が必要なのです。
 
「バーン!」という、例のヤツですね。
 
 
 
でも、人生には大概そんなもんはありません。
 
合図なんて、だれも出してくれない。
 
だから、「構えた人」たちは固まったまま。
 
 
 
人生での合図は、
 
自分で出すものですが、
 
これを出すのが難しい。
 
 
 
というわけで、
 
「構えた人」は動けなくなってしまうのです。
 
 
 
じゃあ、どうすれば?
 
となりますが、
 
とりあえずまずテキトーにやってみりゃーいいんです。
 
 
 
「テキトー」がどうも日本では軽視されますが、
 
よく日本語的に考えれば
 
「テキトー」は「適当」。
 
「程度などが、ほどよいこと。」ですよ。
 
 
 
動けないのは、そもそも目的にかなっていませんから、論外。
 
ということは、
 
動けることが前提なら、
 
「テキトー」で動けるなら、それは「適当」ということです。
 
 
 
まずテキトーでやってみる。
 
構えずに、いい加減でやってみる。
 
 
 
これが実は、知恵なのです。
 
だから「適当」「いい加減」なのですね。
 
えへん。
 
マジメちゃんには、つらいね。 
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人生に迷っている人、
 
「私はどうしたらいいの?」と思っている人、
 
「人生ってむなしい・・・」と感じている人など、
 
ぜひ読んでみてください。
 
さて、
 
人は「自分」のために生きようとするのではなく、
 
『家』のために生きるべきである。
 
というのは、
 
私が日本の昔の考え方を学び、
 
自然を見ていると、そうである、と思えるものでしたが、
 
この言葉のもう1つ深いところの意味を今日、理解したように思います。
 
というのは、
 
『家』のために生きる、
 
というのは、
 
『子供』のために生きる、
 
のとは違う、
 
ということです。
 
というのは、
 
文字通り「子供のために生きる、」と、
 
子供のためにならないことがあるからです。
 
カンタンにいってしまうと、
 
子供を「甘やかし」すぎてしまうし、
親が「子供に依存」してしまう可能性が高くなってしまいます。
 
でも、ここで注意しないといけないのが、
 
「子供のため」と親が考え過ぎると、
 
『場』の中心が「子供」になってしまう。
 
つまり、それで何が起こるかというと、
 
『生意気な子供』、
 
『親よりも偉いと勘違いしている子供』
 
ができてしまう。
 
 
日本には今、
 
両極端の人が溢れている。
 
1つは、『自分大好き』の人。
 
「自己実現」のために、なるべくはやく子供を預け、
「自分の仕事」「自分の夢」のために生きようとする人。
 
これは西洋思想であり「自己」を大事にする「個人主義」が生んだ産物。
 
高度経済成長にともなって増えてきたタイプで、
「団塊の世代」から、バブル時代までに大人になった人、いわゆる「バブル世代」に多い。
 
彼らに待っているものは、
 
「人生の虚しさ」だ。
 
これは欧米でもだいぶテーマになってきているようだけど、
 
「自分中心」で生きていると、
 
『死んだら全て終わり』となってしまうから、とても苦しく、虚しい。
 
「老いる」ことは「怖い」ことになる。
 
子供も「自分のため」に生きるから、親は見捨てられるのだ。
 
こういう人は、そもそも子供や家庭を持たない人も多いから、
そして、人生の最後は孤独と恐怖のなかで過ごすことになる。
 
一方、こういう親を持った子供は、永遠の「寂しさ」におそわれる。
誰といても、いつまでも『孤独』を感じる。
 
とにかく「さびしい・・・さびしい」と、「人とのふれあい」を求め続けるが、もちろん満たされることはない。
 
もう1つは、「自分」を失い、「生きる理由」を見いだせない人。
自分の人生を、我が子に捧げてしまう。
 
「団塊の世代」以前と、「バブル崩壊後の世代」で増えつつある。
バブル崩壊後の世代で増えているのは、「自分の人生」を大事にする親に育てられたからだ。
 
ようするに上のタイプの親が増えたことによる自然な反動。
 
このタイプの人は、「自分探し」に奔走する。
 
一部の人は、「自分の夢」を見つける。
 
でも多くの人は、当然ながら見つけられない。
 
全ての人が「自分のやりたいこと」「自分の夢」なんてあるワケがないから、当然といえば当然のことなのだけど・・・
 
最終的に彼らが反応するのは「他人のために自分を犠牲にする」ということ。
 
人を癒すこと、
 
人が喜んでくれること、
 
人を助けること、
 
が嬉しい。
 
もちろんそれ自体は悪いことではないけれど、ときどきいろいろなトコロで話題になるように、「自分のため」に他人が必要なので、注意していないと、「搾取」というカタチになったり、「相互依存」というカタチになりやすい。
 
