この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2016年12月

自分が今、ここまで来てわかったことがあるので 書いてみたいと思います。


以前のわたしは 常に 自分を責めていました。

ヒネていじけて責めていました。

ヒネていじけるというのは違いますが 自分を責めるということは、人のせいにしないということなのです。


人のせいにしない代わりに自分を責めていたので 悪いことをしてるわけではないのです。



自分を責める人は人のせいにしない、人に対して思いやりがあるということです。

思いやりが形を変えてしまっただけなんだと思うのです。


自分を責める、って言い方は悪い言い方ですが 要は、自分を律することができるということなのです。


人から

「自分を責めてはいけないよ」と言われて

「自分を責めるのはよそう。自分を許していこう。自分の制限を外していこう」と思うのではなくて、

「自分を責めるのはよそう。自分を愛するために、自分を律していこう」と思うのです。



自分を律することも自分を愛することなのです。

自分を癒し、慈しむことも 自分を律することも、自分を愛することなのです。



以前 わたしは、自分の物差しで人は計ってはいけないと書いたことがありますが 自分を律するのは、自分の物差しで自分を計ることです。

他者を計るならまだしも自分です。



思い込みを手放す、自分を許すということは 自分を計るための物差しを持つことを許されると言うことなのではないでしょうか?


それが草薙の剣ではないでしょうか?



人として生まれたなら、自分専用の剣を持って、自分を律して生きていくのではないでしょうか?


剣を手放したら、人は人ではなくなってしまうかもしれませんね。


かく言うわたしもたまに剣を投げ捨てます^^



もっともっと、精進せねばと心を改め直しました。


自分を責める傾向がある人は 自分を律する剣を持っているということなのです。 

だから、わざわざ その剣を外さなくても良いのだと思います。 


剣の使い方を間違えているだけですね。 



自分を律するための剣です。 

自分や人を責めるための剣ではないですね。

何が言いたいかというと、事件は会議室で把握できるものですし、対処もできるということです。


現場に行かなければいけないということでもないのです。


現場でないと出来ないことでもないということです。


この世界は、人の心の持ちようで如何様にも変わります。



人のために尽くしたいと、そばでいたとしても心を変えるまでするのは難しいのです。


絶望している人に手を差し伸べても手を払いのけられます。

手を払いのけられた人は傷付くのです。

傷付かない人がされることなら構わない。

また 現場に出向いたことで、憎しみを持つ人を増やしてしまうかもしれない。

憎しみが復興の手助けをする場合もあります。


そのような方がまだまだ、多いです。



わたしは憎しみの中では息ができなくなります。

だから、会議室でないと意識を向けることができないのです。


これが わたしの特性です。


だけど わたしと同じような特性を持ちながら、現場に出向いて身体を悪くされる方もいらっしゃいます。


だから、わたしはあえて書かせていただいております。



自分の居る場所で事件を知っても 想いはあっても現場に行けない人もいるということです。


想いがないわけではないのです。


現場に行かないから、想いがないわけではないのです。



離れていても、惨状がありありとわかり動きが取れない人もいるのです。


まあ、このような特異体質は稀かもしれませんが あるのです。


現場に行くから誇らしいものでもない。


現場に行くなら、自分の力を最大限に出し切ることです。


どのような場合でも 自分の力を知り、最大限に発揮することが美しい姿だとわたしは考えています。


だから、自分を知ることが大切です。


生半可な想いで生きているんじゃないんのです。



現場を見なくても すべてがわかることがどれほどのことなのか、わからない人にはわからないことなのです。


だから、わたしのテリトリーは会議室だけで良いのです。

事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!


という名言があります。


うちの娘は、わたしにこれをよく言います。


「お母さんは被災地に行ったこともないのに、わからないでしょ!どんな生活して、どんな想いを抱えているかわからないでしょ!口、はさまないでよ!」


わたし、わかります。


現場に行かなくてもわかります。


わかるとしか言えませんが




人は自分のわかる範囲でしか物事を考えられないように出来ているようです。


そのため わたしという存在は理解できる範疇を越えているようです。



わたしの中では 常に、事件は会議室、わたしんちで起きているのです。





このわたしが被災地に出向いたら、何も出来ません。

会議室の中だから、できるのです。



わたしはわたしのことをよくわかっています。

最近 迷惑メールが多いです。

わたしのアドレスは公表しているため、いたずらでどこかのサイトに登録をされてしまったようです。


そのため メールアドレスをやむなく表示できなくなりました。


これ以上、迷惑メールが多いのであれば メールアドレスを変えることも考えております。



世間には いたずらであれなんであれ 人を困らせよう人を陥れようというヒネた心を持つ方がおられるようです。


このようなことをされると、本当にわたしに依頼をしてきてくださる方のメールを間違って消してしまうかもしれません。


申し訳なく感じます。



また、迷惑メールではありませんが わたしの鑑定を受けたのに、変化がないとの報告をいただきました。


一度、鑑定をしたからって それだけですぐに治すのは、魔物の力でしかありません。

神は治さない。

一度で治るのは毒薬を使うからです。


永年かかってひづみが出来たものは、一度やそこらのヒーリングで治るものではないのです。


毎日の心がけ、積み重ねで治していくものなのです。


わたしがグラウディングをしてね というのはそのためです。


日々の積み重ねが大切だからです。


勉強においては自宅学習が大切ですよね?

