この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

2020年07月


息の本体に帰りなさい。 

息の本体に帰ろと言いとるじゃろが。 


息の本体に帰れば弥勒の世の世界に戻れるのじゃ。 



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わたしが神を意識する時は、屈伸運動(運動原理)が基になっています。

なぜなら 神とは運動行動の名称だからです。 



屈伸運動は、伸、縮、止から為ります。 

伸、縮、止こそが神の元祖なのです。 

しかし 伸、縮がないと止が存在しないので、
止が神たらしめているのは伸、縮があるからですが、止には、伸、縮をさせるだけの力が備わっているから伸縮できるので、止が中心となるのです。 


これが生命運動の基となり、呼吸(息)の元となっています。


そして、伸縮運動が元になり回転や波形運動が生まれました。 

それは 止の住む場所は無重力だから。 


無重力な中で力が加わることで、熱が生まれ、凝固=物質化が始まり、気体が生まれ、水蒸気が生まれ、水や光が生まれました。 

それが神の運動です。 

神の運動からわたしたちは生まれたのです。 


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《呼吸》

神は鼻から命を授けてくださった。 


口から吐く行為は、神の愛を発揮することで、それが感謝だ。 


吐いたら、自ずと入ってくる。 


神の愛を発揮したら神から命を授けられるのだ。 

故に、
出したら、必ず 入ってくる。 

自ら与えたら、巡って入ってくる。 

決して、なくならない。 

息の本体に帰るとは、命を授けてくださった時を思い出すこと。神の愛を発揮した時を思い出すこと。 




ライトワーカーの使命は、先に歩みを進めて 後ろに続く人の足元を照らすこと。 


照らしながら、ゴミや石ころも掃除してる^^ 



☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 


最近 こだわりの強い方の話しを聴かされることが多いですが、 
それはその方がこだわりが強いのではなくて その周りの方々のこだわりの強さを映しているだけなのですね。 


こだわり強くて嫌だ!って言ってる人自身のこだわりや裁く心を映し出しているのです。 


自分のこだわりを映し出してくれている。 


それは身内内で起こることの多いのが特徴のようです。


自分の親のこだわりが強くて嫌だ! 
って思われる方も少なくないと思いますが、それは子供のこだわりが親に反映されているだけ。 


子供というのは親にたいして、こうであってほしいと期待を抱くもので、それはある種のこだわりです。 

「誰でも人は完璧でなくて良いのだ❗」 
その想いで、親は、子供の親への理想を壊します。


親の最期の役目です。 


人生最期までお役に立ちたいものなのです。




有り難い限りです。 




正義感(善悪)が強い子供が育つと親は苦労しますね。 


なぜなら 人を裁き、親をも裁くからです。


裁くことは白黒つけて相手を降伏させることで 
結局 それは、戦争の火種になります。 


最近は、物騒で コロナや大量逮捕の話を持ち出して覚醒することを特に話題としている記事が目立ち、記事内容を信じることは良いことで信じないことは悪いことのように書かれています。 

それってどうなの?と思います。 


そういう事実があるよ、と事実のみ伝えて、あとは各々の判断に任せることだと思いますが、悪を憎むことを推進する記事の多いことに胸が痛みます。 


目の前の相手は自分の知らないことを教えてくださる相手だという姿勢を教えてくださるのが神であって、人の知らないことを教えるのは誰でも出来ることです。 


知ったあと、自分はどう考え行動するのかは、各々の判断に任せるより他ないのです。 





最近の若者はどこで仕入れてきたかわからない自分のポリシーを持っている人が少なくないと感じます。 


たかだか20数年生きたか生きないかぐらいの人が大人に意見する時代です。 



様々な情報が飛び交っている世の中ですが その中で生き延びていけるのは、正義を振りかざしている人ではないのは確かです。 



人を憎むことなく、愛を受け入れていきましょう。 






価値:かち [価値]物事や行動がどれくらい有用であるかという程度。値打ち。


価値観:かちかん [価値観]物事を評価し,行動を決定するときの基準になる,何にどのような価値を認めるかという個人個人の判断。



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わたしは今まで、自己価値、相手の価値の話しをしているのであり 価値観の話しをしているのではありません。 



価値とは値打ち。 

自分の値打ち、相手の値打ち。 

誰もが価値在る存在だということは、個人個人の判断によるものではなくて、誰もが値打ちがあるんだよということです。



一方 価値観とは、何にどのような価値を認めるかという個人個人の判断でなのです。 


自分と相手の価値観の相違を認めることは自分にも相手にも価値在る前提で個人個人による判断を認め合いましょうということです。 



今まで、価値在る前提で相手個人の判断を認めてきているならば、自分の価値についても理解出来ているのですから、自分を卑下することも相手を侮辱することもないはずなのです。 



自己価値の低い状態で相手の価値観を認めてきたと言われても、それは勘違いか虚偽としか思えないものです。 


違いを認めるということは、まずは自分が価値在る存在だと認めてからでないと出来ないことなのですから。 



「お互いの価値観を認めましょう」
というのは、 
『互いを価値在る存在だと認めましょう』 
ということなのです。 




認めるためには、自分を価値在る存在だと自覚することです。 




あなたは、ご自身を価値在る存在だと自覚されていますか? 




