この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2017年02月

人間関係を良くしようとするあまり 我慢をされる方や無意識に我慢をしてしまっている方がおられます。


我慢をするという行為は自分を縛りつける行為です。


自分の心を縛りつけるので 心が縮こまってしまいます。


それを無意識にされている方が多い世の中です。


そのため 我慢しなくてもいいんだよ と 心のしばりを緩めるように言われていますね。


心を縛りつけるような我慢を続けると それがストレスになり、病気になってしまうこともあり得ますね。。。


だから、我慢は良くない と言われています。


我慢を止めると心が楽になりますね。


自由にもなります。


人間関係の上で自由になると 人といさかいを起こします。


我慢せずに自由に口に戸を立てることなく喋るからです。


結果 人間関係は悪くなります。


そしたら なぜ、我慢しなくてもいいんだよと言われるのでしょうか?


人間関係を良くするために我慢をしてきたのに、我慢をやめて人間関係が悪くなってもよいのでしょうか?


我慢をやめると一般的に人は 負の感情からとき離れるため、意識が上がります。


意識が上がると、今まで我慢してきた人とは合わなくなるのです。


次元が異なるのです。


我慢をやめて自由になり、口だけ達者になると 人を傷付けるような言動をするので 人間関係が悪くなってしまうのですね。



やれやれ┐(-。ー;)┌

寂しいから人に優しくする人と根本的に思いやりに溢れている人は違います。


見かけは同じように見えるのですが根本的なものが違います。


前者の方は身体が冷えているのです。


冷えきっているから、とにかく温もりがほしくて、それを求めた結果、優しい思いやりがあると言われるのでしょう。


だけど それは対処療法でしかなくて、そこまで冷えているなら根本的な冷えを治した方がよいと思います。


たまにおしゃべり好きでよく笑う人を見かけます。 お話ししているときは気づかないのですが後ですごく疲れます。

わたしのエネルギーを抜き取っているんです。

その場かぎりでわたしのエネルギーを抜き取っても対処療法でしかないのです。



身体が冷えきっている人は心も冷えきっています。



身体の冷えは心の冷えです。



身体の冷えを自覚されている方は 根本的治療をしてくださいね。


グラウディングを継続すれば身体の冷えはなくなります。




心の内側と向き合うこと、内観することや瞑想することをお伝えしてきましたが どれも対処療法でしかないので、まずは身体を温めることからかなあと思い、書いています。

決心して行動するって簡単そうで難しい。


何故なら、決心するって 自分のハートの奥にズキュンって響かせることだから よほどの想いがないと響かせることが出来ないね。


そのためには 意志を強く持つことですね。


決心するには強い意志が必要です。


強い意志を持って決心して行動するのです。


ただ行動するのでもエネルギーは動くけど 行動する前に強い意志で決心すると それだけで周りの人に影響を与えます。



それが『魔法』の原点です。



わたしのお馴染みのピッピは、相手の魂からのサインを瞬時に読み取り、すぐさま 身体が動いたり指先が動きます。


また、ピッピの条件としては、決心して行動するということの他に『絶対愛』が含まれています。


愛に基づく願いは必ず叶うのです。


逆に、愛ではなくエゴだとピッピとペッぺは発動されません。


愛って重要ですね。



だから 魔法を使いたい人は愛に基づく決心して行動するとできるのです♪


原理はわかりましたね。


結局、魔法使いサリーちゃんもわたしも同じです。


指先ひとつで、えい!ってエネルギーを動かします。



だけど いくら決心するといっても自我に基づく決心は、行動が伴わなくて 結局、不発に終わります。


わたしのエゴは花開かないのね。。。



愛の力とエゴの力って雲泥の差だわ。

今までのわたしは 導き手、親としての目線で書いてきていましたが 実際のわたしは母親であると同時に 一社会人でもあります。


一社会人としての目線から書くことってなかったなあ〜 と改めて思い直して書いてみたいと思います。


「助けること」でなく「助け合うこと」です。



「助け合うこと」は日常的に生活の中でやっていることだから 特に気に留めたこともなかったのですが、それが苦手な方もいらっしゃるようです。


上下関係はそこそこできるけど、友達付き合いが下手な人がいらっしゃいます。


上下関係ができるが故に 対等な立場でありながらへりくだってしまう、という方がいらっしゃいます。


人というのは誰しも尊敬、尊重されるものです。

そして また 人には、人それぞれ個性があり、認めあっていくものです。


それが 助け合いの精神を生むのです。


私たちは魂的には繋がっていますが 別々の肉体を持ち、存在しています。


その肉体は ひとつとして同じものはありません。


そのため 自分と相手の違いは当然にあるわけですから、違いをまず認めることから始まります。


違いを認めることって 自分のできないことにクローズアップすることではなくて 互いの違いを知ることから始まります。


互いの、です。


自分の個性を知ることは大切ですが それよりも互いの違いを知ることです。


自分のことばかりをわかっていても仕方がないのです。


互いの違いを認めるためには、相手の優れたことを見つけることです。


それが自分と同じなら、同じだ〜と仲間意識が生まれますし

それが自分よりも優れたことなら、スゴい!と誉めて、教えてもらいたい、助けてもらいたい と思うものです。


その「助けてもらいたい、教えてもらいたい」と素直に感じることが 「助け合い」には必要なことなのです。


人と比べて 出来ないがあっても卑下しないということです。


自慢もしないし卑下もないのです。



昨日もメールのやり取りをしていて「45才にもなってこんなことができない。。。」と書いてあったので、わたしの45才の時の日記を彼女に公開しました。

読んでくれたかな?

アホとしか言い様がないわたしの日記です。


出来ない〜って、出来ないことがあるから それを教えてくれる専門の人がいるのです。


出来なくても、頭さえ下げれればよいとわたしは思って生きています。


その代わり、自分の得意な部分を生かせばよいのです。


パソコンが苦手なわたしは すぐにパソコンの先生に泣きつきますし、できな〜いと仕事の書類を放り投げたら代わりに担当者がやってくれます。

できるとこまでは努力します。

すると、誉められます^^
小躍りします♪



完璧じゃなくても良いのです。



わたしは書いてることはご立派なことを書いていますが、元は すっとこどっこいの何でもありです。


どこでも、頭を下げます。

人に対して素直に接します。


出来ることはさせていただき、出来ないことは教えを乞うかお任せします。


それが助け合いではないでしょうか?


