この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2011年05月

「因果関係」とは 「自分が発した感情や言動が巡り巡って自分に返ってくる」という法則
したがって 母親が愛を持って娘に接すれば 娘も愛を返してくれますが 母親が怒りを持って接すれば 娘も怒りを返してくることになる しかし 実際には「自分が愛を与えても、相手がますますいい気になって好き勝手に振る舞うようになったら、愛を与えた自分は大損をしてしまう」などと 思わず 「損得勘定」を行ってしまいがちです
そのため「損をしないように 最初から 愛なんか与えるのはやめておこう」と計算し 自分を守る方向へと進んでしまうものなのです
このような人間関係の上では むしろ かえって自分を苦しめてしまう「損得勘定」を 完全に放棄してしまう方が よほど楽になります
「この相手からは 何ももらわないでもかまわない あげるだけあげて あとは返してくれるかどうかなんて 全然気にしないでおこう それは 相手のためじゃなくて 自分のためにそうするのだ だって その方が ずっと気が楽なのだから」と 良い意味で割り切ってしまうのが得策だと言えるでしょう
そのうえで そう割り切った自分を大いに褒め 「ああ 愛情の等価交換を放棄した私って なんて素晴らしい人間なのかしら〜」と そんな自分を好きになればいいのです

親から可愛がられた人は親から離れていかれるが 親に気兼ねし 親の顔色をうかがいながら育った人はなかなか親から離れていくことはできない

親の欲求不満のはけ口となってしまったような子供は精神的に成長できない
親が子供に甘えるようなものだからである
子供の心は怖くてすくんでしまっている
すくんでしまっていて 一切の精神的活動が行われていないのである
したがって そのような人は豊かな心をもちえない
音楽を聴いても素晴らしい景色を見ても 何をしても感動するなどということがない
もちろん 趣味もない
恐怖ですくんでしまった精神に何ができるというのであろうか
子供のころ親への恐怖で精神がすくんでしまって動けなくなっている人は何をやってもそこに興味を見出すことはできない

人間は他人に何かしてあげることによって その人に好意や愛情を抱くようになる
その人のために世話をやくことが その人への愛情を生み出し 育てる
その人のための行動がその人への愛の感情をつくっていく
そう考えれるば 親は一方的に子供に何かをしてやる存在であってはならない ということになる
一方的に何かをしてあげることだけでは 相手からの愛情を期待することはできない
過保護の決定的な誤りはここにある
子供も家のなかのひとつの役割を担うことで 親への愛情を持つようになるのです
自分の誕生日に親から祝ってもらうだけでは 親への愛情は生まれない
自分が親に何かしてあげることで はじめて親と子供の相互交流ができる
親が子に一方的に何かしてくりものと思っていたら 徹底的に反省すべきである
最初は母親が子供と一緒に父親を喜ばせる また 父親が子供と一緒に母親を喜ばせる と愛情を学べるのではないか


親に甘えたくても甘えられず 恐怖することだけで成長してきた人はどうしても神経過敏になる
小さい子供が親に甘えるということは 何も気兼ねしないでとっぷりと情緒的一体感に浸れる ということである
ところが 親が情緒的に不安定な人だと たとえ表面上子供は甘えていても いつその一体感が壊れるかわからない
自分のちょっとした言葉遣いで急に親は不機嫌になるかもしれない
そこで行動としては 一見 甘えているようでも 子供はたえずびくびくと緊張していることになる
このような緊張のなかで 子供の側にどのような行動があってもそれは心から甘えていることにはならない
そのような子供は甘えたくても甘えられない緊張感と不安のなかで成長し 社会人となっても対人的に神経過敏になる
神経過敏な人間になっていくのは 反発することも 甘えて一体感にひたることもどちらもできない幼年時代 少年少女時代を送ってきた人だろう。
我々が自立するためには 一回とっぷりと甘えて一体感にひたり そこからひとり立ちしていくという過程が必要である
神経過敏な人はこのような過程をもてなかった人である
つまり この世のなかのどことも繋がっていない人である
神経過敏な人は根本的なところで人と離れている
幼児のころ 根本がしっかりと親に結び付き 成長してその根本が特定の場所から離れて一般的な世界そのものに結び付いていくとき 人は自立できたとか 精神的に成長したとかいうのである
神経過敏な人はその根をおろすべき共同体を持てないでいるのである



