この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2020年01月


タイミングが悪いことってある。 


しかし、タイミングが悪かったと一言で済まされない心情になるときもある。 


やっぱり、それはタイミングが悪かったと言うより他ない。 

相性ってあるからだ。 



そこを割り切るか執着するかは人それぞれだ。 


自分では自身をあっさりしてると思ってる人ほどあっさりしてないように感じる。


割り切る人は言葉にもしないのが特徴だ。 
一方、執着する人はいちいち宣言する。 
そうしないと、立ち切れないから。 


割り切る、執着することが良い悪いと言ってるわけではない。 


ただ、そんな自分を知ることが必要なだけだ。 


自分を知ることは大切です。


そのために、日記を書くことをお勧めしています。 


自分の言葉にして自身に落とし込むのです。 


日記を書くのは学ぶことと同じですね。 





昨日、読んでいた記事にこんなことが書かれていました。 


『魂経験を積んで修行みたいにして感覚を獲得した人の言葉は重いんですww
だから、たぶん、そういうのは、地球レベルの超偉い、達観した人の語り。』


この一文を読んで、まさにわたしだわ〜と思いましたが、そう体験をしてない人は、いくらわたしが声を大にしてもわからないということだなあと感じました。 

体験しないとわからないもので。


体験を怖がっていたりその必要のない人には届かないものなのだなあ〜 



愛とは相手の幸せを願うことです。 

がんじがらめにしたり自分の思い通りにしないもので相手の意思を尊重すること。 

相手の意思、それは表面的なものではなくて、深いところにある想い。 

それは相手を推し量って推し量ってこないとわからないものです。 


相手の信実をわかる、ことかもしれません。 


たいして交流ない相手の気持ちは読めるものでもなく深い付き合いするからわかるものなのです。 

表面的な付き合いしかしない人には出来ないものなのです。 

そういうものと捉えると良いでしょう。 


それ故、相手の意思を尊重するということは、相手と深い付き合いをしないと出来ないものかもしれませんね。 



相手の幸せって何なのかを突き詰めて考えることをしてきたわたしだからこそ言える言葉です。 

わたしは内観ばかりしてきましたが、相手の幸せを考えることも同時にしてきました。 


だから、愛を発揮することが出来るのだと思います。 


自分の愛を発揮したいなら、相手の想いに耳を傾けてみてください。敏感になれということではありません。耳を傾けるということです。 




結局、どうして悩むかといったら、実践がないからです。 

場数を踏まないから。



自分のことを賢いと思っているから、自分の頭で考えたことを信用して答えを導かせようとする。 

自分はバカだと思っていれば、実践したり試したり教えを乞うなりして、自分の頭を信用して答えを導かないものなのです。 


だから、知恵がわかない。 



場数を踏んで、体感でわかるから、知恵がわく。 


頭で考えるのではなくて、実践して、体感して、知恵を得る。 



怖いのは、場数を踏んでいないから。 


試すことを怖れない。怯まず、前を向いて進むだけ。 


怯むな!進め! 



バカは怯まない。 

ちょっと、賢くなると、頭を使いたがる。 

頭を使うから知恵がわかない。 


だから、バカでいればいい。 


自分を賢いと思う人ほど知恵がないものだ。





わたしは世間の常識にはとても疎いです。 


そのため 人の話しが理解出来ない時があります。 


話されてる間、頭が回転しなくて頭ウニ状態です。 

わたしにはわたしの常識があるので たぶん正反対なのだと思います。 



先ほど書いた礼儀についても、世間の常識は『礼儀正しくなければならない』のでしょうね。 

そして、『見せかけでも礼儀を示すこと』なのでしょう。 


だから 世間の人はわたしがわき上がる想いを示してること自体思い付かないのでしょう。 


礼儀正しい?と思われているかもしれないけど、想いがわき上がってるなんてわからず、ただ圧を感じるのだと思います。 


また 世間では常識を批判される方もいらっしゃいます。 


世間の常識は〜だから、良くない!と言われてる方をお見かけします。 


それは、「昭和の男」でも書いたように、自分を律するが故に他者にも求め、ジャッジするのです。 

それは、教える姿勢ではないように感じます。



わき上がる想いの伝え方で人を傷つけるやもしれません。 


伝え方ってあります。


ご自分が大人だと自覚されてるなら、伝え方を考えるては、と思います。 




昭和の男


黄泉の国に足を踏み入れてしまったから霊が穢れ、祓いが必要になってしまった。 



本来 霊は省みるという機能を持っているものですが、黄泉の国に踏み入れてしまったことで霊が邪悪に転ぶようになってしまった。 


それは、神が欲望、感情という感覚を許したということもあり、必然であったとも言えるのです。 


必然ではありましたが、それは、霊を成長させるためでもありました。 


霊を祓いに祓うことで霊を正常に保ちながら成長させていただく。 



それが神の働きの目的だと言えるのです。 



祓うことと成長することはセットなのではないでしょうか?


意識の持ち方で人生は変わるなあとつくづく感じた昨年末でした。 

また 最後に大きな大きな学びをいただきました。 


平林さんと年末にずっと話し込んでいて、それに気づいたのです。 


平林さんは、わたしが話すことを瞬時に自分の言葉にして確認を求めてきます。そうやって 潜在意識に落とし込んでいます。 わたしも普段からそうしていることに気づかされました。 

そして、これが学びの原点なのだと気づいたのです。 



実践するためには、自分の言葉にして潜在意識に落とし込む。 
そうやって刻み込んでいく。 


一昨日のまやさんのコメントに書いたように、学びとは、自分の言葉で伝えることが出来るようにすること。 


その確認のために、試験があるに過ぎないのだということにも気付きました。 

人生の学びも同じで、学んだことを自分に取り入れて身に付けて繋げていくことなのです。 



だから 実践しかないのです。 

覚えたことを口に出してみる、そうやって身に付いていく。刻み込んでいく。 



一回で出来るかもしれない。 
何度か繰り返さないと出来ないことかもしれない。 


だけど 諦めなければ出来るようになる。 



普段、書いてること言ってることをもっと深く教えられた気がしました。 



意識して物事に取り組むことの重要性に気づいたのです。


学び続ける姿勢とは?を 噛み下して教えられたのだと思います。 


また 自分を振り返ると、無意識にやってきていたことで、意識ないから止めたことに気づかなくて、歪みが生じて理由がわからなかったことがありました。 


年末に爆弾落とされた原因がそれだったことに気づいたのです。 


気付けない自分でいないようにしないとなあ、と感じています。 


元来、省みるという機能を持ったものが霊なのです。 


霊を正常に保つために学びがあるのだなあと思います。 

学びがないと曲霊といって邪悪に転ぶようです。 


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