この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2014年05月

頑張ってるのに!!!



って よく、聞きます。



そして、頑張ってるのに、変わらない!!!

とも よく、聞きますね。



現実を生きることを頑張っていたら、必ず 変わります!



現実逃避という選択をしていたら どれだけ頑張っても報われません。


そういうものです。




現実が変わらないなら、それは現実逃避だと言うことですね。


シンプルです。

物の時代から心の時代へ

というのは

欲を離れ、心のやすらぎに人生の真の価値を見出すことなのです。


心とは、お金によって代替されないものであり、求めようと思えば誰でも求められるものであり、求めても失うことのないものです。
奪いあうことも、ひけらかすこともありませんから、所有も比較も競争も生むことはありません。


その『心』のやすらぎが根底にある生き方をすることによって
奪い取られることもなく、得られたものだけで質素に生きていく、足るを知る生活の中に 喜びを見出していけるのです。

自分の心の中に

こだわり、トラウマ、闇

があるうちは

相手を思いやるよりも自分を思いやることを重要視してもいいけれど

心の中のこだわり、トラウマ、闇

がなくなったときには

相手優先で大切にするべきなんです。
それが、上にいる者の務めなのです。

なぜならば
もう心に障りがないからです。

相手に対して、自分の心に障り、引っ掛かりがない状態だから

相手と自分を区別することなく接することができるのです。

そのような状態になったときには

自分を優先するという行動はやめて

相手と自分の両方を思いやる行動をしていくのです。

それが 愛の実践になるのです。

わたしは『他者への奉仕は余録でいいのです』と書くのは、
自他の区別がまだあるうちは。。。という条件があるのです。

だから
自他の区別がなくなったときには

自分だけを大切にするという行為はやめて
自他共に大切にしていく、行為をしていく。。。

他者への奉仕のパーセンテージが高くなれば高くなるほど、周波数は上がります。

ライトワーカーは 地球の次元上昇とともに 周波数を上げていくのです。

自分がライトワーカーだと思うなら、実践してくださいね〜♪

周波数が上がっていても、我が道を行く という方もいらっしゃいますので たぶん そのような方は、地球に見学にしにきているだけなのかもしれません〜



追記


自他の区別があるから、奉仕をしている感があるんですね。

自他の区別がないから、ただ 楽しんでるだけ、ただ 光ってるだけで なぜか、目の前の人も笑顔になってる。。。


愛の実践って仲良くするってことだね

人助けをしたいって気持ちは誰にでもあると思うの。

困ってる人を助けたい気持ちは誰にでもあると思うの。

でも 相手が負担に感じるほどすることでもないんです。

重いのです。

過剰なのです。


それは、人助けじゃなくて、押し付けなんです。



やってあげた感があると、満足かわからないけど
相手は満足していないのかもしれない。


物事はほどほどが大切です。



相手が気を使わなきゃいけないくらいの過剰な人助けは、人助けではありません。


ただの押し付けです。



あなたのためにしてあげてるのよ
という言葉は
自分が満足したいがための言葉ではないですか?

仏教とは、仏陀のおしえという意味です。

従って 仏教は 仏陀が説かれたおしえに学び、そのおしえを自らの人生の支えとして生きる宗教です。

仏教では
悟りを得ることによって『仏陀』つまり 仏さまになるのです。

悟りとは
目先の欲による一時的な快楽に幸せの価値を求めることから脱却して、欲を離れ、永遠に失うことのない『心のやすらぎ』こそ 本当の幸せであると 180度の価値観の転換を計ることなのです。