このタイプの親を持った子供は、人生でいつも重圧を感じ続ける。
というのは、自分に親の人生がのっかってくるからだ。
 
重圧で潰されてしまう子、
 
自分の夢を失ってしまう子。
 
また子供によっては、そんな親をバカにし、また「大人」をバカにするようになる。
 
だって、人生は自分を中心に回っている、と思ってしまうからだ。
 
でも、甘やかされて育ったので、社会に出ると容易に潰されるため、自立ができない。
 
これはどちらも問題で、
 
そして、どちらも日本にたくさんいる。
 
じゃあ、どうしたらいいの?
 
自分のために生きるべきか?
 
子供のために生きるべきか?
 
 
そう、そこで出てくるのが、
 
『家』のために生きる、
 
ということ。
 
 
『家』とはどういうことかというと、
「祖先」「自分」「子孫」
が全部大事にされている、ということだ。
 
 
自分は祖先(もちろん「親」も含め)のお陰で、
ここにこういう状態でいられる。
それに感謝し、
その恩に報いるため、自分は自分を大事にしつつ、子供のために生きる。
 
子供のために生きる、
 
といっても、
 
祖先の愛情を感じて、自分も大事にしなければいけない、
 
自分も素晴らしい人生を歩まないといけない。
 
そして、
 
祖先からの想いを繋げていくために、
子供が「立派な大人」になってもらわないといけない。
 
つまり、
『家のため』と判断基準を持つと、
「自分のため」と「子供のため」のバランスを取りやすくなるのだ。
自分も最高の人生を生きなければならない。
 
子供も最高の人生を歩んでもらわないといけない。
 
「自分のため」そして「他人のため」に生きる。
 
ちょっと難しい言葉を使うと、
 
ようするに『高い抽象度』をもって子育てができるようになる、
 
「高い抽象度」を持てば、
 
自分が今やっていることの意味・結果・状況を客観視できる。
 
カンタンに説明すると
 
子育てで悩んだときに、
 
「コレは、『家』が繁栄していくことに繋がるだろうか?」
 
と考えたらいい。
 
 
そう考えたとき、
 
あなたの判断には、
 
「あなた」と「子供」だけでなく、
ずーーーーーーーーっと繋がっていく祖先たちと、
ずーーーーーーーーっとつながっていく子孫たちが含まれていく。
これって、とても力強いことですよ。
 
だって、ものすごくたくさんの人と一緒に生きている、ってことなんですから。
 
 
 

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産まれて間もない赤ちゃんには まだ他者意識が産まれていない 泣けばだれかが自分の不安を察して それを解消してくれると信じているから お腹がすいたときや おしめを取り替えてほしいときなど その度に泣き声をあげる

他者を意識するとき 論理は自然発生的に生まれるといったが 成長し 幼稚園に通いだすころになると 早熟な子供は自然に他者を意識し始める
もちろん そこには自分の不満を知り それを解消してくれる人が絶えずそばにいるとは限らない さらに そこで出会う子供たちはお互いにその感情を理解できない他者である そうした子供たち同士がいやでもコミュニケーションをとりあわなければならないとき 子供はムイキにのうちにでも筋道を立てようとする
そのときに 論理が自然に発生するのだ

幼稚園児の論理など 幼稚なものにほかならない だが 子供が「そのおもちゃ 誰々さんが持っているよ(具体例)」「先生もいいねて言っていたよ(引用)」「だから お母さん そのおもちゃほしいんだ(因果)」などと言ったとき 確かに論理を駆使しているのである
だから 依存心が強い子供ほど感情的で 自立した子供ほど論理が発達する

一方 他者意識が希薄なとき 言葉は省略に向かっていく

初対面の人に対しては丁寧な言葉を使うが 次第に気心が知れていくと 言葉遣いはぞんざいになり どんどん省略されていく
今現代は 大人になりきれない若者 大人たちが 世の中に溢れ出している
彼等は何か不満があると「ムカツク」などの感情語を使用する
そこには他者意識も論理もない 世界がどうであろうと 真理がなんであろうと自分が「ムカツク」と言えば それは否定されるべきこととなる
「ムカツク」と言えば だれかが自分の不満を察してそれを解消してくれると心のどこかで思っているから 自分の不満を他者に向かって論理的に説明しようともしない

