この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2014年03月

気配りをする、相手の気持ちを考えて行動する。。。って 自分の内側が穏やかでないと なかなかできないことなんですよね?


気配りをすることがストレスになっている人をよく、みかけます。


ストレスかかえるくらいなら しなきゃいいのにねって思います。

ストレスを感じるって、自分を大切にしていないということなんですよ。

自分を大切にする前に、相手を大切にしているってことです。。。


気配りも段々です。

ストレスを抱えなければいけないくらい気配りする必要があるのでしょうか?


気配り。。。できる人と思われたいんですね?

人から認められたいから 自分を大切にせずに相手を大切にしようとするんです。


その「人から認められたい」って気持ちは あなたを幸せな気分にさせますか?




このように

相手との調和を無理してする必要はないのです。
できる時でいいんです。
出来ないときは 無理してするんじゃなくて 出来なくてごめんなさいと謝ればいいんです。


それが、本当の調和です。


『ごめんなさい』という言葉は 相手との調和を取る言葉なんです。


自分の非を自ら認めて、素直に許しを乞う人には 神様が味方になっていただけます。

できることまでは努力は必要です。
出来ないときは素直に謝るんです。

愛、調和ある行動って気配りなんだと思います。


お互いに、相手を思いやる気持ちがあり それを態度で 形で表す ってだけです。

それは やらなければいけないという恐怖心からくるものでなく、心から相手と仲良くしたいという気持ちから生まれるものです。



相手が自分を怒るのは、相手のエゴが反応しているからだ。
わたしは悪くない!と言う人がいますが これは、開いた口が塞がりません。
自分が相手を怒らせてしまったなら まず、自分の過ちを認めて 素直に謝ることが必要ですし、調和を持って 相手の立場を思いやる心配りが必要です。


素直に謝る、、、正直に言うことが絶対とは言えません。

嘘も方便という諺があります。


結婚しているにもかかわらず 軽い気持ちで浮気をしてしまい バレてしまった場合は 特にそうでしょう。

嘘を突き通すことを必要な時もあるということです。

仲良くしたい!申し訳ない!という気持ちから出る言葉は 相手を癒します。

次には必ずしなければいいんです。

何回もは 通用しません。



自分の自我を見つめ 攻撃することなく相手との調和を取りながら生きていけるようになるといいですね〜。

鏡の法則の罠

相手に迷惑をかけていいという世界はこの宇宙、どこを探してもない。


相手に迷惑をかけて、結果 相手が自分を鏡として気付きを得たとしても それは、相手の気づきであり、自分はただ鏡になったに過ぎない。


相手を思い遣り、尊重する行動をしてもなお 心の隙間に入り込んだ自我によって 相手を傷付けたり 迷惑をかけてしまう時は 素直に謝ってください。

相手に気付きを与えるために、自分が闇を演じる必要はありません。

自分が闇を演じるという自負心は 自分の成長を止めます。


愛とは、調和です。
思い遣りです。

相手に迷惑をかけない努力は惜しまないようにしましょう。。。

愛する人が欲しい。。。にコメントをいただきました。


「こんにちは(笑) そうですね。 しっかり自分を好きになって置けば 
他の人が好きっ!って言ってくれてもちゃんと受けとめられますね。」



自分を愛するようになると、このような発想は持たないです♪


自分を愛するって

自分を愛しておけば。。。という保険みたいなものではないのです。


また、今日UPしました「娘から学ぶ」の中に娘の言葉が書いてあります。


「だから お母さんでも わたしが態度が悪ければ離れていくと思えば 素直に謝ったりできるのだと思いますが そう思わないので どういう思考に持っていけばいいのか分かりません。」


娘の言葉のように そのような(ネガ的な)思考にならないのです。


『自分を愛する』と、自分の思考が変わるんです。

思考が変わるというよりもネガ的発想が起こらなくなるのです。

伴侶が欲しい、愛する人が欲しいという心は 愛されたいという心から発生するものだと思う。

結婚したい
伴侶がほしい
恋人がほしい

と、思う人はたくさんいるけれど

なぜ、欲しいの?

愛されたいから?
誰に?
自分の愛する人に?

自分自身を愛してもいないあなたを愛する人がいるだろうか?

自分自身が魅力を感じないあなたに魅力を感じる人がいるだろうか?

わからない。。。

自分を愛してもいないのに、他人に求めても無理だよ。。。

あきらめよう〜♪♪♪

あきらめて

自分のことを好きになろうよ♪♪♪

もっともっと、好きになろうよ♪♪♪

自分を磨こうよ♪♪♪



でもねぇ

ちゃと 自分磨きして 自分を大好きになったら そんなに必要に思わなくなるよ♪

そんな時に現れるんだよ
きっと。

昨日ね 娘の言動で あれ?と思うことがあったので あえて、指摘してみました。


まあ、他の人には 素直に笑顔で接することができるのに わたしには無愛想で 素直に謝らないってことです。

そして、そのことについて 自分で考えて、レポートを提出するように と伝えました。

わたしがお風呂に入っている間に書いた内容がこれです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

なぜ 友人やバイト先の人々には素直になれて お母さんには素直になれないかを考えたところ

お母さんは私のことを見捨てないというよくわからない自信があったからだと思いました。
どれだけ怒られても離れていくことはないだろうという安心感と お母さんは言わなくても分かっているという確信が そういう行動を招いているだろうと考えています。

