この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2019年12月


先の記事で、 

“わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。” 

と書きましたが、 

待っていていただく間には、 

わき上がる想いがないことを詫びます。 



「感謝感じることが出来なくてごめんなさい」 

という想いがわき上がるからです。




自分の感情と向き合い続けると、感情の動きに敏感になります。 
敏感になるから、それを言葉にして伝えることが出来るのです。 



たまに言葉に出来ない想いが湧いてくる時もありますが、言葉にして伝えることを務めてきました。 



内観を繰り返すと、自分の心の動きに敏感になり それを伝えたり行動に表すことが出来るようになります。 
継続するから出来るようになるのです。 


日常的に生活の中で身に付けていくのです。 



礼儀や感謝を表すことは身に付いてこそ、だとわたしは考えています。 




伝統の記事で繋げていくと書きましたが、この想いこそが国常立宮豊雲野宮以前の伝統です。 


イザナギとイザナミの話しでイザナギがイザナミにたいしてそのような想いがあったなら、お姿を観てしまうことはなかったはずです。 
黄泉の国に踏み入れてしまったから、イザナギ以下は祓わねばならなくなったのです。 


祓いは無礼をお許しくださいという意味なのですから。 


美しいイザナミが愛する方に醜い姿など見せたくはない。 
そこで イザナギが驚いて逃げるだなんて、無礼以外何物もない。 


だから わたしはイザナギとは話しはしないんだ。 
イザナミさんとはよくお喋りするけど。 




昨日のコメントを読ませていただいて 
「内側からの想いに無視出来ない!」という想いは、人に対しての礼儀に通じると感じました。 




わたしは、今まで「感謝して生きる」というテーマで幾つも記事を書いてきていますが、この「内側からの想いに無視出来ない」という想いこそが感謝の根源だと思うからです。 




わたしは礼儀とは「〜しなければならない」ものではなくて、わき上がる想いが形になったに過ぎないと思うのです。 




礼儀正しい方の中でわき上がる想いでされてる方よりも形式的にされてる方の方が多いように思います。 




わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。 

そんな時は何故わき上がらないのだろうと内観します。 

待っている間(要は人を待たせている)に相手から感謝の強要されることもあります^^ 

しかし、嫌な気持ちになりながらでも待ちます。(超自分本意) 

そうして やっと、自分の内側から想いが発動されて、、、、実践させていただくのです。 



見せかけの礼儀は相手に失礼だと思うからです。 


しかし 世間では見せかけの礼儀が求められているように感じます。 


それは、想いは見えないからです。 


心の中で舌を出していても頭を下げればまかり通る人が多いからでしょうね。 


しかし 神様は騙せませんよ。 





わき上がる想いこそが礼儀だと感じるので、そこには謙虚さがつきまとうものだと思います。 



そのため わき上がる想いは自己主張とは思いません。 




見せかけの礼儀をされてる方々がわき上がる想いから発せられる礼儀に変わっていけますように。 

また 今は想いがわき上がらない人にも想いがわき上がるようになりますように。 





感謝するとは
ありがたく頂戴するという 謙虚な気持ちが含まれています。


本当に そのような気持ちで この『感謝する』言葉を使っていますか?



この地球に生まれ落ち 地球に生かされていることを知ると 『生かされているいるだけでありがたい』という謙虚な気持ちが生まれます。


そうすると この地球にあるものを食させていただける喜びを感じ
『いただきます』という言葉が生まれました。


『いただきます』も また その謙虚な気持ちが前提にあるのです。



人と接する時 お話をさせていただく時にも 謙虚な気持ちを持つと
『お話しを頂戴する』という姿勢で お言葉を頂戴することができるのです。



言葉の意味を知ると すべてに『謙虚な気持ち』が含まれています。


人は 対等だと言うけれど 私はそうは思いません。

男女があり性質が違います。

また、親子もそうです。


性質が違うのに 対等であるわけがないと思うのです。



でも そこには 思いやりや 謙虚さが あれば お互いの関係を築いていけるのです。


男女間においても 謙虚な気持ちで お互いが接すれば 男性の役割 女性の役割を 生かすことができ、 その間で 尊敬という気持ちが芽生えるでしょう。


親子間でも同様です。

子供は親を敬い、親は子供を守るのです。


子供は宇宙の宝です。


宇宙の宝を育てさせていただける、守らせていただけることが 人として生まれてきた使命ではないのでしょうか?


実際に、自分が産んだ子供がいなくても
宇宙の宝を守るのは、わたしたち社会の務めなのです。



ありがたく頂戴する


生かされているいるだけでありがたい


恵みをいただく


お話しを頂戴する



すべて、相手への尊敬の想いが込められています。



感謝をすることは、尊敬すること、敬うことです。



感謝をすることは 人を敬うことです。



あなたは 人を敬っていますか?


感謝をしていますか?