いくら、良いとされる先生の講義を受けたところで自宅学習を怠っている人は力がつかないです。

それと同じです。

このブログにはグラウディングの方法は載せてあります。


わたしの鑑定やヒーリングを受けなくても わたしが書いていることを実践して成功されている方も数多くいらっしゃいます。



自分の力で実践することです。


毎日の積み重ねが大切です。


毎日、愚痴の積み重ねでひづみはできます。

毎日の感謝の積み重ねでひづみはなくなっていくものです。




まあ、魔物の力も使いようですが、人の学びを取ってしまうことになるので 一旦は、良くなっても後は魔物に支配されることになりますね。

魔物に支配されながら生かされている方も現にいらっしゃいます。


何が良いのかわかりません。

最近のわたしは 主人に 「お前はおかしい」 と言われます。

言われると ムッとはしますが言い返しません。

彼の常識からすると わたしは常識外れだからです。



昨日 わたしは農家のお客さんから白菜3玉大根3本にんじんたくさんいただきました。

それを調理して食べたところ 主人はおいしい!おいしい!と平らげました。

食事の終わった頃、宅配便が届いたので 配達の方に、労いで 白菜2玉と大根1本を差し上げました。

すると 主人が怒り出しました。

「あんなやつにやる必要はない!お前はおかしい!」

お野菜は 土から抜いてきたばかりでとても新鮮でした。
そのため 主人はそれを一人占めしたかったようです。



一人占めしたい人からすると わたしの行為は おかしい!のです。


わたしは 誰にでもホイホイと差し上げます。


美味しいものだったから、特に 新鮮なうちに食べていただきたくて差し上げました。


これは 昔から変わらないのです。

でも 以前は言わなかったけど、最近の主人は言うのです。


以前の主人は我慢していたのでしょうね。

だけど、最近の主人は自分の意見を言うようになってきたのです。

正直、意見されることは好きではないですが 主人が言いたいことを言えるようになってきたのは、良い傾向だと思っています。


自分の意見を言えず、ひねくれていた時よりはマシですから。




人は このように 自分のこだわり、考え、常識を持って生きているようです。


だから わたしの自由さは自分の常識の範疇にないから 「お前はおかしい」になるのです。


一人占めしたい!

という想いは、人や物にたいしての執着です。



あんなにたくさんのお野菜を家族3人で新鮮なうちに食べるなんて難しい話です。

そうやって 差し上げてなくなったら また、新鮮野菜をいただいてこればよいのです。


結局 次にいただけない、入ってこないと思っているから執着するのでしょう。

また 自分からいただきにいくのは恥ずかしいのでしょう。


わたしには恥ずかしいという発想はありません。


それよりも こんなに美味しいのだから みなさんに食べていただきたい想いで一杯です。



はたして わたしのポイポイ差し上げる行為が良い行いなのかはわかりません。


だけど、
農家のお客さんは、頼むでもらって!と言われますし
宅配便のお兄さんは喜んで遠慮なく持っていかれました。


それだけで ありがたいなあ と思えるのです。




神様は 一日に一回は、毎日 ごほうびをくださると 「平等」の記事で書かせていただきました。


それを ありがたいと思って受け取るか誰にも渡したくないと思って受け取るかは、本人次第です。


神様からの恵みを感謝して受け取り それをお返しするのが感謝している者の行動だと思えるのです。

感謝できなくても良いのです。

そのうち 気付くから。


今、やりたいことを止めないことです。


自分を責めないことです。


自分が悪いんだ。

感謝出来ないのは自分のせいだ。

努力出来ないのは心掛けが悪いからだ。



違います。

感謝出来ないのは、自分が悪いからでも心掛けが悪いからでもありません。


感謝出来ない体験をしたいからです。


ただ それだけのことなのです。



感謝出来ない体験がしてみたいのです。


ワクワク((o(^∇^)o))


感謝出来ないってどんなこと?

どんな気分なのかしら?
楽しいのかしら?

