この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2018年12月


わたしって 正直者だから、いい加減に謝れないんです。 


でも きちんと、自分の過ちにわかったら、早い。 

すぐに、謝ります。 


気づくまでは、苦しみます。 


気づいたら、すぐに謝ってスッキリしたい。 


スッキリしたいだけですが、スッキリしたら 何か気づきはいただけます。 

ありがたいなあ、と思います。 


人間だから、間違うわけです。 


気にしない。ドンマイ♪わたし。 




心の底から謝ったら、許してもらえるものなのです。 


心の底から謝ったら許してもらえることを知ってるから、謝れるのかもしれないです。




謝っても許してもらえないのは、自分自身が本心から謝っていないからか相手が不実だから。 


相手が不実なのは、相手の責任です。 


だから、詫びる心を自分の心の奥底からわき上がるのを待つわけです。 


自分は自分に嘘はつけないので、必ず わき上がってくるものです。 


にもかかわらず、相手から許されなかったら、、、、 

相手に天罰が下るものなのです。 



もう、そこは仕方ない。 

神様仏様はフェアですので。 



そんなことを経験してきています、わたしは。 


だから、正直でいられる。


先の記事『自立と恩に報いること』を投稿した後、一件のメールが届きました。 


『ブログに書いていただいたのは、私のことですね。
正直な自分はやはりわがままで上から目線でしたが、そこから、恩へ報いるということが、何の恩に対して報いるのか、それに恩に報いろうと思える心持がなくて、何をしたらいいのかが、わかりません。』 



今回、その気づきがなかったことで自分を責めているようにみえますが、それこそ 自分勝手で横柄な態度が鼻につきます。 
『わかりません』という言葉は自分勝手な言葉です。


まずは気づきをいただけなかったことを素直に認めて詫びる気持ちを神様仏様に届けることです。 

その気持ちが届けば、神様仏様は まずは見てくださいます。


日々の生活を観ていてくださいます。 



『わかりません』というより前に、詫びる気持ちがない。 


神様仏様に対しても自分に対しても。 




素直さがないというのは、このようなことを言います。 



自分を責めるのは、自分はできる!と鷹を食ってるからです。
出来ないとわかっていたら、責めることはしないものです。 


そんな心持ちの人には、神様仏様からの言葉も届かない。 



自分のことを言われているとわかった時点で申し訳ないと素直に詫びる気持ちが大切なのです。 



自分を責めるのではなくて神様に詫びるのです。 


一日の締めくくりに、「今日の一日はどうですか?いたらないところはないでしょうか?あったら教えてください。直します。」という謙虚な気持ちで過ごすことですね。 




謙虚な気持ちで過ごすことが心を育てるのです。 



そうしたら 自分がどれほど、ごう慢であったかに気づき、申し訳なさで頭が下がり、素直に詫びる言葉が自然と口から溢れるのです。 





わたしはそうやって、日々を過ごしています。 



自立と恩に報いること


自立っていうのは、字のごとく、自分の足で立つということだけど その地盤にあるのは、恩なんだよね。 


今まで守られてきた想いに報いるという気持ち。 

それがあって わたしたちは、きちんと自分の足で立てるんだ。 


自分の心の底からわき上がる感謝の気持ち。 


それがあってこその自立だね。 



〇〇〇から離れるというのは自立ではない。 


居場所が変わっただけだ。 




この一週間ほど、サンタクロースは良い子にプレゼントを届けたと思います。 


人の恩を感じて生きてる人には届いて、これからの人生も前を向いて進んでいくのだと思います。 


だけど 大浄化を受けた人は、どうかな? 


それをわからせるための大浄化だったわけだけど、気付いた人はいるだろうか? 




わたしたちは一人で生きているわけではなくて、支えあって生きているんだ。 


それを不義理したままで過ごしていても、なんの徳も生まれない。 




人からの支えを感じたり守られていることを感じたら、人は何をすべきかがわかるものなんだ。 


何を大切にすべきかがわかってくるものなんだ。 



この大浄化の時に、そんな気付きを得たならば、2019年はきっと良い年になるだろう。 



自立と恩に報いることはセットだから。


 実際、思いやり溢れた人となって人間生活送るのは至難の技なのです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