今日は 20歳の娘の初めての選挙でした。


新聞の公約を読んで、自分で選んだ党に入れてきました。


志しは高いです。


今の日本を変えたい!という気持ちが強いです。

そのため 長いものには、巻かれません。


断固として、戦い 主張します。


バカだなあ。。。と思います。



先日、こんなことがありました。


主人と娘が選挙の話しになって

『わたしは原発反対だから、〇〇党には入れない!』

そしたら、主人は会社人間ですから

『絶対に〇〇党に入れろ!』
と息巻きました。


そして、

『〇〇党に入れないなら、もう 学費は出してやらん!
駅の送り迎えもしてやらん!』


すると
娘が

『なんで、自分の支持する政党に入れたらいかんの!
お父さんは、間違っている!』




アホな親子です(-.-;)


開いた口が塞がりません。。。




今日の選挙でした。


娘はどこに入れたかわたしは知りません。


選挙結果をテレビで観ていて、娘が

『日本は終わった。。。』


と、言ったので

わたしが

『まあ、富士山が噴火しなわからん人間が多いってことだわ。
自分の身に何か起きなきゃ、自分を立て直せないってことだよ。
自業自得だよ。
日本を変えるためには、どうしたらいいかわかる?』

と 娘に問いかけました。

すると、娘が

『自分が変わること』

と 答えたので

『じゃあ どうやって変わるの? 』

と 聞いたら

『わからない』

と答えました。


そこで わたしが


『変えるのは、自分の意識を変えることなんだ。
いつも あなたは お母さんに言われたことを、生返事して 聞いていなかったり 面倒くさがったりするよね。 それをまず、やめることなんだ。
人の話しはきちんと聞くんだよ。
どんな話しでも きちんと耳を傾けるんだ。

そして 自分の意見は言わないんだよ。

自分の意見は 自分さえ知っていればいいんだよ。
主張をわざわざしなくていいんだ。

それが 自分を守る、自分を大切にする ということなんだ。

人の話を嫌だなあと思って聞くんじゃなくて ありがたいと思って 聞けるようになることが大切なんだよ。

意識を変えるということは、こういうことなんだ。
自分の芯さえ通っていれば、いいんだ。

わざわざ 原発反対だと主張をしなくても
電気がいらない生活をすればいいんだけなんだよ。

主張はいらない。

ただ、自分が決めたことをやるだけでいいんだよ。

そんな人が増えていくと、日本は変わるよ。』



娘は うなずきながら、また 目をふせながら 聞いていました。


どこまで わかったかわかりませんが


これからの日本を背負って立つ娘です。


日本を変えるのは、娘世代なのです。


見守っていきたいです。



わたしは、自分がしていることを娘に従わせるつもりはありません。

自分の意思があるからです。

自分からこうしたい!こうやっていきたい!と思ったら わたしはそれを応援していきます。



日本を変えるのは、意識を変えること。


まずは 自分の身近なことから変えることです。



それも出来ないのに、口先だけで、

日本を変えたい!

なんて おこがましいです。



変えたいなら、

自分が変わればいい。

それだけのこと。



その志しを持った政治家がいるのでしょうか?

女であることを武器にしたり 子供を使ったり。。。
同じ女として、恥ずかしいなあ とも思いました。

だから 女なんて!とナメられる。



自分の軸さえしっかりしていれば、 武器はいらない。



何も持たなくても、芯が通っていれば、いいんだ。


だから
原発推進派は 電気がなければ生きていけないから 原発を推進するのです。。。



利にかなっている。。。




そのうち、崩れる〜

生かされていることに感謝するエネルギーって すごく身近にあるエネルギーなんです。



それは


『笑顔』『笑い』


だから


笑って生きていればいいんです♪


平和ボケしている。。。と言われますが

危機感なんていらないです。



楽しいときは、笑うです。




落ち込んだりすることがあっても


笑える場所があればいい。



そこが あなたの帰る場所です。


わたしたちは、正義感というものを持っています。

自分の家族や仕事仲間や友達が間違っていることをしていると知った時に あなたならどうしますか?

最近では、告発をしたり、内情を暴露する人が増えていますね。

自分でどうにかできないから
自分たちが秘密にしてきたことを、世間にばらして 公にします。

病院内部のことや家族間のことなど。。。

古い話しでは、
若貴兄弟(相撲)のことや 最近では、佐村河内氏のことが挙げられます。

兄弟間のことをわざわざ、世間に暴露する。

仲間としてやってきたことを 自分だけいい子になって 世間に暴露する。

された方はたまったもんじゃありません。

暴露された挙げ句、信頼していた人に裏切られるのですから。。。

正義感のある方は、正義を盾にして、人を裏切る行為をしてよいものなのでしょうか?

間違った考えを持った人は、
この世の正義に背いているのだから 裏切られて当然なのでしょうか?

世間にさらされて当然なのでしょうか?

