この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2020年08月


何に導かれるかは、ホント人それぞれで 自分にとって必要だから❗としか言えない。 



『自分にとって必要なことに導かれる』


これに尽きる。 


何といようとも、これに尽きる。 



導かれた先は、自分そのものなんだなあ〜 



今日は良いことがありました。 

とても嬉しくて、飛び上がって叫びたいくらい🎵 




何をしていても何を考えていても何を選択しても、自分そのものにしか導かれない。 



だから 求められることは出来ること❗


ここ最近、立場が上の人の視点や価値観を受け入れるよう促されている感触があります。


また そんなお話しを聴くことも少なくないです。 




人が感謝を感じる基準はそれぞれ違うものです。 

だから 自分が何か人にして差し上げたからといって それが相手の感謝の対象になるかどうかはわからないですね。 



仕事でプロ意識を持ち相手と接している場合、感謝されたからといって、それで一喜一憂しないものですが、自分が認められたことにたいしては嬉しいもので感謝が溢れて逆に、「こちらこそありがとうございます。」という気持ちになるものです。 



また 自分にたいして相手が感謝を感じていないことを不思議に感じ、相手の体調を心配される方もいらっしゃいます。


それは相手を信じているが故の心配ですね。 


それを心配性と断定するのは、いかにも感謝がないことですが 
それはわたしたちを生み出してくださった創造主とわたしたちの関係でも同じように思います。 


わたしたちを生み出してくださった創造主は前世の記憶をなくして転生していくわたしたちを記憶をなくしているけれども繋がりだけは覚えてくれているだろうと信じて見守っていてくださっているのではないだろうかということです。


地上に転生してきたわたしたちをいつかは思い出して戻ってきてくれることを信じてくれているのだと思うのです。 


実際には、完全に忘れて 地上でやりたい放題やっている悪と呼ばれる存在もいるのですが 自分が生み出した我が子であることは間違いないのです。 

やりたい放題やって完全に忘れてしまっていては 思い出すこともないでしょう。 


創造主としてみたら 
我が子が自分と繋がっていると感じていないことに理解できないでいるように感じているのではないかとわたしは思えるのです。 



そんな創造主(神様)の遣いをさせていただいておりますわたしには 同じ働きをするために一緒に転生してきた仲間もいるのですが その仲間が好き放題して、霊的成長もしていないのを見聞きしますと わたしは不思議に思うのではなく悲しくなります。感情があるからです。


だけど 相手はそんなわたしの気持ちはわからず よけいにやりたい放題していて こちら側が悪いと言わんばかりに攻撃してきたりもします。 


生み出した創造主からしたら、まさか忘れてしまっていると想いもよらないでしょう。 


それに気づかない魂がどれだけ多いことか。 



これを人間の親子に置き換えることもできるなあとも思えます。 


子供を心配する親にたいして子供は心配はいらないと疎ましがりますが その心配とは、感謝を忘れてしまった我が子が変わってしまったことが理解できないからではないでしょうか?


親に対する感謝を忘れやりたい放題していても、親からしたら子供が自分への感謝がなくなったとは思えないから、どこか体調が悪いのではないだろうか?心を病んでいるのではないだろうかと気を病むのではないでしょうか? 



感謝がないなんて思えない。 
繋がりを忘れたなんて思えない。 



神様や上の立場の者達は、そう感じているようにわたしは思います。 




今日は獅子座の新月です。



神様、仏様の想いを感じてみてはいかがですか?


ご両親やご先祖様へ想いを馳せてみてはいかがですか? 


自分より立場が上の人の視点や価値観を感じてみてはいかがですか? 