だから お母さんでも わたしが態度が悪ければ離れていくと思えば 素直に謝ったりできるのだと思いますが そう思わないので どういう思考に持っていけばいいのか分かりません。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



正直でよろしい♪


要は、恐怖心を持つ思考を教えていないから 人のことを疑う思考にならないんですね〜


たくさんのいいお友だちに囲まれています。


バイト先では 可愛がられています。

目の前のことに一生懸命に取り組むって

どんなことか知っていますか?


それは

生きるために必要なことをする ということ。


まず今、生きるために必要な食料を得る行為をするということ。


それだけです。



自分ひとりで生きているわけではないですよね? 親、子供がいるはずです。
一緒に目の前のことを一生懸命に取り組んで 問題なく過ごせるようになったら 生活を良くすることを考えていく。。。


物事には優先順位があります。

間違えないように!



生きていくための食料を得る行動は当たり前のことです。

食べるものがないのに、他のことは考えられないですよね。


家族力を合わせて、生きるんです。

それができたなら
仕事をしているなら 向上することを目指す。
学生なら 学業に専念するんです。

娯楽は ただの癒しでしかないんです。

娯楽は現実的なものではありません。

娯楽だけでは 生きられない。




生活が楽にならない。。。
って

生きていくために必要な食料を得る行動をしていますか?

どうやってでも 生きていこう!という気持ちはありますか?


生きていくための優先順位はわかっていますか?

向き合うことは 相手を鏡だと思って行動すること。

相手と同じ方向を見ることは
相手が観ている景色を観ること。



自分の内側に自我がある場合には
相手が観ている景色を観ることは難しいかもしれない。

だけど、
内側の自我が少しでも なくなってきたなら
相手が観ている景色を観ることが出来てくるんだと思う。

寄り添うって そういうことだと思うなあ。。。



自分だけが見える景色だけみていても 飽きちゃうね〜



相手と同じ景色を観ていきたいものです。。。

意識の段階(2)

前回の日記の続きです

時間と運命に対する認識は、

第一段階、過去から未来へ流れる、因縁因果の流れの中にいる。
第二段階、未来を現在に引き寄せる、因果の流れを知り、自分が運命を改善し、創造する。
第三段階、過去、現在、未来がなく、今ここにすべてが「在る」状態。


気になる(反応)対象は、

第一段階、自分の外にあるもの、物や人、環境、目に見えるもの。
第二段階、自分の内にあるもの、精神や魂、目に見えないもの。
第三段階、存在そのもの、全対象。

人生をより良くするための認識は、

第一段階、自己啓発、勉強、修練、努力、社会的地位、金銭、人同士のつながり(外的なもの)。
第二段階、魂の浄化、意識を高める、瞑想、祈り、言霊など(内的なもの)。
第三段階、無限の可能性と、すべてはシナリオ通り、今「在る」ことの気づき。

神とは?

第一段階、自分を救ってくれる存在、自分と異質な存在、自分の外に存在する。
第二段階、自分の生命の元、自分と同質の存在、自分の内に存在する。
第三段階、自分そのもの、神とは自分、神しか存在していない、あるいは自分ししか存在していない。

などなど、このように三つの次元に分けて見ると、意識の状態が分かりやすいと思います。

これらの段階のどれが良い悪いというより、それぞれの意識段階を体験するために、私達は霊幽肉の三位一体の自分となって、ここへ派遣されて来ているというような感じです。

理解も認識も違うこの三段階。
第一と第二段階は、水の中ですが、第三段階は水の外、この差は大きいと思います。

これらが混ざり合って紹介されているのが今の「精神世界」と言えそうです。自分の段階とあった内容に出会えば、それが有効なアドバイスとして機能しますが、食い違っていると、自分の求めていたものとは違う・・と感じてしまったりするわけです。

例えば、意識が第一段階である人に、魂の浄化や、世界の平和、人類の次元上昇などの話をしても、頭にあるのは、現実的成功や自分の欲しいものを手に入れることであったり、体の健康や寿命のことであったりするので、第二段階における霊的価値観は、理解されがたいものとなります。
また、そのような方が宗教に走ると、現世ご利益の神頼みとなってしまうこともあります。
この第一段階の意識の方は、現世における良い環境を得るための手段として、「何か」を模索しています。その何かが、宗教になったり、哲学になったり、様々な日々の行動になってゆきます。
そのため、その目的が達成されなければ「自分には合わなかった」という判断を下すのです。

もし、意識が第二段階へシフトすると、この世の苦しみがあったとしても、それは魂的成長や、未来をより良くしてゆくためのプロセスとして見ることが出来るので、苦しみとはならず、精神的霊的な成長として生きがいを感じることになるわけです。この世の幸不幸にはあまりこだわることなく、それなりの満足を得る。

