この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2016年04月

自分の中にある神性に気付くと
生かされているだけでありがたい
という感謝の気持ちがわいてきて、生きやすくなるように感じます。 ...


自分の中の神性の気持ちになって考えてみると
肉体をまとうということは、とてもワクワクすることなんだろうなあ と思うのです。


だって、それまでは 泣いている人を見ても 直接、抱きしめることができなかったけど
肉体をまとって 手や足や目や口などを持つことができると
目で相手をしっかり観て、口で『愛している』と伝えることができて
手でしっかりと抱きしめることができるのです。

考えただけで感動します。


自分の内側に居られる神性は、それがしたいんだなあ と思えるのです。


人に暴言吐いたり、けんかなんてしたくないんだ ということがわかります。


少しだけでも、想像してみてください。


自分の内側に居られる神性の立場になって考えてみてください。


そんな時間を持つことが この世に生きる人たちにとって必要なのだと思います。

わたしは 受け取ったエネルギーをダウンロードして言語化する能力は、優れているようです。


これは、自分としては 普通なことで 誰でもが努力をすれはできることだと思っていましたが 誰もが出来ることではないようです。



言語化力


読み取り力が高いのだと思います。



しかし わたし、視えません。


透視力はないです。


サードアイやのどのチャクラは開いていますが、いっこうに視えません。


わかるってやつ。



あと、『想い』は強いです。

念。。。とも言います。



『想い』で動かします。


『想い』って バカにできません。


『想い』が変わると、まず 自分が変わります。


自分の口から発せられる言葉や声も変わります。

そして 普段の行動が変わります。


普段の行動が変わるから、出逢う人も変わってきます。



そうやって、人を惹き付けていきます。



この『想い』って 感謝する心の深い部分にあります。


『祈り』に通じます。



この地球に生まれて、生かされていることに 深く感謝をすると しみじみと身体の奥から温かいものが込み上げてきます。



それが『想い』であり『祈り』です。


その『想い』をこの現実世界で形にすることで この世界は変わっていくのです。



その『想い』が わたしの言語化力で 形作られていくのです。



わたしの使命は
わたしの『想い』を形にすること。



そして それは、わたしが生まれた星から地球へのメッセージです。





このブログでは わたしの生まれた星からのメッセージを綴っているようです。

正しい言葉を使う とは 敬語・丁寧語・謙譲語 とか文法が正しい とか
そういうことを言っているのではなくて、カンタンにいってしまうと
「ケガレ言葉」を使わない、ということです。

日本では古くから、神聖な場所では「祝詞(ノリト)」をあげるわけで
すが、その意味の一つというのは、決してケガレた言葉を使わないため
です。

何度も何度も詠まれてきた祝詞は、完全に神聖な言葉であるから、それを使う限りは絶対間違いがない、というワケです。

ですが、最近の人は、どんな言葉がケガレた言葉で、どんな言葉が間違
った言葉か分からないそうです。私もわかりません。

なので、それを知るためには、古代の神聖な文献である古事記や、祓詞
(ハラエコトバ)といった祝詞を勉強するのが良いそうです。

単純な話、「ケガレ言葉」とは、人に悪い印象を与えるような言葉や、
ネガティブな印象を与える言葉のことです。

「バカ」とか「グズ」とか「てめえ」とか、「疲れた」とか「キモい」
とか、 そういう言葉です。

自分が言われて元気がなくなる言葉、と考えた方がわかりやすいです。


そもそも「ケガレ」とは、「気が枯れる」という言葉から来ているそう
ですから、元気がなくなる、落ち込む、エネルギーがなくなる、といっ
た言葉です。

逆に、イライラさせたり、混乱させるような言葉も入るでしょう。

繰り返し言いますが、 決してお上品な言葉とか、丁寧な言葉を使いな
さい、といっているわけではないのです。

とにかく「正しい」言葉を使うことで、 まず私達の心や考え方が正し
くなり、 そして、その影響をうけて、周りの人も心が(気が)元気にな
ってくるわけです。

「言葉の力」は、最近の心理学などでは完全に証明されていて、 コーチングや自己啓発では必ず言われることです。

「元気のでる言葉」 とか「運がよくなる言葉」「パワーフレーズ」 とかいった本が書店に大量に置かれているのを見たことある方も多いとおもいます。

ただ、「正しい言葉」 というと、 どうしても「ポジティブシンキング」 と勘違いされてしまうのがややこしいところではあります。

いくら「ポジティブ」であっても、「ケガレ」ていては正しい心、つまり本当に深いところから元気になる言葉とはなりません。

元気であっても、方向性が間違ってしまえば、 いわゆる「暴走族」みたいな感じで、力の使いどころを間違えてしまうことになりかねませんから。

さて、では、どうすれば言葉を正すことができるのか?