まずは 互いの違いを受け止めることですね。


現実を知ることです。


現実を知りたくない想いがあることもわかります。


だけど、知らないと前には進めないのです。



出来ない!って思い込んでいることって 大概が思い込みや憶測であるのです。


出来ないことは出来ることなんですよ〜♪


自分を条件づけないでくださいね。


可能性が詰まっているのですから〜

結局、自分を救ってほしい、守ってほしいと願っても 本当に自分を救い守れるのは自分自身なんだ ということに気付かないと、そこから抜け出すことは出来ないのです。


それまでは 人を頼り、親を頼るのだと思います。

本当に自立できるまでは、それでいいのだと思います。


よちよち歩きでいるのに、自立しろと言っても出来ないのです。


自立する前には、人を頼ってください。




わからないなら、まずは信頼できる人の言うことを聞いて生きるのです。


その中でヌクヌク暮らしたら、自立したくなります。


成長したくなります。


自分を試したくもなります。


その前に しっかり頼って甘えて癒されてください。


準備が出来たら旅立ちです。



中途半端に外に出ても自立したことにならないのです。

自分を叱ってくれる と言っても
叱ってくれるのかただ、感情をぶつけられるのか虐待されているのか わからない場合もあります。


そのわからない状態が一番、危険です。


自分が誰を信じていいのか頼っていいのかわかりません。


そんな時には、甘い言葉をかけてくれる人に惹かれ頼ります。


叱ってくれる、自体が恐怖ですから近づかないです。



今、芸能人で幸◎の科×に入信出家された方がいらっしゃいます。


自分の辛い立場をわかってくださり、救ってくださいました。


そして 決まっている仕事をほかって告白本を出しましたね。



わたしが親ならば 仕事をきちんと果たすまで、仕事先に一緒に出向き見守ります。


仕事はきちんとさせます。


約束は守らせます。


その上で仕事を辞めさせます。



子供を救いたいと思うのならば、わざわざ告白本は出させません。


人としてやっていいこと悪いことを教え、付いて教えます。


彼女を矢面に立たせることも致しません。


親が無知なら幸◎の科×が教えるべきです。



詳しいことはわかりませんが 幸◎の科×という団体は人を導いてくださる団体ではないのだと思います。



『人を導くことはできないです』と書いておいておかないと間違えて入信される方がいらっしゃるかもしれませんね。

与えることや受け入れることをせずに、自分を受け入れてもらいたいとか〇〇がほしいということがおかしいのです。



欲の塊でありながら、自分を愛に溢れた人だと思い込むことが違うということです。



欲があるなら、まだまだわたしは欲があるんだわっと思って、そこに留まっておけばいい。


しかし、欲があることを正当化するために、わざわざ他者を攻撃したり批判しに出掛ける。


確かに、物事の道理がわからない人を利用する人もおります。


自分がわからないのに近づくから利用されるのです。



わからないなら、ウロチョロしないことです。


動き回るから利用されるのです。


結局、物事の道理がわからない人だけでつるんでいたところでは、そこから抜け出せないのです。


抜け出すためには、自分を叱ってくれる人の話をきちんと聞くことです。


叱ってくれる人を大切にすることなのです。


大切だから叱るのです。

大切だから守るのです。


自分を叱ってくれる人を疎かにしないでください。



何も言わないから優しいのではないのです。


何も言われないのは、大切にされていない証拠です。



