この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2019年08月


内側からわき上がる感謝を感じると、心がじ〜んとしてくるね。 



ありがとう。 

ありがとう。 



どれだけ口にしても足りないくらい、ありがとうが溢れ出す。 






『感謝』と一口に言うけれど、その根底には敬う心が隠れてる。 




そのため、その想いを形にしようと動くとき、その感謝の想いが体に浸透されて手足が動かされていく。 



それが謙虚さになる。 




溢れ出した感謝は謙虚さに変化して形作られるんだ。 







「ありがとう」だから、どうするの? 





「ありがとう」という溢れ出した想いを流れ出したままにしない。 


それは、わたしの命だから。 




それが感謝を感じて生きるということ。 


感謝を繋げるということ。




いきたひという映画の上映会で長谷川監督のある言葉に不信感を持ちました。 


それは、 


自分の子供を自殺で亡くしたという遺族の方に、話した言葉です。 


『良かったね』 

自殺を止められなかった遺族に、遺族でも探しようのない山奥で亡くなるよりは自分の目の前で亡くなってくれて良かったという意味らしいです。 




遺族の方は、『良かったね』と言われて果たして嬉しかったのだろうか?




何かが違うと感じました。 




人に寄り添うということはとても難しいものです。 




わたしがこの映画を観たのは亡くなられたご主人に呼ばれて、長谷川監督に伝えることがあったからですが、伝えられなかったです。 


心残りある映画です。





人はそれぞれ運命があって、その運命を生きるためには、使命というものがある。 


それは、みんな それぞれ違うもの。 



その使命に合わせて、わたしたちは姿形が決められている。 

そのため、親を選ぶことをしてる。 

DNAが必要だからだよ。 



姿形。 



そのためには、手足が短かったり長かったり少なかったり多かったりはあるものよ。 


それは、人生の途中でそうなることもある。




また 手足といっても現実的に目に見える手足、見えない手足があるものです。 



今のわたしは現実的に目に見える足は2本で見えない足は一本です(笑) 


そこもそれぞれ違うものよ。 


だけど 以前のわたしは見えない足がなかったから苦労したわ。 


でも 見えないから障がい者に見られなくて苦労したわ。 

今は生えてきたけれど^^ 



そんな理由で、
人はみ〜んな、造作が違うのよ。 



目に見えることだけで決めつけられないことがあるのです。



今の世の中では、一般的に目に見えるものを基準にしてるけど、そうでないことを知ってほしくて書いてます。 




実際に、目に見えてナイ場合、人から労られるけれど、見えないものがナくても気づいてもらえないから労られるどころかいじめられたして悔しい想いをするのよ。 



気づいてもらえないって辛いわ。 





だから、目に見えることだけで決めつけないでね。 

目に見えなくてもアルことを知って欲しい。

胎内記憶のある子供が産まれてきている昨今ですが、胎内記憶よりも優るものがあります。


それは、母親が子供をお腹に授かっている時の体感です。



子供がどれだけ胎内記憶があるのか知りませんが、母親は子供が形を成さない頃には、つわりがあります。


それって 子供がまだ、自分という意識がない時です。


母親はその頃から、お腹の子供を意識して生きているのです。


身ふたつの意識です。



いくら子供が胎内記憶があったとしても親の記憶に優るものはないと思います。



お腹に宿した瞬間、つまり授精した瞬間の記憶がわたしにはあります。


その瞬間から、出産するまでわたしは母親意識が生まれ、ふたつの意識で生きているのです。


母親って授かった瞬間から母親だよ。



身ふたつになってから、反抗期でババアと言われても、その子の意識のない時には、その子を意識して生きていたんだと言い返してください。


自信を持ってください。

母親はいつまでも母親です。


自分の母親でも同じことです。


あなたの知らない記憶があるのは生んでくれた母親です。



唯一、あなたがこの世に生を受けた時の記憶を持つのは、あなたの母親なのです。


わたしがいつもブログで書いていることは家の中でも日常的に話しています。 


わたしは神様を身近に感じて生きていますがソレ同様に人との関係も近く垣根があるようでありません。 
昨日、書いた礼儀についても それは、親しき仲にも礼儀あり、の意味が大きく、親しい、が前提なのです。 

そうです。わたしは、親しくなったら垣根はなく、家族同様に接します。 

接しますというより接してしまいます、と言ったほうが良いかもしれません。 


それはわたしが日常的に神様事を話したり行ったりしているからかもしれません。 


制限されることに対して拒否反応を示してしまうので予め自分の正体を暴露しているのです。 



神様事のことでも原発のことでもタラタラと喋りだします。 


家の中だと、母親として過ごしていることが多いですが、何をしていても降りてきたらそのまま話すし、動き出します。 


自由です。 




人と交流を持つということは、ありのままを生きてるわたしにとって、ありのままを出せる場所を広げているだけで、もっともっと広げていきたいなあと思ってます。 

ブログを読んでいただくことで、わたしの日常を感じて欲しいです。






日本の中で広島と長崎に原爆を落とされ、被爆民となり、辛い体験を強いられてきた。 


そのため、その中で強い絆も生まれただろう。 

しかし 強い絆が他者への憎しみに変わることもあっただろう。 


そんな憎しみは簡単に癒されることはない。 


故郷を焼かれ、家族を失った痛みや苦しみは、当事者しかわからないもので、復興は果たして経済の発展は遂げたけれど、なかなか癒されるものではない。 



世界において日本という国は、自然を崇拝する国で、受け入れることを善としてきたけれど、被爆民となり、受け入れることを余儀なくされている昨今、苦しみを掘り返されている人も少なくないと思う。 