その方法としては、一番手っ取り早い方法、簡単な方法としては、 古事記や四書五経を声に出して毎日読むことなんだそうです。

ようするに古い言葉で書かれた「教え」の本を声にだして、繰り返し繰り返し読むことによって、 自然に脳がその「正しい言葉」をインストールしてくれる、というわけです。

考える必要はありませんし、覚えようとする必要もありません。

ただ、声に出して読む。

するといつのまにか家庭円満になりいじめもなくなるというのです。

素晴らしくシンプルでカンタンですよね。

「古文なんて読めないよ!」と子供達は言うかもしれませんが、 ルビもうってあるし、意味はわからなくてもいいわけですから読めますよ。

まずは母親から始めてみませんか? そういう本ならどこでもカンタンに買えて、 しかも文庫なども出ていますから、わずか500円程度で幸せな人生を歩めるし子供たちを笑顔にさせることができる となるとこれほど素晴らしいことはありません。

とにかく、繰り返し繰り返し読むことで、さまざまな能力が開花ことに繋がると思います。

ちなみに非常に優秀といわれるユダヤ人は、 基本的にみんな子供の頃から旧約聖書を暗記するほど音読するそうです。

まさに! そういうことですよね。 そう、私達のその人生は、たった一つの「正しい言葉」本を音読するだけで変わるのですから「ホントかなあ・・・」 と思った方は、一緒に始めてみませんか?