感覚で生きてる人は、なんとなく聴く、なんとなくわかっているだけで 筋道立てて理解出来ていないものです。 


自分が筋道立てて理解出来ていないのに、他者に伝わるわけがないのです。


他者には感覚では伝わらないし他者だから察してもくれないし
筋道立てて説明しないと伝わらないものです。 


だから 伝えたいことがあるなら、筋道立てて説明しないと伝わらないです。 


これが、わたしが日記を書くことをお勧めしている理由です。


メールアドバイスでは、自分に意識、理解させるために、まずはなんとなくわかったことを活字にして、自分に落とし込むことをしていただいています。 


毎日、欠かさず日記をつけていただいています。 


また、まずはわたしに伝わるような書き方の指導もしています。 


その日に起きたことを時系列で書いていただき、その都度、生活のアドバイス、日記の書き方を指導しています。 



毎日欠かさずです。


うまく日記が書けるようになると 人にたいしても 自然と相手に伝わる言葉が出てくるものです。 


自分の言いたいことが活字に出来るとちゃんと相手に伝わるのです。 


そうすると 自然と 人間関係がうまく築けていくのです。 


人はある意味、誰もが伝えたいことを持っていて、それが自己主張と捉えられるか否かは伝え方で変わります。 

そのため 人からの印象も変わるものですよ。 




わたしは元々、自己主張が強く またそれが伝わらない不満も持っていたため 自力で克服してきました。 

伝わらないストレスが心労となり長年苦しんできたのです。 


それ以前には、自分の言葉が伝わっていないことを知らない時期もありましたね。 


それに気づいた時は、惨めな気持ちになったものです。 


何かを変えることはとても勇気がいることだけど  それでも伝えたいことがあるならば、一歩を踏み出すことは必要です。 


よろしかったら、日記を書くことを始めてみませんか?




「自分を持っている」 と 自分自身のことを思うのですが それは形では見えないですが、確かにあるのです。 



自分を持っていない時のわたしと比べたら、 
誰と接していようがいまいが変わらないわたしが居るのです。 




いくら、人から囃し立てられても人に巻き込まれないし、踊らされない。 


人と接している時や何かしている時は、一生懸命に集中しているけれど、ひとりになったらすぐに『自分』に戻ることが出来たり、人が居ても『自分』に戻ることが出来るのです。 


それは、以前 投稿した、『息の本体に帰る』の『止』になるのかもしれないです。 


《息の本体に帰る》 

わたしが神を意識する時は、屈伸運動(運動原理)が基になっています。

なぜなら 神とは運動行動の名称だからです。 



屈伸運動は、伸、縮、止から為ります。 

伸、縮、止こそが神の元祖なのです。 

しかし 伸、縮がないと止が存在しないので、止が神たらしめているのは伸、縮があるからですが、止には、伸、縮をさせるだけの力が備わっているから伸縮できるので、止が中心となるのです。 


これが生命運動の基となり、呼吸(息)の元となっています。


***** 


伸びて、止まって、縮んで、止まって、伸びて〜 


吐いて、止めて、吸って、止めて、吐いて〜 



呼吸(息)する時の『止』の状態になるのかな? 




結局、『自分を持っている』ということは、呼吸でいう『止』を持っていることかもしれませんね。 


伸縮させるだけの力を蓄えるための『止』は、集中力です。 


あなたは、伸縮させるだけの集中力を持っていますか? 




わたしは、わたしが教えたことを身に付けて他の誰かに繋げていってもらいたいという気持ちしかないのだなあと思う。 



また、わたしの口は厳しいことを放ちますが心は優しいし親切です。 


お返しをしてほしいとは思わないですが、他の誰かにわたしがして差しあげたのと同じように繋げていってほしいだけなのです。 



わたしはわたしのお口の元となるままのままさんの言葉を疎かにしたくありません。


そのため そんな気持ちが強く出過ぎると、厳しい言葉がつい、出てきてしまいます。 


『繋げていきたい』 


そのために、生かされているのだなあと思います。 



この宇宙には様々な法則が存在します。 


それを目の前に差し出されてきたこと(人生)に応用するだけで人生は開けてくるし歩んでいけるのだが、 
法則を知らなかったり応用力がなかったりして、人生をうまく進めていける人が少なくないようです。 