とはいっても 普通に、思いやり溢れてみえる人っているものです。 


神対応?される人。 


そういう人を観ると、つい 自分と比べてしまうのです。 


そういう人って 軽々、この世界を生きてるように見えるものです。 


実際、軽々 生きてるのですが ただ、軽い♪だけだったりする。 


深く考えずに生きてる。 
人に迷惑かけても、自分は思いやり溢れた人だからと 迷惑かけてることがわからない。 


そんな人を人は思いやり溢れた人だと称賛するから気づかない。 



実は、迷惑かける人と思いやり溢れると言われている人は紙一重なのです。 


そこを見習う人が増えていますね。。。 



思いやりなくてもいいのです。 


自分を知って、正直になってくださいね。 



本当に、思いやり溢れた状態で生きるというものは、人として生きていくのが辛いものです。 


辛く苦しいものです。


人に対しての不満は人一倍あるのに 人に対しての思いやりや謙虚さがまるでない人がいます。 

それでいて、神様仏様事をされている。 


自分は思いやり溢れた人だと錯覚している。 


そろそろ、自分の思いやりのなさを認める時期にきている。 




思いやり溢れる人は良い人だ。 

思いやり溢れることは素晴らしい。 



わたしは、そうは思わない。 


思いやりって、心からわき上がるものだし いつもいつもわき上がっていたら、人として生きるのに苦労するよ。 


結局、不満があるのは 思いやりで満たされる自分になりたい、とか 人から称賛されたい という気持ちがあるからだと思う。 

でも 実際、思いやり溢れた人となって人間生活送るのは至難の技なのです。 


そんなこと考えずに、思いやりない自分でもいいじゃないかと自分を認めていたら、正直に生きていると称賛されて、嬉しくなって 心が温かくなり、思いやりが溢れるものです。 