今の風潮は、そうですね。。。

その問題が持ち上がるということは

自分たちだけで解決しなさい

ということです。

当事者間での話し合いなり、解決策を練るために起こっていることなのです。

元々、この世の利にかなわないことは
宇宙の法則により、沙汰されるのです。

自分で相手を罰しなくても、沙汰されるのです。

その前に、自分でその問題に真摯に向き合い、仲間内で収めるようにすることを求められているのです。

それをする勇気がないから、世間を味方につけようとするやり方は、フェアではありません。

自分はいいことをしたと思うかも知れませんが、宇宙はそうは、思いません。

その方にも 宇宙の法則が働きます。

よく、やったとは 言われないのです。

内々のことは、内々で解決することです。

また、自分の恥部を出した自叙伝などは、魂的に最も、罪になります。

自分の恥部をわざわざ、世間に知らしめることはないのです。

『自分は〇〇〇だったけど、脱却して 今は☆☆になりました』

ということは、自分さえ知っていればいいことです。

自分の恥部をさらして、それでお金を得たとしても そのお金は、自分のためにならないのです。。。

人間はプライドを捨ててはいけないと思います。

自分を尊敬、尊重するならば 人にわざわざ 言うことではありません。

それは 自分を大切にしない行為なのです。。。

自分を認める行為は、

人に自分の恥部をさらす行為ではないのです。

自分を大切にする、愛する、可愛がる

ということは

相手を扱き下ろして、自分だけいい子になることではなく

相手の立場を思いやり、また 自分の心を思いやり 歩み寄ることです。

その努力をしていくと、宇宙がうまく采配してくれるものです。

自分勝手に、人を裁かない。

人は、人を裁けないのです。。。



人を裁きたくなったら、



自分を見つめることです。


この世界はすべて、己れの心が映す鏡なのです。


自分を裏切っているから、裏切られる。



自分のことが嫌いだから嫌われる。



だから、相手のせいにしてはいけない。



自分のココロモチがそうなのだから。。。


だから わかったら、相手に謝るんだ。


相手をそのような態度を取らせる原因になったのは、自分だと 心から謝罪するんだ。


誰だって、人を嫌いたくないし、裏切りたくないんだ。


だから 自分のせいで 相手がそのように変わってしまったんだから 自分から謝るんだ。


嫌な想いをさせてごめんなさいと 非礼を詫びるんだ。


心底から 詫びたなら、互いのわだかまりが消えて 信頼関係を築けるだろう。。。


人は、元来 愛したい生き物なんだ。



愛されたい じゃないんだよ。。。

器が出来てくると、光りも闇も、自分の子供のようなものだなあ と感じる。

わざわざ、愛で包もうとしなくても
わたしにぎゅっと引き寄せられて、愛に変わっていく闇達。。。


光りはより輝きを放つし 闇は、愛に変わり 光りを取り戻していきます。

何よりも、自分が大きくなることです。

と まあ、税金って そんな意味で作られているんですね。


法律という権利で守る代わりに税金を支払い、日本に貢献する。


なので


地球に対して、感謝を感じているならば
地球に対して 感謝を表すことが 税金の意味ですから


お金で払えないならば、身体で返す♪
のも ありだと思うのです。


いかがなものでしょうか?



うふっ(#^.^#)

真の平等は
この世に生まれて、
平等に命があるから、
平等に生きる権利があり、
平等に守られる権利がある。

権利があるから義務がある。
だから、平等に地球に貢献する義務がある。

この世に生きて、名誉、肩書きは優劣つけるためにあるものではなくて、
名誉、肩書きというものは より人を守る立場になることの重みを感じるためにあるものだと思うのです。

人は平等に命を与えられて、この地球に生きている、生かされている。

その重みがわかるならば、自ずと 地球に貢献しよう、ご恩返しをしようと思うはずです。

この世に生きて、
名誉、肩書きを受けたなら、 有り難く受け取り、 人を守れる立場になったことを感謝し、誇りに思い、地球に感謝を表して生きていけばいい。

それが 地球に貢献すること。
生かされていることのご恩返しなのです。。。

働いて、お金を稼いで 生活が裕福になる。。。

それはそれで 幸せなことかもしれないが
この地球に住まわせていただいて
その幸せを感じるのだから
稼いだお金をすべて自分のものにするのではなく、 そのうちの一部を 地球に差し出す。。。

幸せを感じないから、地球に差し出す気持ちにならない。

幸せに生きるって どうしたらいいのだろう?

幸せに生きるって
この地球に守られていると 実感することで ついてくるんです。

この世に生きて、平等に命があることを 実感してありがたいなあと感謝することで 働く意欲がわきます。

平等に、平等に、

わたしたちは 守られています。

感じてください。

平等に、平等に、与えられています。

この陽の光りも恵みの雨も わたしたちに平等に降り注ぎます。

わたしたちは、守られています。

わたしたちは、愛されています。

平等に。。。

平等に。。。


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