信頼しているから、見守るの。。。って言う人に限って、見守る意味を知りません。


見守るとは いつでも手を差し伸べれる場所にいてじっと目をこらして観ていることを言うのです。

ぽか〜んと口を開けて、よそ見をしていることではありません。

物事の道理がわからない人は、自分こそが宇宙の根源と繋がっている と思い込んでいるのだと思います。


自分の主義主張こそが正しい!と思って、他者の発言を耳に貸さないです。


自分は宇宙人だから、という表現をされる方もいらっしゃいます。



ここは地球で人間の住む場所なのです。


人間のとして生きていくために生まれてきたにも関わらず、自分は宇宙人だと主張する。



人間の中味は誰もが宇宙人です。



自分が宇宙人だから、人間に受け入れてもらえなかったとを主張する。


自分が心を開かないことを横に置いて、自分が受け入れてもらえなかったことを主張する。



心を開かない者を誰が受け入れてくれるのでしょう。



自分が他者に何をしたか?努力して受け入れてもらおうとしたのか?人を助けたのか?人の話を親身になり聞いたことがあるのか?相手の立場になり心配りをしたのか?思いやりを示したのか?



自分がしてもらうことばかりを主張して、自分を出すことは拒否をする。



そのような者が宇宙の根源に繋がっていると思うことのほうがおかしい。


宇宙の根源に繋がっているということは、『愛に溢れた人』ということです。



愛に溢れた人というのは、受け入れるし許すことをします。



主義主張はしないものです。

物事の道理がわかって生きている人は それだけ物事を許すし受け入れるから恩恵も受けるのです。

だけど 物事の道理がわからない人は、恩恵を受けている様だけ見て、嫉妬したり羨むのです。


どれほど 人を受け入れ、許しているかは見えないのです。



だから、物事の道理がわからない人は、成長しないのです。



ちょっと考えればわかること と思いますが、考えないのです。


考える頭がないのです。

だから 教えようとしますが、意欲がなく継続力がありません。


根性もないのです。


だから、許し守ることしかできなくなるのです。




感謝がない、継続力がない、自分勝手、さみしがりや、


それでも、生きている限り尊重尊敬できる魂を持っているのだから、少しでも成長してほしい、守っていきたい と思えるのです。




誰もが幸せに満たされて生きていけますように、。



わたしの命の続く限り、守っていきたいなあ と思えるのです。

物事の道理がわからない人から見ると、道理がわかって生きている人は 怖い人とか威張っているとか上から目線に見えるらしい。


守られることの本質がわからないから、守られることが何であるかがわからない。


守られていることがわからないから恐怖を感じるようです。


物事の道理をわかって歩む人はそのような人を許していくことを求められます。


わからないならわからないなりに、切磋琢磨して学んで成長していく人もいれば、学ぶことをやめて気ままに生きていく人もいます。


成長したいと思う者には教え、気ままに生きていく者には許しを求められるのです。



物事の道理がわかっている人からすると 物事の道理がわからない人は、わからないながらも守られているから幸せだと感じます。

なぜなら、受け入れ、許すことを求められないし、責任感を求められないし、自分勝手に自由きままに生きても許されるから。



どちらが良いのかわからないけれど 物事の道理がわかって生きている人の気持ちはわからない人は一生わからないだろう。

守ることがどれほどの責任感を要するかなんて微塵もわからないのだと感じます。



良い世の中だね。

このページのトップヘ