立ち話し程度でも 次に会った時には“ありがとうございます”と挨拶され、どうなったかの報告をされる方もいらっしゃいます。 


そういう方には、続いてアドバイスさせていただきます。もちろん、お代はいただかないです。 


わたしは、立ち話し程度でもその時は真剣に集中力を持って聴き、いい加減な言葉は降ろしません。 

日々、真面目に真剣に生きているせいか、どなたにも真剣に向き合います。 


それは、自分の価値、相手の価値を知っているからに外ありません。


だけど 自分の価値、相手の価値がわからない人は礼儀を欠いたことをされるものです。 


それなりにプライドを持って仕事をされてる方ならわかっていただけるかなあと思いますがどうでしょうか?




これから先、自分自身と繋がっていくためには、自己価値、相手の価値を同時に大切にして接すること、つまり、敬いの気持ちは必要なことなのです。 



わたしの書いていることは自己価値の低い方には理解出来ないことかもしれませんね。 


その場の雰囲気で楽しく過ごしたいだけなのに、心の問題の話しをされてしまう。 


そういう話しはきちんとカウンセラーに相談するか友達に相談するものだと思う。 


それを知り合ったばかりの人に打ち明けられる。 


そんな話しをしたいならきちんと依頼してきてからにしてほしいと思うのは間違っていますか? 



わたしは立ち話し程度で相談事には乗るけれど、それは一回こっきりの立ち話しだからだ。 


こういうことになるのは嫌だから名刺がわりに仕事内容を書いたチラシを渡すようにしています。 

わたしは仕事として人を導くことをさせていただいているので 教えたラインに軽く相談事をしてこられても困るのです。 


ブログに書いてる内容をわざわざラインで質問されたりもするのも困る。 

ブログ内のことはブログ内で済ませたい。


それに、立ち話程度でもアドバイスしているのに、それをしもせずに、次々と自分の打ち明け話しをされても困るのです。 


わたしの口から導き出される言葉を疎かにされることは非常に不愉快です。



わたしは親切だけどお人好しじゃない。


最近のお困り事でした。






第二次世界対戦で、特攻隊に志願して逝った人達は日本国に対する忠誠心だけではなかったと思うのです。 


日本国を守るため無駄死にするためでもなくて、死を持って何かを変えたい❗という想いの表れだったのではないかなあと感じています。 



そして その想いで亡くなられた方が新たに今、転生してきています。 




わたしは死を持って何かを果たすことには反対です。 


生きること、生き延びることが大切だと信じて、過ごしています。 


だけど 死を持って何かを果たしたい❗と強い想いを持つ方も実際にはおられます。 


遺された人は辛いですね。 


何かのきっかけで、特攻隊で逝ってしまった過去世を思い出してしまうと その想いが強くなり、そのような現実を引き寄せてしまうことがあります。 

無駄死ににはならないでしょうが遺された人は辛いです。 




******** 


悪には二種類あります。 
それは、必要悪と本物の悪。 


本物の悪は周りを巻き添えにして自滅します。 


破壊することが目的なので自分も周りも破壊します。 


それはもはや人間とは見なされません。 


人間と見なされない生物はあちらこちらを破壊しています。 


生物はそれぞれ周波数というものを発しているので、そこに同調すると彼らに巻き込まれます。 


今はそんな世の中です。 

だから、波動を高めることを叫ばれるのです。 


そこに周波数を合わせないように過ごしてください。 




最近のわたしは、特に 自分の頭で考えてはいけません、と上から言われます。 

そんな生物と直接対峙してはならないという意味です。 


そういうことは上が行います。 


宇宙の法則です。 


成敗するのは上がやることで人間ごときが出来ることではないのです。 


しかし 自分の力を過信するものは対峙したがり、巻き込まれてしまう。 


それを見たら上は悲しみます。 


遺された、、、ではないですが悲しみます。 



さてさて 本物の悪が宇宙の法則にかかるとどうなるかですが、通常は魂は残りますが、本物悪の場合は魂ごと生滅させられます。 

悪の因子ごと消すのです。 



人間がいくら戦って勝ったとしても本物悪の魂は残るし改心しなかったら、また 生まれかえってきます。




宇宙を信じてください。 

そして、祈ってください。 



ちなみに、わたしはそこら辺にウヨウヨしてる輩は手で握り潰します^^ 

素敵なお手手(#^.^#) 