 
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昔は僕もそうなりそうな時代もあったが、
 
僕の世代より少し上から、今の世代によく見られることとして、
 
「人生をあきらめる」ということがある。
 
 
 
そういう人たちには、
 
『あきらめる前に、自分は何かしたのか?』
 
と自分に聞いてみて欲しい。
 
 
 
この『人生をあきらめる』という病は、
 
なぜかとても若いときにかかる。
 
主に思春期のころだ。
 
そして、それが人生の終わりまでずうっと続くのだ。
 
 
 
今考えてみても、なぜ若いときには、
 
『人生ってくだらないな。』
 
『この世界はもうどうしようもない。』
 
とあきらめてしまうのかは、分からない。
 
 
 
何を参考にして、判断を下すのだろうか?
 
 
 
ひょっとしたらこの時期は、
 
大人からの分離とともに、
 
やはり大人というものへの『信頼』がどこかにあるのだろうか?
 
だから、『大人ができない、ということは自分もできない。』と考えるのだろうか?
 
 
 
そういえば僕は、大人がいうことを信じない子供だった。
 
僕は、いつも自然を見つめていたから、
 
大人が『これはこうである。』といっていることが、
 
どうにも自然、つまり現実に起こっていることとは合致しない、ということに気づいていた。
 
 
 
だから、僕は、同世代がどんどん人生をあきらめていく中で、
 
人生をあきらめることができなかったのかもしれない。
 
『だって、そういう風になってないでしょ!』
 
「大人」から何かをいわれても、いつもそう思っていた。
 
だから、「大人」が言っていることが「正しくない」ということを証明するために学び、
 
そして、ついには、やっぱり「人々」が信じていることは全然間違いであった、ということを自分のなかで確信した。
 
 
 
でも、多くの人は、自分の「考え」を支えてくれる支柱がないから、
 
どこかで『大人がいっていることは正しいのかもしれない・・・』
 
と思い、ついにはあきらめてしまうのかもしれない。
 
僕が、自然という「揺るぎなきモノ」をみることになったのは本当にラッキーだったのかもしれない。
 
 
 
まあ、とはいえ、
 
やはり、思春期を抜け、いわゆる「大人」になったときには、
 
あらためて自分を見つめ直すことができる。
 
 
 
親から自立した、論理的な思考をもってすれば、
 
自分がいかになにもせずに人生や「夢」をあきらめてしまったのか分かるだろう。
 
 
 
さあ、ここでもう一度自分に問いかけてみて欲しい。
 
あなたは、なにかをあきらめてしまった前に、
 
一体何を実際にやっただろう?
 
どれくらいそれについて知り、どれくらいの期間をかけて、どれくらいのことをやったのだろうか?
 
 
 
それはひょっとしたら、できるものではないのだろうか?
 
自分はただ何もせずに、ビビってしまって、または面倒で、それをやめてしまっただけではないだろうか?
 
 
 
もしそうならば、ただちに「私には○○○なんてできない。」「私に○○な才能はない」という言い訳を捨て、
 
「私は、○○をしたくなかったので、することをやめました。」
 
と言い換えるようにしよう。
 
 
 
自分に正直になって、事実を受け入れるようにすれば、人生は好転する。
 
ぜひやってみて欲しい。
 
 
 
 
 


「因果関係」とは 「自分が発した感情や言動が巡り巡って自分に返ってくる」という法則
したがって 母親が愛を持って娘に接すれば 娘も愛を返してくれますが 母親が怒りを持って接すれば 娘も怒りを返してくることになる しかし 実際には「自分が愛を与えても、相手がますますいい気になって好き勝手に振る舞うようになったら、愛を与えた自分は大損をしてしまう」などと 思わず 「損得勘定」を行ってしまいがちです
そのため「損をしないように 最初から 愛なんか与えるのはやめておこう」と計算し 自分を守る方向へと進んでしまうものなのです
このような人間関係の上では むしろ かえって自分を苦しめてしまう「損得勘定」を 完全に放棄してしまう方が よほど楽になります
「この相手からは 何ももらわないでもかまわない あげるだけあげて あとは返してくれるかどうかなんて 全然気にしないでおこう それは 相手のためじゃなくて 自分のためにそうするのだ だって その方が ずっと気が楽なのだから」と 良い意味で割り切ってしまうのが得策だと言えるでしょう
そのうえで そう割り切った自分を大いに褒め 「ああ 愛情の等価交換を放棄した私って なんて素晴らしい人間なのかしら〜」と そんな自分を好きになればいいのです

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