この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

 
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昔は僕もそうなりそうな時代もあったが、
 
僕の世代より少し上から、今の世代によく見られることとして、
 
「人生をあきらめる」ということがある。
 
 
 
そういう人たちには、
 
『あきらめる前に、自分は何かしたのか?』
 
と自分に聞いてみて欲しい。
 
 
 
この『人生をあきらめる』という病は、
 
なぜかとても若いときにかかる。
 
主に思春期のころだ。
 
そして、それが人生の終わりまでずうっと続くのだ。
 
 
 
今考えてみても、なぜ若いときには、
 
『人生ってくだらないな。』
 
『この世界はもうどうしようもない。』
 
とあきらめてしまうのかは、分からない。
 
 
 
何を参考にして、判断を下すのだろうか?
 
 
 
ひょっとしたらこの時期は、
 
大人からの分離とともに、
 
やはり大人というものへの『信頼』がどこかにあるのだろうか?
 
だから、『大人ができない、ということは自分もできない。』と考えるのだろうか?
 
 
 
そういえば僕は、大人がいうことを信じない子供だった。
 
僕は、いつも自然を見つめていたから、
 
大人が『これはこうである。』といっていることが、
 
どうにも自然、つまり現実に起こっていることとは合致しない、ということに気づいていた。
 
 
 
だから、僕は、同世代がどんどん人生をあきらめていく中で、
 
人生をあきらめることができなかったのかもしれない。
 
『だって、そういう風になってないでしょ!』
 
「大人」から何かをいわれても、いつもそう思っていた。
 
だから、「大人」が言っていることが「正しくない」ということを証明するために学び、
 
そして、ついには、やっぱり「人々」が信じていることは全然間違いであった、ということを自分のなかで確信した。
 
 
 
でも、多くの人は、自分の「考え」を支えてくれる支柱がないから、
 
どこかで『大人がいっていることは正しいのかもしれない・・・』
 
と思い、ついにはあきらめてしまうのかもしれない。
 
僕が、自然という「揺るぎなきモノ」をみることになったのは本当にラッキーだったのかもしれない。
 
 
 
まあ、とはいえ、
 
やはり、思春期を抜け、いわゆる「大人」になったときには、
 
あらためて自分を見つめ直すことができる。
 
 
 
親から自立した、論理的な思考をもってすれば、
 
自分がいかになにもせずに人生や「夢」をあきらめてしまったのか分かるだろう。
 
 
 
さあ、ここでもう一度自分に問いかけてみて欲しい。
 
あなたは、なにかをあきらめてしまった前に、
 
一体何を実際にやっただろう?
 
どれくらいそれについて知り、どれくらいの期間をかけて、どれくらいのことをやったのだろうか?
 
 
 
それはひょっとしたら、できるものではないのだろうか?
 
自分はただ何もせずに、ビビってしまって、または面倒で、それをやめてしまっただけではないだろうか?
 
 
 
もしそうならば、ただちに「私には○○○なんてできない。」「私に○○な才能はない」という言い訳を捨て、
 
「私は、○○をしたくなかったので、することをやめました。」
 
と言い換えるようにしよう。
 
 
 
自分に正直になって、事実を受け入れるようにすれば、人生は好転する。
 
ぜひやってみて欲しい。
 
 
 
 
 


「因果関係」とは 「自分が発した感情や言動が巡り巡って自分に返ってくる」という法則
したがって 母親が愛を持って娘に接すれば 娘も愛を返してくれますが 母親が怒りを持って接すれば 娘も怒りを返してくることになる しかし 実際には「自分が愛を与えても、相手がますますいい気になって好き勝手に振る舞うようになったら、愛を与えた自分は大損をしてしまう」などと 思わず 「損得勘定」を行ってしまいがちです
そのため「損をしないように 最初から 愛なんか与えるのはやめておこう」と計算し 自分を守る方向へと進んでしまうものなのです
このような人間関係の上では むしろ かえって自分を苦しめてしまう「損得勘定」を 完全に放棄してしまう方が よほど楽になります
「この相手からは 何ももらわないでもかまわない あげるだけあげて あとは返してくれるかどうかなんて 全然気にしないでおこう それは 相手のためじゃなくて 自分のためにそうするのだ だって その方が ずっと気が楽なのだから」と 良い意味で割り切ってしまうのが得策だと言えるでしょう
そのうえで そう割り切った自分を大いに褒め 「ああ 愛情の等価交換を放棄した私って なんて素晴らしい人間なのかしら〜」と そんな自分を好きになればいいのです

親から可愛がられた人は親から離れていかれるが 親に気兼ねし 親の顔色をうかがいながら育った人はなかなか親から離れていくことはできない
親の欲求不満のはけ口となってしまったような子供は精神的に成長できない 親が子供に甘えるようなものだからである
子供の心は怖くてすくんでしまっている
すくんでしまっていて 一切の精神的活動が行われていないのである
したがって そのような人は豊かな心をもちえない
音楽を聴いても素晴らしい景色を見ても 何をしても感動するなどということがない
もちろん 趣味もない
恐怖ですくんでしまった精神に何ができるというのであろうか
子供のころ親への恐怖で精神がすくんでしまって動けなくなっている人は何をやってもそこに興味を見出すことはできない

人間は他人に何かしてあげることによって その人に好意や愛情を抱くようになる
その人のために世話をやくことが その人への愛情を生み出し 育てる
その人のための行動がその人への愛の感情をつくっていく
そう考えれるば 親は一方的に子供に何かをしてやる存在であってはならない ということになる
一方的に何かをしてあげることだけでは 相手からの愛情を期待することはできない
過保護の決定的な誤りはここにある
子供も家のなかのひとつの役割を担うことで 親への愛情を持つようになるのです
自分の誕生日に親から祝ってもらうだけでは 親への愛情は生まれない
自分が親に何かしてあげることで はじめて親と子供の相互交流ができる
親が子に一方的に何かしてくりものと思っていたら 徹底的に反省すべきである
最初は母親が子供と一緒に父親を喜ばせる また 父親が子供と一緒に母親を喜ばせる と愛情を学べるのではないか


親に甘えたくても甘えられず 恐怖することだけで成長してきた人はどうしても神経過敏になる
小さい子供が親に甘えるということは 何も気兼ねしないでとっぷりと情緒的一体感に浸れる ということである
ところが 親が情緒的に不安定な人だと たとえ表面上子供は甘えていても いつその一体感が壊れるかわからない
自分のちょっとした言葉遣いで急に親は不機嫌になるかもしれない
そこで行動としては 一見 甘えているようでも 子供はたえずびくびくと緊張していることになる
このような緊張のなかで 子供の側にどのような行動があってもそれは心から甘えていることにはならない
そのような子供は甘えたくても甘えられない緊張感と不安のなかで成長し 社会人となっても対人的に神経過敏になる
神経過敏な人間になっていくのは 反発することも 甘えて一体感にひたることもどちらもできない幼年時代 少年少女時代を送ってきた人だろう。
我々が自立するためには 一回とっぷりと甘えて一体感にひたり そこからひとり立ちしていくという過程が必要である
神経過敏な人はこのような過程をもてなかった人である
つまり この世のなかのどことも繋がっていない人である
神経過敏な人は根本的なところで人と離れている
幼児のころ 根本がしっかりと親に結び付き 成長してその根本が特定の場所から離れて一般的な世界そのものに結び付いていくとき 人は自立できたとか 精神的に成長したとかいうのである
神経過敏な人はその根をおろすべき共同体を持てないでいるのである


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