それは経験値が極端に少ないからに思う。 


失敗を恐れてすぐに諦めたり、近道を求めすぎて間違った情報を欲しがりあらぬ方向に進んで行く人が後を絶たない。 



最初、それは、人に感謝がないせいだと思っていました。 


感謝がないから、自分の内側を信じようとせず欲を満たそうとしてくる外側の情報と手を組んだり信用したりするのかと思っていました。 


しかし 
根本的な法則や経験値が少ないことに気づいてわたしは驚いたのです。 


感謝以前の問題だからです。 


先述のように、すぐに諦めたり、経験を踏むことを嫌がりすぐに簡単なやり方を求めたり。 

それでは 法則を学んでいたとしても応用できないでしょう。 



人生は義務教育制度と同じように、基本を学ぶ時期と応用力を試し、力をつける時期があります。 


それを身に付けていれば、社会に出てもなんとかなるものですが、その義務教育制度を疎かにする始末。 

考えがないから、社会に出ても基本もわからず応用力もないのです。 


子供を養育する親や教育者でさえもそれをわかっていない。 



人が遊び呆けている中、わたしはとにかく経験値を増やし、手探りでも法則を探しあててきました。 


その過程で愛を学び感謝を学び自分自身に繋がってきました。 


ふと 周りを見渡すと、何も知らないし出来ない人が溢れていることに気づき、驚いたのです。 




誰もが人生において危機的な状況に陥ることはあると思う。 


その時に、何を考え何をするかは人それぞれだけれど、その時の心の状態がその後の未来を変えることは間違いないだろう。 




わたしはまだ情報も何もないところから、自分を信じて手探りで歩んできました。ホント手探りです。 


周りを見ると、甘いなと思う。 

道がついているからだ。 
しかし 道がついているのに、道のない場所を歩もうとする人がいる。 

わからないというのはこういうことを言うのだろうな。

こちらが道を示しても無視して藪の中に突き進む彼ら。 正直、アホかと思う。これが率直な意見だ。


お金の失敗だってそう。 

一回、失敗したからって、10年20年も それに囚われているって、人生がもったいないと思わないのだろうか? 


一度 それなりのお金を手にしたらしたで それまでとは違う悩みが生まれ、それを克服しながら、それを維持したり運用したりしていくわけだけど それをわからずただ羨んだり恨んだり。 



幾度も試練を克服してくるとある種の根性がつくものです。 


だから 継続も維持できるのです。 


ひとつの山を越えたことのないような人が継続も維持も出来るわけがないじゃないですか。


失敗を恐れず、だけど慎重に粘密に事を進める微細さは継続、維持するには欠かせない。 


わたしは人生、56年間生きてきてそう思うのです。 



うわべしか見れない人間で居続けることが幸せとは思わないし、日本を良い国にしたいと亡くなって逝った人達を思うと、居てもたってもいられなくなるのです。 



心が平和で目覚めていない人が多数の日本。 


誰かが自分の人生の責任を取ってくれることを願っていては、真の幸せは訪れることはない。





この地球上で起こることを許し、永遠に見守ってきた存在がいます。 


太古の昔から、わたしたちはウイルスと共に生きてきました。 


ウイルスで悩まされる度に、神に祈り、また 祈り場所を設置してきました。それが神社となりました。


わたしたちはこのようにウイルスと共存しながら生きてきたのです。 


神への感謝を忘れると、ウイルスが発生する。 


それが地球の歴史です。 



このウイルスは風邪と同じだとか人工的に作られたとか言われますが、 
この世界で起こることは神が許しているという意味を今一度、考えてみてください。 


神様は必要ないものは自ら作らないし生み出さない。 



感謝を忘れた者は、何かの情報を外側から得ると短絡的に考えるようです。


浅はかな、、、。 




まだまだ 本質を思い出すにはほど遠いようです。 


感謝を。

しつこさ〜価値の有効活用
最近 少ししつこさに悩まされていましたが わたし自身は相当しつこい人間です。 


しかし 以前は、そうではありませんでした。 


なぜなら しつこくすると親に嫌われると思っていたからです。 


でも 娘が生まれて、娘も相当しつこい子供でしたが そのしつこさで学力も人間関係も良くなっていったので、しつこいことは良いことだと考えるようになりました。 



しつこさは自分を高めるためには有効な手段だと思います。 


しかし 対相手には不利益が生じることがあります。 



ただ 知りたいからという理由だけで、自分にとって何の意味も持たないことをしつこく聞きたいというのは、相手の気持ちを考えず自分を満たしたいだけのマスターベーションに過ぎないとわたしは考えます。 


聞いてみないと意味あるか意味ないかわからない と言われますが、
本当に自分にとって有益な情報は、しつこくしなくても入ってくるものなのです。 




わたしがメールアドバイスの方々に長きに渡って教えていられているのは、わたしのしつこさとクライアント方々のしつこさの賜物です。 


『共に成長していきたい!』 

という想いがそうさせています。 



しつこいことは悪いことではありません。 

でも そのしつこさで自分を傷付けることだってあるのです(しつこくし過ぎて相手から嫌われる)。 


しつこいならしつこいなりに、それを、有益に使ってください。 


自分のしつこさを無意味に使って、不利益を及ぼすのは、しつこさの価値を下げることになります。 



誰もが、価値ある存在で、目には見えませんがしつこさも価値あるエネルギーです。 


誰もが価値ある存在で、誰もが価値在るエネルギーを持って生まれているのです。 







「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。


人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。


 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。



心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力を借りて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。

自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 


出来ないことは求められないものです。 


息の本体に帰ってください。

息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 


だから、息の本体に帰ってください。


ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。


日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。


そのために出来ることを日々、お伝えしています。


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