ウキウキo(^o^)oしちゃう〜♪



魂的には、ただ 体験してみたい〜♪のです。



奈落の底に落ちてみたいのです^^


だけど それまでにも 似たような体験をしてきたのでしょうね。

だから、そこに陥りたくない自分と行ってみたい自分のせめぎあいです。


でも やってみたいのです。 感謝出来ない体験を♪



人を傷つける体験もしたいし

上から目線で君臨したい体験もしたいのです。



周りからしたら大迷惑です。


だけど やってみたいのです。


だから、仲間と降りてきているのです。


それをしないと気付けないのです。



傷つくのではなくて 気付くために、自分のやりたいことをやってください♪




宇宙は応援しています。



必ず、気付いて 感謝できる自分に戻ってきます。



自分を信じて、羽ばたいてください。

『この世界にあるすべてのものは感謝するために存在する』



確かに、そうですが 心がやさぐれているときは、感謝出来ません。


そんな時は

「そっか〜 感謝するためにあるのか〜 でも、わたしは出来ないわ〜」
と言って、人に意地悪しちゃうのもアリなのです。

それを、「感謝するためにあるのに、わたしは感謝できない!感謝できない!わたしは最低だ!感謝しなければいけないのに」と 自分を責める必要はないのです。



「わたしには出来ないわ〜」と 人に意地悪しちゃうと 神様から、これでもか!と、カルマ返しをいただきます。


それで 人は「人に意地悪しちゃいけないわ。 教えてくださりありがとうございます。」

と気付けるのです。



それを
「感謝しなければいけない!」と 頑張ると

神様は、指摘しようがないのです。
形としては、感謝してるからです。
気付かせにくいのです。


わたしは 感謝できないやさぐれ女に成り下がると、頭をしこたま壁や柱に打ち付けます。

たんこぶつくってマス。


基本、「〜しなければいけない」と思って生きていないからです。


でも 世の中の人は、出来ないことでも無理をして、「〜しなければいけない」と頑張るようです。


気づきは起こりにくいです。


何故なら 素直にならないように、努力をすると心はどんどん捻れていくからです。


捻れるから気付かなくなるのです。



捻れをゆるめる努力をするのです。

素直になる努力をするのです。


「〜しなければいけない」という努力は、自分の内側に正直になる努力なら良いのですが 自分の内側に逆らう努力は必要ないのです。


「〜しなければいけない」は良くない

と言われますが それは、自分の内側の想いに逆らう努力のことを指すのです。



自分の内側に正直になる努力はしてもよいのです。


今、感謝できないなら 感謝できない自分を一生懸命にさらけ出すことです。


押し込めないのです。



すると 気付かされます。


槍も飛んできますし、頭をぶん殴られます。


気付くことを恐れないでください。


傷つけられているのではないのです。


気付かされているのです。



神様からの愛のムチを敵からのムチだと勘違いするようですね。


勘違いするのは、心が捻れている証拠です。


敵がいると勘違いするのは、心が捻れている証拠です。

この世界の大抵の人は 一日に一度ぐらいは ごほうびがいただけるようになっています。


しかし そのごほうびをごほうびと受け取らなかったら、感謝はできません。


当たり前にしていたら感謝できません。



毎日を意識して生きていたら、身の回りの変化に敏感になるはずです。


そこで 感動を覚え、感謝できるのです。



でも 意識して生きていなかったら 神様からのごほうびを素通りしたり、気付かなかったり、当たり前にすることになるのです。



それって 人として情けないことだと思いませんか?




神様は 誰にも平等に愛を降り注いでくださるものです。


それを気付かないなんて、神様に申し訳ないと思いませんか?



誰にも平等に愛を降り注いでくださるのです。



風を使い、花々の薫りを使い、人を使い、神様はごほうびをくださるのです。

この地球に生きていてくれてありがとうと、神様はごほうびをいつも与えてくださっているのです。



人は与えられることに無関心で、人に与えることをしたがる。



与えられることに感謝が出来ない人が与えられる人になれるわけがないのです。



自身の分をわきまえなさい。



神様から与えられることを意識して生きてください。


人の役に立ちたいとか認められたいとか、感謝できる人になってからです。



与えられることに無関心でいないでください。




神様は平等に愛を降り注いでくださるものです。

癒されて、癒されて、心底 癒されてしまうと
人の役に立ちたいとか認められたいとか という気持ちはなくなってしまうんだね。


だって 癒されきってしまうと それだけで、この状態が世のため人のためになっていることを実感出来てしまうから それ以上、手を出そうとは思えなくなるのです。



誰かを喜ばせたいとか役に立ちたいとかない。



ただ、ただ 愛の中に、身を埋めていたい。。。



それが 世界を平和に導くことだと実感出来てしまうから。。。

わたしは 常に、目の前に居る人は わたしを知るためにいてくれる人 という視点で観ています。


わたしを知るために、目の前に居てくれるという視点で人を観ています。

だって 確実にわかるんだもん。


自分の感情って その時で変わるけど
相手は そうそう変わらないです。


それは 目の前の人は、潜在意識を映し出してくれるからなんです。


わかりやすいです。


だから 常に、自分がわかります。



自分を知ることで 何をしたら良いかがわかります。


そのために わたしは人に逢うこともあります。


今の自分が何をすべきか どのように行動したら役に立つのかがわかります。


今の自分。。。

一定ではないです。


だから、毎日毎日、確かめるのです。


今日の自分はどんな自分?
今日の自分は何が出来る?


お役に立たせていただけること、ありがたいと思います。


生かされていて、ありがたいと思います。


だから、常に自分を知って 自分の出来る力を使わせていただきたいと思っています。

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