そしてさらに第三段階まで進んでくると、自分のことと、周りや世界のことが、別々なものでなく、一つ意識として存在することに気づきます。同じように世界平和のためにお祈りを捧げていても、それは他人事ではなくて、自分の本心から湧き上がる、無心の祈りとなってくるわけです。

無心というのは、自我が関わっていないということです。自我は、たえず自分にとってどういうメリットがあるかということばかり考えています。その思考範囲外に存在しているのが、真我、水の外にいる自分です。

その水の外にいる自分は、水の中で、必死になっている自分、何かを求めている自分、たえず自分のコレクションを増やして満足しようとしている自分ではない、全てに満たさて悠々とした自分が存在しています。その自分へスイッチが切り替わると、「なんだそういうことだったのか」となるわけなのです。

すべてとの一体感、愛と喜びそのものの世界、そこから分離したように感じた分だけが、不安と恐れになっています。不安と恐れは、分離感からくるものです。分離感が消え、自分と何かを隔てる壁が消えてゆくごとに、不安や恐れは無くなります。それを愛といいます。

人は誰でも最初からこの愛の中で存在しています。それが本来の神なる自分の姿です。
最終ステージ第三段階、人生ゲームもここまでくると、出口が見えて来ますね。

これをゲームの世界でいえば、
第一段階、ゲームをプレイ中、必死になっている
第二段階、ゲームをプレイ中、楽しんでいる
第三段階、ゲームをしていることを知っている、そのゲームを降りることも出来るし、続けて楽しむことも出来る

そうです、第三段階へ行って、またもう一度最初の第一段階をプレイして楽しんでもいいわけですね。凡人であって凡人にあらず、また違う世界を味わうという選択もあります。
いや、もう人間は卒業します、という方もおられるでしょう。
いろいろな選択があり、いろいろな世界と体験がある。

すべては自分次第。
それを考えただけでもワクワクしてきますね。





マイミク ツトムさんの日記からの転載です。


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意識の段階(1)

同じ世界で、同じように生活していても、意識の世界によって、見えている真実が異なってきます。それを分かりやすく三つの段階にしてみました。

第一段階、社会的常識の次元

日々の生活の中の営みのすべてが、この次元にあります。
正しいこと、悪いことの判別、自分のために人を傷つけない、人間同士がお互いの利益を損なわない共存関係を保つ。
それを維持するための、警察や国家、法律などの存在。

ここでは、私とは肉体の自分が全存在ですから、死は人間の終わりとされています。
そのため、肉体にとって良い環境、状況を整えることが幸せであると思われています。

第二段階、霊的意識の次元

私とは肉体ではなく、霊そのものであるということを理解している次元です。
自分の本質は、霊なので、肉体が滅びても、霊は滅びることなく生命は生き続ける、だから今の目の前の出来事だけで幸不幸を決めるのでなく、魂的成長や生死を越えた価値観に生きること、(輪廻転生や因縁因果)すべての現象は自らが引き寄せてくる、ことなどを理解しています。

第三段階、一つ意識(ワンネス)の次元
私という存在そのものがなく、霊や魂、「個」としての存在そのものがないことを理解している次元です。
全てはつながっており、たった一つの大いなる意識だけが存在している、過去、未来がなく、今だけが存在しているという次元。
幸せと不幸や、善と悪、光と闇など本質的には同じもの、陰陽を越えた絶対「空」の世界。


これらの意識の段階は、神が個体となることすなわち、自己忘却のステージ(第一段階)からはじまり、自己発見(第二段階)を得て、元の姿へ戻る(第三段階)というプロセスで、それぞれの段階において、見えてくる世界や認識、そして真実が変わります。
そのため、各段階の人々では意思疎通は計れませんが、上の次元から見ると、下の次元の状態がよく分かります。
逆に、下の次元から上の次元を見ても、理解出来ません。
段階というと、上とか下とかをイメージすると思いますが、私達は誰でも、この三つを同時に体験していて、今意識がどこで暮らしているのかが違うということになります。

この三段階、まず死に対しての認識は、

第一段階、肉体が死ねばすべて終わり。
第二段階、人間は霊魂なので、肉体が死んでも生き続ける、前世があり、来世がある。
第三段階、個としての魂は、大いなる魂の一部、そもそも死という概念がない。


自分と他人に対する認識は、

第一段階、別の存在、個の自分と他人は分離している、 自分の幸せのために他人を利用している。
第二段階、他人は自分の鏡、他人を幸せにすることで、自分が幸せになろうとしている。
第三段階、自他分離感の消失、全てが自分。


幸せに対する認識は、

第一段階、幸せな環境が整えば、自分も幸せになれる。
第二段階、自分の意識が幸せになれば、幸せな環境が引き寄せられる。
第三段階、幸せも不幸も同じ一つのもの、幸不幸を超えたところに至福がある。


自我の状態は、

第一段階、自我で動いていることに気がつかない状態。
第二段階、自我に振り回されずに、自分を客観視出来る状態。
第三段階、自我が消えた(無我)状態。

という感じで見てみると面白いですね。





マイミク ツトムさんからの日記の転載です。

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