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「フリーダム フライト」キマさんからの日記転載です。

日記を書くこととブログを書くことって違います。


ブログを書くことは、不特定多数に発信することで 日記は、自分をみつめたり振り返るためにあるものだからです。



わたしは 最初は、ミクシー日記を書いていました。


そして 気づきが増え、自分の内側からの声が起こるようになり livedoorでも全体に発信するようになりました。



全体に発信することは、 見えない相手に意識を置くことです。。


見えない相手に意識を置くことで 世間がわかってきます。



でもね それって、
自分の世界がわかることではないのです。



自分の世界は、自分をみつめないとわからないものだからです。



自分の世界と 自分以外の相手の世界は違います。


同じ波動領域で生きているわけではないからです。



自分以外の相手ばかりを観ていると、自分の生きている世界がわからなくなります。


自分以外の相手の世界が自分の生きる世界だと、錯覚をしてしまうのです。


だから 外側ばかりに目を向けていると 自分が見えてきません。



自分の目の前の相手は 自分を映し出してくれる相手ですが
それを飛び越えた相手は、自分の世界ではないのです。



だから、テレビに映る世界は、自分の生きる世界ではありません。


だけど 人は、それをわからずに 同じだと錯覚をしますね。


テレビに映った人たちばかりを観ていると、自分がなくなっていきますよ。


幻想の世界が現実だと錯覚をしてしまいます。



自分みつめをしていると、瞬間、瞬間 次元が代わっていることがわかってきます。


物の位置が微妙に違います。


家具の位置も微妙に違うことがわかります。


また、あきらかに 『ここは、地球じゃない』とわかるときもあります。


見える月も違うからです。



わたしたちは そうやって、次元の旅をしているのです♪


そうわかると、自分みつめをして 自分を振り返る一日は、なかなか楽しいものですよ♪

ジャッジしてもしなくてもどちらでも良い



思い込みやこだわりがあり ジャッジしてしまうことがあると思います。


スピリチュアルな世界では、ジャッジすることを手放しましょうと言われますが


ここは まだ、二元性の世界です。



自分だけがジャッジしなくても 目の前にいる人がジャッジする人だと なんらかの影響を受けてしまいます。


結果、ジャッジすることは良くない とジャッジしてしまうことになるかもしれません。


そうならないためにも


ジャッジしてもしなくてもどちらでも良い


ということを覚えておきましょう。



ジャッジしないことが良いことではなくて

ジャッジすることが悪いでもなくて

ジャッジしたい気持ちが悪いものでもなくて

ジャッジしないようにしなくてはならない と こだわることでもないのです。



どちらでも良いことなのです。



ジャッジしても悪いことではないですよ♪

先ほど

自分を愛するということは、自分の行動に責任を持つことと隣り合わせなのです。

と書きましたが

簡単な言い方をすれば


遊んだ後はお片付けをしましょう


ということなのです。



おもちゃを出したら片付ける


片付けるまでが遊びです。



それを おもちゃを出したら出しっぱなしにしてはいけないよ ってことです。


片付けること前提で遊ぶのです。


片付けることを前提で遊ばないから、出しっぱなしになるのです。


片付けることを考えたら、遊び方も考えるでしょう。



最後の片付けがしたくないから、遊びは面倒だと考える人も少なくないと思います。


だけど それだったら、楽しい気持ちは味わうことはできませんね。




楽しいことが考えられない人は 最後のお片付けをしたくないから、考えたくないのではないでしょうか?



それが めんどくさい という言葉になるのだと思います。



遊ぶだけ遊んで、後始末はしたくないのです。


後片付け、後始末


それが責任感です。




大きな遊びをしたら。後片付けも大変になるので
最初は、後片付けが簡単なお遊びから始めればいいのではないのでしょうか?




最初から大きなことをしようと思うから後片付けも大変になるのです。




どれくらいの後片付けができるかで 自分の器がわかるのです。




自分を愛するって どれだけ自分の行動に責任を持って生きていけるか!ではないでしょうか。。。



自分を愛することができるようになると
この地球、自然に愛されている 生かされていることに 気づいてくるようです。



そして 生かされていることに感謝ができるようになるのです。



そうなると とても生きやすくなりますよ。


自分を愛する、ということがわからない人がいます。


それは 痛みに鈍感だからだと思うのです。



わたしも かつて、

わたしはストレスなんて無縁だわ!

