この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2017年04月

妻として
今の世の中、女性が外に出て働けるようになっていますが わたしは 主人に働いてもらってわたしは家にいて支える という形がよいと思っています。

女が外に出て働くとなると それなりに、服装やお顔も構わなくてはいけません。
すると、ご主人は嫉妬します。

嫉妬させても良いことないです。

また、子供にも寂しい想いをさせなくてはなりません。

家で家庭を守り、 主人を叱咤激励していたほうがお金もかからず、お金を持ってきてくれます。

自分がしゃしゃり出て、社会で働くといっても 家庭を守れない人が外に出て仕事ができるわけないのです。

ご主人と仲良くできない者は仕事もできるわけないのです。

主婦って
なかなか大変なんですよ。

朝のしたくから食事をつくって家の掃除に雑事をこなして
子供の話を聞いてアドバイスもしなくちゃいけないし勉強も手伝わないといけないし
主人が帰ってきたら
話を聞いてアドバイスも誉めることもしなくちゃいけないです。


昨夜は 主人の仕事が良い方向にいったので 急きょ、シャンパンを開けました。

天ぷらにシャンパン

わたし、シャンパンは苦手だから 少し飲んだら眠たくなってしまいまして 朝はゆっくりさせていただきました。

それでも 喜んだ主人は 意気揚々と仕事に出かけていきました。

喜び事は倍にして、喜び、悲しみは半分にするのが妻の務めです。


喜び
その場所にいないとわからないことってたくさんある。

だけど、人は うわべだけ見て、羨んだり、憧れる。

また 自分とは縁のない場所だと関心すら示さなかったり、到底 無理だと諦める。

諦めたり関心がない人よりも憧れたり羨む人のほうが人間味があって わたしは好きだ。

わざと無関心を装うくらいなら、憧れたり羨む人のほうが素直だと思う。

その場所に立つということは 人とは違った苦労もあるけれど 喜びもそれ以上にあるものです。

喜び

わたしは喜びをもっともっと感じていきたいと思う。

そして この喜びを分かち合っていきたいと思う。


思いやりを持ちましょう
人はその場所に立ってみないとわからないことがありますね。


責任感もなく自由をこよなく愛している人がわたしをみたら なんてがんじがらめに生きているんだろうと思われるかもしれません。


今までわたしは、責任感もなく自由を求めて生きてきた体験を経て、今のわたしは幸せだと感じています。


魂の求める幸せというものは責任感の上に成り立つものなのだと今、実感しています。


責任感を持って生きている幸せは、安定していて 他者を見守ることができているものなのです。

自由でいることや開放的でいることは、それはそれで素晴らしい感覚を得ることはできますが、心からの安定感は得られないのだと思います。


誰かを想い、誰かを敬う心こそが心からの安定を得るのだと思えるのです。


責任のない人生は糸の切れたタコのようで、どこに飛ばされるかわからない不安定なものです。

思いやりは責任感を生みます。

思いやりを持ちましょう。

責任感を持ちましょう。



記憶
これからの時代は外側の情報よりも内側の記憶を信じて生きていく時代になってきたなあと、日に日に感じます。


外側の世界は ある方向に進んでいます。

それは、真ん中ではない。

それは、間違いない。


今までわたしは、外側の現象を内側の記憶で答え合わせして生きてきました。

内側の記憶のほうが真ん中だということなのです。

宇宙の記憶は正確です。

いくら歴史が改ざんされていようと、記憶がある限り 騙されません。

だいたいが、間違った というか ある人が得になるように情報は変えられているものです。

人を信用しないわけではなくて、情報を信じないだけです。


すべては自分の生きてきた記憶に残されています。

それを呼び起こして、生きていくだけなのです。


記憶を取り戻してください。

宇宙の記憶を取り戻してください。

内側の記憶に勝るものはないのですから。


人は、不自由があって良いのだと思います。

ひとりが楽と あまりに自由過ぎると、人は他者と過ごすことすら不自由と考えるものです。

不自由があって 学びがあり成長できます。
また、感謝できるのだと思います。

結局 わたしと空ちゃんは、根源のエネルギーの扱い方が違うのかなあ と思います。


わたしは 絶えず、感じていて それを万民のために使っていきたいと思っているのに対し、空ちゃんは それをわたしたちだけの特別なものとして、自分の辛い時にそれを取り出し、それで癒す そんな感じに思えるのです。