お釈迦さまの教えは
人間の本当の幸せとは何か、どのようにすれば真実の幸せに至ることができるか、人間はどのように生きるべきか をと言うものです。

この教えを書き記したものが『お経』なのです。


でも 実際に、悟り。。。目先の欲による一時的な快楽に幸せの価値を求めることから脱却して、欲を離れ、永遠に失うことのない『心のやすらぎ』を得るまでは

仏教とは何なのかは、わからないと思います。


この仏の教えこそ
地球で生きていくことの大切さや宇宙的真理が含まれているものだからです。


宇宙ばかりに目を向けて、ご先祖さまがいらっしゃる仏壇や仏さまに手を合わせることもしない人々に この仏教の素晴らしさを教えてあげたいなあ と思うのです。



般若心経の教えの素晴らしさを伝えていきたいと思うのです。


実践こそすべてです。

子供が病気になるのは、親に現実に目を向かせるためです。


親の心の闇が、子供に顕れるのです。


そう考えると
子供は たくさんの気付きを親に与えてくれる存在です。


子供は 自分の身をかけて、親を成長させてくれるのです。



感謝しかありません。。。


どこまでも、どこまでも 子供は 親が大好きなんですね。。。

優しい言葉をかけてほしい。



わたしは
どこででも 自然に お声をかけてお話しします♪

スーパーの警備員さんに あいさつするのは、当たり前のことだし

お散歩していたら時のあいさつもします。

困っている人がいたら すぐに止まって声かけします。



今日 お買い物の時に 一人の男性が 店員さんに商品がどこにあるかを尋ねていましたが 新人さんのため わからずに右往左往していました。

わたし的には勝手知ったるお店屋さんなので 探して ここにあるよ♪と教えてあげます。


また、ある人は 猫ちゃんの缶詰の前でどれを買ったらいいかわからない様子でしたので 声かけして 教えてあげました。


またまた、あるおばあさんは 自動販売機の前で お金を入れすぎたため ジュースが溜まりすぎて 出せないでいました。

だから ひとつひとつ取ってあげたのです。


おばあさんはすごく喜んでくれましたし

レジでたち話していたら さっきのおじさんが わざわざ お礼を言いに戻ってみえました。


ごていねいにありがとうございます。



だから わたしの買い物は長いのです♪



ひとりと話し出すと長い^^




みんなみんな 寂しいのかなあ〜




わたしと話しをして、少しでも 寂しさが紛れるといいなあ〜


頼りないけど、少しは体力回復したから 抱っこはできるよ^^

【利他心】
自分の利害はさておき、他人に利益となるよう図る心。

1他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと。
2仏語。人々に功徳・利益(りやく)を施して救済すること。特に、阿弥陀仏の救いの働きをいう。


自分よりもまずは他人という考え方のようです。

心の内側に他人への嫉妬や拘りがある場合には、ストレスを抱えるでしょう。
それでも、やり続けると、拘らなくなる。。。

やり続けることは、修行になります。。。

修行をすることは、拘りがある状態からない状態にする働きがあるのですね。。。


でも、修行、利他の心の実践をしなくても
先に 自分の心に向き合って 嫉妬や拘りを無くしておけば
利他の実践をしなければいけないと、覚悟を決めなくても 自然にできてしまうのです。


わたしは
インナーチャイルドと向き合って
嫉妬や拘りを自分の心の内側から、解放をしてきました。


だから
心がおだやかです。


心がおだやかだから、利他の実践をしようと覚悟しなくても 自然に できてしまいます。


修行ではないのです。


ただ、ただ 感謝を表して生きているだけです。



利他の心とわざわざ思わずとも 自然に無意識に身体が心が動きます。


そうなると

利他の実践ってなに?と思います。


他者に何かを働きかけるとこは
すべて 自分に返ってくるから
『利他の心』自体がないことに気が付きました。



すべてに感謝をして生きることは、利他の心も内在することになるのです。

楽しいことしている時は 自然に 感謝はできるものだと思うんだ。


だから みな、楽しいことを求めるんだね。


だけど 辛いことや嫌なことの時は楽しい?


楽しい じゃなくて 愉しいんだね^^



大概が

外面がいいんだけで
内面悪いよね。

なんで?

自分の奥さんは嫌いなの?

お母さんやお父さんって嫌いなの?



友達は好きなの?


おかしくないかい?



好きな人とだけ過ごすだけ。。。


自分に都合のいいことしか言わない人としか過ごさない


それが あなたの幸せですか?



それは、
すべてに感謝して過ごしていることではないということを
あなたは わかっていますか?

『乗り越えること』や『克服すること』



アイテムを増やすことでもあるんだよ。




わたしたちは 宇宙人である記憶をなくして 生まれてきているけれど、

ひとつ乗り越える毎に

ひとつ記憶が蘇るんだ。


出来ることが、増えるんだよ。



だから
ガンバレo(`^´*)


根性だよo(`^´*)

ガンバレo(`^´*)

このページのトップヘ