と言っていた時期があります。



また、どんな楽曲を聴いても どんな映画を観ても感動したことがありませんでした。


『感動する』ということがわかりませんでした。

また、『感謝をする』ということもわかりませんでした。


ありがとうございます と言うことが 感謝をすることだと思っていました。



だから いつも、お前は心がない!思いやりのかけらもない!と叱られてばかりいました。



これは すべて、ハートが閉じていたからです。


それを知らなかったから、叱られていた。。。



今なら、わかりますが 当時のわたしには理解ができなかった。。。

当たり前です。


ハートを閉じてしまうような躾をされて 心がない思いやりがない と言われていたのですから。。。


ハートというものは、あまりに辛い出来事があると 感じないように閉じてしまうのです。

そうやって、身を守るのです。




ハートを開くって大切です。



どうしたら ハートを開くことができるのでしょう。



それは 自分が好きだなあ と思えることを思いっきりすることです。


でも 理性があると、なかなかできない人も多いでしょう。


また、好きなことが見つからない。。。という人もみられます。



趣味がない。

何をしたら良いかわからない。




本当は やりたいことは山ほどあるのでしょう。


だけど 自分で自分に制限をしているのです。



最初はどんなことでも勇気がいるものです。



結局は 勇気 なのです。


勇気がないと何もできません。


そして それをすることの責任です。



何か、それをすることの責任を取れないから勇気が出ないのです。



わたしたちの人生はすべて、責任がついて回ります。




結局 自分を愛する、ハートを開くことは
自分の行動に責任を持つことなのです。



気持ちが浮いて、ハメを外しても その行動に責任はついて回るのです。



自分が好きだなあ と思えることを思いっきりするにしても 責任はついて回ります。


だけど そこを越えていかないと 自分を愛することはできないのです。



自分を愛するということは、自分の行動に責任を持つことと隣り合わせなのです。




わたしは 自分を愛することに一生懸命な時は、人を傷付けていました。

そして その度に責任を取ってきました。


でも どれだけ人を傷付けても わたしは自分を愛することをやめませんでした。

その度に、責任を取ってきました。




そして 今の自分がいます。

花を咲かせるには、

まず、大地の役目を求められます。


大地を耕して、土壌を良くするのです。

水分もたっぷり与えて、栄養もたっぷり与えなければいけません。

太陽の陽も浴びるのです。



そうやって 土壌を良くしてから 種を蒔きます。


種を蒔くと芽が出てきます。


太陽の陽を浴びて、水分もたっぷり与えて、光合成を盛んに行います。


すくすくと伸びます。


栄養や陽を浴びるほど、しっかりとした根っこや茎になります。


線が通って、軸もしっかりしていないといけません。



そうやって すくすくと育ってから、花は開くのです。



人生の花を開くのも同じことです。


根っこがあって、土壌が安定して 茎がまっすぐに伸びて、軸があること。


それがあって、花が開くのです。




それが 花の咲かせ方です。

先ずは 本当の自分を取り戻す。。。

と書きましたが、


この熊本大地震をスタートに

思い込みを外される〜♪
という流れがやってきているようです。


今までは、自主的に自分のこだわり、思い込みを外そう!という流れで来ましたが

この熊本大地震をスタートに

能動的に思い込みやこだわりを外されるという流れになってきているようです。



勝手に、外されていく〜♪
って

向き合うべきことがこんにちは♪とやってきて、向き合わざるを得ない状況になるってことです。



いと、楽し♪



今まで、自分の心に蓋をしていた人は特に、向き合わされる感情、事件が起こることになっていきます。


その大きな出来事の最たることが熊本大地震なわけですが、他の方にとってもそのような大地震的なことが起きて、向き合わざるを得なくなってきますよ♪ってことです。


待ったなし♪で〜す。




今まで コツコツ向き合ってきた人は これからも、コツコツ向き合っていくのでしょうが

今まで 野放しで来た人にとっては 非常に、大変な情況になるかもしれません。



しかし それは、すべて 自分を取り戻すために起こっていることなので、真摯に受け入れていくしか手だてはないようです。


ここで イヤイヤしていても、ありとあらゆる手段を使って、向き合う方向になってくるということです。


そして

一ま〜い、二ま〜い とはがされていくのです。



軽〜くなった自分を想像してみてくださいまし。



雪崩のように、叩き込んできますよ♪



お楽しみに♪




そして 、9月までが助走期間となり それからが本番です。



だから なるべく 9月までのうちにはがせるものははがしておいた方がよいのです。


9月には もっと大きな波が押し寄せてきま〜す♪


今まで自分だと思っていたことが 間違いだったと気づかされますし

今まで思い込んでいたことが まったく逆転もしますしね♪



誰もが、再構築されていくようですね。




だから 今のうちに、はがせるものは はがしておいてくださいまし〜

この世の中は 中庸の世界だから、良いことも悪いこともないとおっしゃられますが わたしはあると思います。

しかし その正しいことを主張することによって 傷付く者がいるから、傷付けられた人は 傷付けた人を悪と呼ぶのだと思うのです。

実際は、『正しいこと』を主張しているに過ぎないのだけど
主張し過ぎるため、愛がないと判断されるのだと思います。

また、主張した人は 自分を愛だと信じているから、それに反発する相手を悪だと判断してしまうのだと思うのです。

これは、善と悪というものではなく
表と裏に過ぎないのだと思うのです。

求めているのは、その正しいことではなく、
その正しいことの内側にある『愛』なのだと思うのです。

その『正しいこと』の扱い方で愛があるかないかを判断するのではないのでしょうか?

だから 現象はただ、現象として受け止めるとよいのだと思います。

そして、先ほどの記事にも書きましたが

その現象を自分の中の絶対愛で表現するだけだと思うのです。

絶対愛の量が低い人は、そのままストレートに主張してしまいますが
絶対愛の量の多い人は、慈しみの心を持って表現されるのだと思うのです。

慈しみの心、それが絶対愛だとわたしは思うのです。

思いやりも配慮することも慈しみの心からです。

宇宙の愛は信頼を根底においた見守る愛ですが
ここは、地球で人が住む星です。

人には手も足も口もございます。

だから、それらを駆使して、慈愛を表現することをしたいのだと思うのです。

そうやって 魂を磨いていきたいんだなあ と思うのです。

見守るのは、簡単ではないですが、 でも、まあ 簡単です。

だけど
わたしたちは、魂の上に肉体をかぶった生き物ですから 魂のままでいるような、見守る愛をわざわざしなくてもよいでしょう。

魂を磨く、魂を成長させるということは

どこまでも見守る。。。ことではなく
手を出し、声をかけ、労り 尽くすことだと わたしは思うのです。

これはわたしの考えですから、間違っているかもしれません。

だけど、そう思えるのです。

わたしたちは、慈しみの愛を学びに来たのだと思えるのです。

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