確かに、このエネルギーは究極な何かがあるけれど 自分だけのものにしていいものでもないのです。



また わたしは それを日常的に与えることを実践しているのに対し、彼は 自分の癒しと秘密兵器として使用しているからかもしれません。


だから、いつも意見の相違があるのです。



日常的に与えているためには、常に一緒にいた方が効率がよいのですが、彼の場合は違うから。。。



彼が彼の仕事で忙しいときには、わたしはわたしでそのエネルギーを精製しなくてはなりません。

だから、わたしは動き回ることもあります。



このエネルギーは、色で言うと レインボーで、一色なくてもレインボーにならないから、足りない色をわたしが補充するのです。


今の空ちゃんは ただのジジ色で 何の魅力も感じられません。


だから、興味がわかないのです。



結局 ツインというのは、人ではなくて 魂=エネルギーだなっと強く思います。

先記事の引き寄せの件ですが 追記があります。

それは。。。



わたしが過去話しを引き寄せてしまったことって偶然ではないということです。


起こるべくして起こった、というか 過去の清算のために起きたこと とも言えます。


昔を懐かしむってその時の波動(エネルギー)を感じるということです。

そして、これから前に進むための前段階なのです。



過去を清算して、旅立つための儀式だったようです。



あんなに、激しく泣いたのも久しぶりでした。



こうやって考えると この世界は波動(エネルギー)の世界だなあ と思います。


そして ツインの世界も☆


ぶっちゃけ、ツインが引き合うのは 自分の魂の根源のエネルギーです。

そこが共鳴しあうから、ツインだ!とわかるのです。


この自分の根源のエネルギーと引き合うのって、わたしにとって、空ちゃんだけじゃないと思うのです。


唯一無二のはずですが、空ちゃんだけじゃないのです。


魂はそれをわかっています。


でも、顕在意識としては そんなはずはない!と思ってしまうのです。


これって すご〜く微妙な話で、今まで書いたことはないのですが

魂はそれを知っているからこそ、空ちゃんの顕在意識はわたしをそこと出会わせたくなくて、頑張っていたのです。

だけど 世界の波動上、空ちゃんの頑張りが効かなくなってきました。。。
もう、わたしを独占できなくなってきています。。。



天空の茶畑で、それを実感したのです。




わたしは 自分の魂の根源のエネルギーが響くことを選択して生きています。


だから、波動にはものすごく敏感です。


それがあるから嘘を見抜けるのかもしれません。



自分の感覚を研ぎ澄ましていくと、そのエネルギーにふれることができます。


それを感じるとわたしは、自分はたまらなくライトワーカーなんだな、と実感します。


人生のからくりというのはおかしなもので


〜したい!(例えば、ご主人と別れたい!)という思いは自分の正直な気持ちではないのです。


だけど 今、世間的には、自分に正直に生きなければいけない!と、それを推奨していますよね?


それ自体がお試しなのです。



それに引っ掛かって、ご主人と別れたり、欲望に身を任せても ただ、人を傷つけるだけなんです。


それよりも その欲望が起こる原因を探り、その心と向き合っていくと 運命が変わり、周りの手助けにより、自然と その欲望通りの人生を歩んでいけるものなのです。



わたしも 今まで、騙されそうになったことがあるけど 思い止まってよかったなあ と思います。


逃げの切り札で、突如として 感情が表れます。


人は感情に左右される動物ですから、 何か責任を求められることが起きると、逃げるために突如として感情がわきあがります。


罠です。


責任を取らなくても済むアイテムを出してくるのです。




それが、感情です。



親に叱られた子供が、謝りたくなくて泣いてしまうのってありますね。

泣いて許してもらおうという魂胆です。


学校に行きたくなくてお腹が痛くなる仕組みと同じです。


防衛反応というか自分の責任を感じたくないから自ら起こすのです。


いかに、責任回避して生きていこうとしているのでしょうか?


許されることを見越して起こすので、たちが悪いです。



責任感のない人が急増してます。

人として生きるということは、時間の世界に身を置くことだと 以前、書きました。


癒し、癒される というのは、人的観点から考えると、時間がかかるものですが 魂的観点から考えると、すでに癒されてる状態なのです。


だから、人的観点から考えることは どんなことでも時間がかかるのですが、魂的観点から考えると、すでにあるものなのです。


これは 見方なのです。


自分をどの角度から見ているか だけなのです。



また、人というのは 自分を見ずに、自分から世界を見ようとするクセがあります。


自分から外側を見ようとします。


自分の外側は時間の世界です。


また 自分の外側から自分を見ている場合もあります。


どちらも 意識が自分の外側に向いているため、時間にとらわれてしまいます。


本来の意識の持ち方としては、自分が自分の内側を見て生きていくことが望ましいです。



自分が自分を見ている様が外側に映し出されるだけなのですから。



しかし、人というのは 外側の世界で何かを成し遂げたいと生まれてきます。


そのため 自分の外側につい、目が行ってしまうものです。




生きる目的を達成するためには、自分の内側に起こることや有ることを外側に発信することが必要なようです。


だから、結局 内側ばかりを見ているだけでは、創造していけないね。。。



だけど 自分というものは、いろんな自分が存在します。


顕在意識が一番、外側の自分で、順に内側にいるものです。



顕在意識から順に、内側にいる自分にアクセスしていくとわかるのですが ある自分に意識が到達できると、一切 外側を見なくても良くなるのです。



内側にいながら、外側を操ることができるのです。


それは、それで楽しいことですが ストレスがなさすぎてつまらないです。



人として、ままならない想いを感じたり、伝えることは出来ないからです。



人として生まれた以上は、ままならない想いを感じたり伝えたりしたいと思うのです。

それが 肉体を持っている醍醐味だと思えるのです。

無邪気というのは、邪気のない様を指しますが、無邪気さゆえ やって良いこと悪いことの区別がつかないことを無知と言います。


無知とは、知らないこと。知識がないこと。知恵がないこと。おろかなこと。


このように 無邪気は無知を呼ぶのです。



無邪気さだけでなく、智恵をつけましょう。

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