日本は被爆国ではあるけれど、被爆民は広島と長崎県民であるため、その中でも差別やいじめはあっただろう。 


戦争が終わって、早や75年が経とうとしていて、戦争の辛さが風化されてもいる中で まだまだ憎しみや痛みを持って苦しんでいる人もいるわけで、それを思ったら、簡単に 受け入れましょうとか許しましょうとは言えなくて、忘れないためには、祈り続けることしかできないものです。


祈り続けるとは、亡くなった方々に慰霊することだけではなくて、忘れずにいること。 


片時も忘れずに生活をすること。  


それが日本人としての供養ではないかなあとわたしは感じています。 




わたしは、日々の生活の中で、させていただいていることがありますが、それは哀悼の意味があることに気づきました。 


お弔いです。 



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憎しみ、争うという精神は、人を負かしたい気持ちで勝ちたい気持ちではないと、昨日読んだ本で知りました。 


そのため、どちらもが自滅するそうです。 


破壊です。 


自分が死んでも良いから相手を殺したいという気持ち。 


これが戦争に繋がります。 



最近のニュースを観ていると、特にそのような傾向が強いと感じます。 




また、世間を観ていると、共有するという精神がないように感じます。 


だから 自分本意で、公共施設が使えないのだなあとも感じます。 



日本人は、元は 自然を崇拝する民族ですが、日本人の中で力を合わせることよりも争うことが多すぎて、個人主義になり、共有という精神をなくしました。 


それが 自然の恵みの有り難さがわからないことに繋がることだと感じます。





苦しみから逃れられないから、他者を巻き込んで一緒に破滅していく。


自分だけでも助かりたいという気持ちすらなく他者を巻き込んで一緒に破滅する。 


そう望んでいる人が増えてるように感じます。 


だから、共有するという気持ちはサラサラ持ち得ないのです。 


物騒な世の中になりました。 



と、それは 地球の底辺の次元ですので、そこに意識は向けない生活を心掛けてください。


そういう世界が、あるんだなあ〜とだけ思っていれば良くて関わらないことです。 


色々なお試しがあるものです。 



注意して過ごしましょう。 






大概の人は前世から持ち越したカルマというものがあり、それを刈り取るために、今、そこに居るものです。 


だから、カルマの刈り取りが終わったら、そこに居なくてもよくなります。 

カルマがあるから、そこに居る、その選択をしているということになります。 



例えばわたしですが わたしは元々、専業主婦希望でしたが、学生のころから休みなく働いてきました。 
16歳の頃から54歳まで、ずっと約40年間、働き続けてきました。 


カルマが外れたから、今こうして、専業主婦生活をマン喫しています。


このように、今、やりたいこと!というのは、カルマと関連しています。 


そのため それを越えた先に、本当の使命が存在します。 


それは、平行してやってる方もおられます。わたしもそうでしたから。 



何が言いたいかというと 
今、やりたいことは、カルマの刈り取りのためにしなければならないことであって、本来の目的とは違うことがあるということです。 



これしかない!これが天命だ!と思ってしていることが、本来の天命とは違うことかもしれないのです。 



だから これしかない!と思わず、もっと楽な気持ちになってください。 




やりたいことをやっているはずなのに、なぜか報われない!  
自分にはもっと合ったことがあるはず!
自分は一生懸命にやってるのに! 
誰も気持ちをわかってくれない! 


そう思われてはいないでしょうか? 


カルマをさっさと終わらせて、早く、本来の目的を生きようと思いませんか? 



相談者様とお話しする中で、自分の使命に気付いた!これが天命だ!と意気込んでいる方ほど、カルマなのです。 


う〜ん、違うのになあ〜と言っても、わたしの話しは聴かないです。 

カルマの刈り取りは意気込んでやることではなくて、さっさと終わらせることなのです。 


実際、やりはじめたらすぐに終わることが多いです。 

そのため、次にやりたいことがあらわれて苦悩します。

さくさく終わらせることが目的です。 だから、そこに執着しないで、次に進みましょう。 


負の感情があると無駄に執着するので厄介です。 

そのためには、浄化ワークは必要です。 



天命に進めないのは、カルマに執着する心です。 




わたしには使命がある!のではなくて、カルマがある!のです。 




もっと謙虚になりましょう。

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