そしてこの地上に残された覚醒した人間たちは迷走の力を使い、ほかの平衡あ世界とつながりばしめるといいます。
資本主義などまったく価値を失い、誰もがひとりの如来のしたでひとつの宗教のもと、ひとつの科学としてその技術を使い、平衡宇宙の様々な世界に自由にいったりきたりするといいます。もう、死んでいる、生きているといった区別もなくなるといいます。
お釈迦様の観音経の中にこの世界の情景がきじつされています。
人間はもう性交によってうみだされることがなくなり、生命は突然空中からうまれ何万年でもいき、自由に他の宇宙へといき、そして自由にまたもといた世界にもどってくるようになるであろう。
そしてその世界には教えの喜び、と瞑想の喜びしかない。
これがこれからこの世界にくる新しい菩薩の国の情景です。
イエスと釈迦はこの文明からやがてはこうした世界か゛うみだされてくると予言し、みずからそうなる流れをこの文明にうえつけていきました。
その芽がいまでてこようとしています。逆に毒麦はひっこぬかれ、火でやかれ、こうした良い麦たちがこの世の支配権をとりもどし、人々を指導しはじめるというのでいす。平衡宇宙を自由にいきかいするということは実はあの世の世界にも自由にいったりきたりできるということです。そこにはイエスもいます。くもにものっているでしょう。天使の軍団もひきつれているでしょう。
このレベルの進化は実はこの文明のかつての聖者と呼ばれる人たちも体験しているもので実はそんなにむずかしいことではないのです。
ただ全体でより多くの人間がここまで覚醒するためにしばらくはこの世界はなすがままにされていましたが、いよいよこの二千年努力し学んでいた人たちとその逆の人とのすみわけがはじまってきたのです。
まだまだこの出来事はつづきます。
どんな人か゛のこれるかも聖書にはちゃんとかいてありますので読んでみてください。
右の人、左の人というたとえです。
右の人たちがつぎの時代をつくっていく人たちです。
あなたはどちらの側の人でしょうか。

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すべての生命は平等であり、地球の上ではそのつながりによって生態系のバランスがとられています。そしてさらにいうとこの宇宙と平衡して存在している無限の世界があり、そこに住む生命体たちとのつながりによってもこの創造世界全体がバランスがとられているのです。これまで人間が犯してきた地球の生命全体に対するバランスの戻りが、さまざまな自然災害になってこれまで、そしてこれからもおこるでしょう。それはちょどわれわれの世界が他の平衡世界にいきる生命たちとつながりあうための精神の浄化といえます。こののち、イエスの言葉をかりれば、この地球上の人間たちがいかされている存在であるということを思い出すまで、大自然の巨大な矯正作用はつづきます。
そしてだれもが神を敬い、これまで人間がしてきた過ちをみとめ、天の雲にのってくるイエスの姿をみることができるくらい覚醒するまで地上の混乱はつづくといいます。最後はもろもろの天体が揺り動かされ、星が地上に落ちてくる、というレベルのことまでおこるとイエスはかたっています。
このあたりのイエスの言葉がのちにノストラダムスの予言のモチーフになっています。
そしてそののち、この世界は菩薩の国がうまれるというのです。
これが世の初めからこの世界に残されていたこの文明のシナリオだとイエスは語ります。
最後に残るのはみ国の子供たち、本物の信仰心をもった人たちだけだといいます。

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地震の被害、地震による津波で多数の死者がでた。地震で多数の死者がでた。地震で原発から放射能がもた。
日本ではいま、なにもかもが地震の被害、という言葉であらわされるような状況になっています。しかし、この言葉はよく考えてみると、人間の視点から見た言葉です。
地球的レベルでみると単に地球表面をおおっている岩盤プレートの継ぎ目が重力によってひっぱられ、それか゛自然にもとにもどったためろ地表に振動がはしり、さらに海の水にその振動が伝わり、そこから水ずあふれ、地表のはしっっこにかかった。
しかしこれによって地球の表面に食い込んでいたプレートがもとにもどり、自転しやすくなるとともに全体の調和がとれて地球としては以前よりかなり快適な状況がととのった。しかしこの運動が地表に生息している人間という生き物からみると大変な出来事で、あふれた水は地球からみるととるにたらない量であるかもしれないが、それがかかった地表のはじっこに生息していた多数の任下゜ンがおぼれ死に、さらに自分たちの動力源である電気を作り出すための原子力発電所までこわれて放射能という人間地震の細胞を破壊する物質までそのまわりにあふれてしまった。地球からみるとそんなくらいの放射能などほおっておけば、そのうち消えてなくなる。しかし、これが人間というサイズの生命からみると大変な問題で、ひとつの国の機能までもがたったひとつの地震でこわれてしまうにいたった。
こんな見方をすると逆に人間はいったいどれだけのほかの生き物たちの命を奪い、この地球地震の生態系を壊すようなことをこれまでしてきたのでしょう。
すべての生命は大小かかわらずすべてがこの地球という惑星の上でつながりあっています。きれているものなどひとつもありません。魚も牛も馬も豚も、鶏も、大豆も麦も、ありも、鳥も、キャベツも人参も、螻蛄もゴキブリも、害虫という言葉がありますが、それは人間がかってにつくった味方で大自然では蚊もハエもゴキブリもみなその秩序にしたがって生まれいきているだけです。人間がゴキブリやネズミを駆除するといいます。この地球にとっての害虫はまちがいなく人間でしょう。年間五百万トン以上の食糧がここ日本では捨てられます。そのほとんどは牛や魚や鶏や豚、や野菜です。
いったい何頭の牛がすてられるためにころされているのでしょう。いったい何頭の豚がすてられるためにころされているのでしょう。一体何羽の鶏がすてられるためだけにころされているのでしょう。
人間の被害によってこの地球上では一年間、いえ、これまでどれだけの生命が無残にころされてきたのでしょうか。牛にも親子の情愛はあります。豚にも親子の情愛はあります。今回の地震の被害よりも人間の手によって虐殺された生命たちの被害は創造を絶します。

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