いつもいつも思いやりがわき上がっていたら まっすぐ歩けなくなるよ♪ 



そういうものだよ♪

日々、命のあることに感謝して粛々と生きる。 




昨日の天皇陛下のお言葉を拝聴して、そう感じました。 



今までは、天皇陛下が現人神として存在してくださっていましたが、退位されることで その役目を終えられます。 


次に続く皇太子様には継承されずに終わります。 

それは どういうことかというと 誰もが、現人神となって生きていく世の中になっていくことを指します。 



誰もが、現人神になって生きていくのです。 



そのためには、毎日 命のあることに感謝して粛々と生きていくのです。 


現人神である天皇陛下に頼っていた時代は終わろうとしています。 



神様は良い子にはプレゼントをくださいます。 

わたしは、それを預かりますから。


わたしがこの人に力を貸してあげたいと思うことがありますが、神様から許可されないことは、わたしは出来ません。 



わたしは神様に忠実に動かされます。 


わたし、個人の想いがあっても忠実に動かされます。 





わたしは、日々、わたしを動かされていきたいと願って生きています。 



願って生きています。 




アマゾンでレビューを書かせていただいたことがあります。


必要な方に届きますように。


********


いのちのやくそくを読んで

自分のたましいに興味を持つこと

って大切だなあ と感じました。

自分は何故、生まれてきたんだろう

自分の子供は 何故、自分の元に生まれてきたんだろう

そう考えてみることで、
今までとは 違った視点で人生を歩むことができます。

わたしがそうでした。

また、わたしは 人生を歩む中で いつも根底にそれがありました。

それがわからなくて苦しみました。

自分の生まれてきた意味は人から知らされても実感できないものです。

だからこそ、実感していただきたいなあ と思います。

瞑想をして、自分の静けさの中に身を鎮めると
たましいと会話をすることができるようになります。

それは、もうひとりのわたしです。

インナーチャイルドとも違います。

自分のたましいの想いを知ると、生まれてきた意味を知り
今、やらなければいけないことがわかりますし
やってはいけないこともわかるようになります。

すると うまく人生を歩むことができるようになります。

わたしたちは 今、ここで生きています。

人生を歩むためには指針があるとよいのです。IMG_3689


それが たましいの声だと感じて生きています。

この本は 人生を歩むための指針を知るために必要だと感じました。

ぜひ、お手に取って読んでみてください。

そして 直接、池川先生のお心にふれ、上田先生の微細な波動を感じてみてください。

感じることで 自分を知る旅へといざなってくれるでしょう。。。



遠い遠い昔に分かれてきた魂。 


今の次元ではまだまだ添い遂げられない。 


あきらめた二人。 


だけど 分かれた魂は添い遂げたい想いしかない。 


元に戻りたい想いしかない。 


魂は添い遂げたい。 



わたしたちはそんな魂の願いを叶えたいだけ。 


だから、舵を切る。


一緒に居られる世界に向けて舵を切る。 






☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 




わたしたちの魂ってホント元に戻りたいしかない。 


だから、工夫して、そうなるようにお知恵を借りて進んでる。 


自分たちのことしか考えていないのだけど それがなぜか世のため人のためになってるみたい〜。 



一緒になりたい、元に戻りたいという強い意思の元、生かされてる。 







本物のおもてなし?あれこれ

頼めばやってくれるけど、 頼まなければ気付かずやってくれない。 

というのは 


お金を払えばやってくれるけど、お金を払わなければやってくれないということにも通じると思う。 


親子関係、師弟関係では、気づかない、気がつかない人には、上の者が教えます。 

 



気づく人は気づかいのできる人。 


その気遣いをお金をもらわなければしない、やらないというタイプの人がいます。 


本来、気遣いは思いやりなのだが、そこにお金を支払う人がいるからそのようなタイプの人も出てくる。 



世間的には『おもてなし』がそのように利用されているのが現状ですね。 




手なづける、手なづけられることに馴れている人は気遣いを欲しがる。 


手なづけられることに馴れている人は気遣いや思いやりを欲するし、人にたいして気遣いする人はそれで人を手なづける。 

そんな共依存の関係があります。 


今まで手なづけてきたから 次は逆の立場になり、人を手なづけていきたいと考える人もいます。 


そんな人の元には、同じような人が集まるのです。 


しかし そんな関係に最近では異変が起きています。 


それは 手なづけられない人。 


気遣い、サービス、金銭的なものを嫌がる人がいます。 


それは それまでに手なづけられてきて嫌な想いをしてきたからでしょう。 

だから そういった気遣い、思いやりから離れた生活を送りたいのです。 


見せかけの気遣いや思いやりはいらないのです。 

本物が欲しいのです。 


しかし 本物と偽物の区別がつかないのです。 




気遣い、思いやりといったものは、気付きの一種であり神様からの愛でありギフトです。 



そのため それを知るために、自分の内側を見つめるように促されている人が増えています。 


目の前の思いやりが本物か偽物かわからない。 


本物にこだわる気持ちが資本主義を崩壊させていきます。 


人は本物にしかお金を使おうとしなくなるから。 


そんな風潮がありますね。


でも まだまだ、物で人を釣ろうとする人も見かけます。 


気遣い、思いやりがわからない人は騙されます。 


でも わたし、個人的にはわかって騙されてます。 


本物でも偽物でも思いやりには変わらないから^^ 



わかっていれば良いと思います。 



本物でも偽物でもこだわらない心が穏やかな生活を送る秘訣かなあと感じます。 




誰もが尊重されたい。 


だったら、弱者と呼ばれる人の味方をしても良いと思う。 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


人は対等だと言うけれどそれは魂の話しで 男女の違いや身体面に年齢など様々な違いを持ってこの世界で生かせていただいている。 


この人は弱い人とどんな基準で決めるのかは定かではないけど、明らかに弱いと定められる人がいて、そのような人は法的に守られている。 


しかし その法的に守られていることを武器にして振る舞う人もいるけれど  どこから見ても、守らなければならない人自体いるのです。 



その認識が甘くなっているなあ、と感じます。




身体が自分の思うように動かせなかったり、明らかに介助が必要な人でもお口が達者だと人からそのように思われない。 


文句が槍のように出てくる人がいる。 


それは、自分の思うようにいかないことがあったり人が思い通りに動かないせいもある。 


確かに、自分の物差しで人を判断することは違うことかもしれないが、自分の身体を自分が動かせない身である場合は譲歩してもいいと思うな。 



幸せと感じることは人それぞれ違うもの。 



誰もが尊重されたいし誰もが幸せを感じていたい。 



だったら、隣に居る身体を不自由にしている人の槍を持った小さな願いを叶えてあげようと思う心は持ってもよいのだと思う。 


槍があったとしても願いに大きいも小さいもないと思う。 


誰から見ても明らかに身体が弱かったり不自由な人の明らかに小さな願いを叶えてあげようと思わない行為は、愛じゃない。 


優しくない。 


槍のある言葉でさえも包んであげられたなら、その槍の先はすぐに丸まるものなんだ。。。 



誰もが尊重されたいし優しくされたいんだ。 





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