日々 わたしはメールアドバイスをさせていただいております。 


アドバイスでは、わたしの口や手を介してままのままさんの言葉が降ろされています。 


わたしは言葉を降ろす自分になるために修行を詰んできているのですが、そこにはままのままさんの言葉を学びに変えて成長させていただこうという気持ちがあるから、その都度、言葉が降ろされ歩んでいくことができてきました。 


ままのままさんはわたし自身でもあるので、自分自身に繋がっているということでもあります。 


自分に繋がるとは、こういうことで、自分と自分自身との信頼関係を結ぶには、この方の言葉は自分を高めてくれる言葉だから有り難くいただこうという姿勢になることでもあるのです。 


そのため メールアドバイスを受け取ってくださる方々にも わたしから溢れる言葉を学びに変えていこうという姿勢をまずは教えています。 


そうでないと、言葉が降りてこないからです。 


バカなことを言ってるとか宗教まがいだとか洗脳されているだとか、そのような心の姿勢の方には、言葉は降りないのです。 

そのため 心の姿勢には、わたしはとても厳しいです。 



洗脳されているだとか依存させているというのは、言葉を降ろす方の心の姿勢がネジ曲がっているのでしょう。 


メールアドバイスでは、ままのままさんの言葉を降ろし教えることをさせておりますが、わたし一個人は神に遣え、ままのままさんに遣えている身です。 


わたしにとって 神様やままのままさんは、自分の知らないことを教えてくださる有り難い存在です。


そして、神様やままのままさんだけでなく、周りにいてくれる家族や友達も自分の知らないことを教えてくれる存在です。 


誰もがそのような心の姿勢になれば、いさかいもなくなり平和な世界が訪れるのだと思います。 





人から見るとここ最近のわたしは“変わった”と思われるかもしれない。 

だけど それは他者からの評価でわたし自身はまるで変わっていない。 


ただ 優先順位がハッキリしてきたようで、より自分のしたいようにしていて、自分らしくなってきてるに過ぎないのだ。 


自分らしくというのは際限がないと思う。 


どこまでも自分らしくいられる。。。 



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相手の立場になって考えるということは、友達同士と知り合い程度では異なるもので、雇用主と従業員や店主と顧客といった利害関係の有無でも異なるもので、それは、礼儀に通じることでもあると思う。 


そして、このような関係で相手の立場になって考えることは、冒頭にも書いた自分らしさが根底になるものです。 


自分らしく生きているから、相手の立場になって考えることが出来るのだと思うし自分らしく生きてるから、相手の立場を理解出来るのだと思うのです。 


相手の気持ちや立場を理解出来るということは、同時に自分がわかり、自分らしく生きることがどういうことかが理解出来ていること。 



自分のことが理解出来ているから相手のことが理解出来るのですね。 



昨日も少し書きましたが、主語や目的語がなく、脈略もない話や質問をされる人は、自分というものを理解出来ていないから、自分の言葉を相手がどんな気持ちで受け取るかが想像できないのだと思います。 

想像することと理解することは、違うものですが、似通っている のだなあと感じます。 



どんなことでも想像したり理解することで次に駒を進めるように感じます。 


理解するというのは、理解しようという意欲があるから出来ることであり、そこには対象となる者への礼儀や感謝がないと出来ないことなのです。 


このように、理解しようという意欲や想像しようとする意欲を示すことが感謝を表すことなのです。




意欲が見られないのは感謝がないと思われるかもしれないということです。 

意欲は自己主張とは違うものなので。 




一般的に、日記を書かないということは、日々の生活を振り返らないことでもあります。 


日々の生活を振り返らない要因としましては、振り返らなければならない事がないか振り返ることをしたくないかどちらかです。 

振り返らなければならない事がないのは日々の生活に怠慢さがあることですし振り返りたくないのは、振り返りを先伸ばしにすることでもあります。 

どちらも怠慢さから生じることを知っておくと良いかと思います。 




また 仕事に忙しくて、振り返る時間がなくて寝てしまうということもあるでしょう。  

それは、振り返ろうとしている意欲があると思うので仕方ないとは思います。 


日記は誰かのためにつけるわけではなく、自分のため、自身の今日を振り返り、明日からまた前を向いて歩むためのものであることを自覚してください。 

自分の人生のために、そう活用できたなら、つけないという選択はないでしょう。 




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