この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2020年11月

私たちの人生で一番大切なことは、自分の本質と向き合いそれから生きることなのですが、常日頃から忙しい現代人は自分の内側を見る時間を持っていないわけです。

 

自分の本質と向き合って生きるっていうことは、これまで得てきた自分の歴史をまずは振り返ることからなのです。

まずは、振り返って自分がどんなことに喜び、落ち込み、どうやって乗り越えてきたか、どんな風に感じて、どう行動しているのか、何に心が揺れて、そのときにどう対処しているのかを見る必要があるのです。

 

心の底から素直になって、生き方が変わるまで自分と向き合い続けるのです。誰もが。



そうやって、自分で自分の取り扱い説明書を完成させていくのです。


誰かに頼るなんて出来ない時代に入っているのですよ。



誰もが崖っぷちと言えるのです。



崖っぷちにいるとわかっていないと用心なんて出来ませんよ。


気を抜いたら、崖から落ちますから。


だから、慎重に足元を見て歩むのです。



しかし、足元がグラグラの時、自分の取り扱い説明書や解決策がわかっていなくてどう歩むのですか?

どう踏ん張るの?


踏ん張り過ぎたら足元の岩が崩れるかもしれないのです。


崩れたら、掴まる何かは持っていますか?


今はもう、誰もが崖っぷちにいるのですから、誰かに頼れませんよ。


わかってますか?






弱い意思と強い意思の違いって何だと思いますか?


それは、意思の自由さです。



強い意思を持つことしか選択肢がなかったら、強い意思しか持たないです。

だけど 強い意思と弱い意思 どちらでもいいよ♪自由だよ♪と言われているから、意思が弱いのです。


わたしは いつも、愛しか選択しません。


選択肢がないから、自由意思ではないのです。



わたしには自由意思は必要ないからです。



意思の弱い人は自由意思の中で生きています。


どんな選択でも自由だよ と言われて、自由に過ごしています。



自由だから選択肢がたくさんあって迷うのです。

選択肢がなくて迷わなかったら、それしかないのです。



意思を強く持とうと思ったら選択しないことです。


できる♪できない♪なら、できる♪しかないのです。



自分でやる!と決めたことは 石にかじりついてでもやることです。



選択肢のある生活をしているから、成長ができないのだと思います。



これしかない!と決めたら、やるしかないのです。



結局 自由でだらけきった生活をしている人は、意思は弱いのだと思います。

それなりに 自分を律して生きてきた人は 少し、自由を経験したとしても戻ることができるのだと思います。



自由でだらけた生活をしていては いつまでたっても成長はできないですし、自己受容できないと思います。


癒しは、 今まで真面目過ぎて生きてきた人には必要だと思いますが 元々、だらけた生活をしている人には必要はないと思います。


結局 今の時代は だらけた生活をしている人がその自由さを人に見せて、真面目な人をそそのかしているだけだと思います。

だらけることがいかに癒されるかを伝えてそそのかしているだけだと思うのです。


それに騙された人が癒しを求めて、不真面目になっていく。。。


それに気づいて欲しいですね。



真面目な方の中には癒しを嫌う方もお見掛けします。


それは そんなことがわかっているからなのかもしれませんね。


昨日、切り火を使うことを宗教だと勘違いしている人のことを知りました。 


知った時は、えっ?と驚いただけなのですが 正しておいた方が良いので書いています。 




江戸時代の頃は日常で切り火を使っていたことを知り、わたしは、浄化のために切り火を使うことをおすすめしています。 


最近のわたしは古代祭祀に導かれていることを書いていますが、その祭祀こそ日本に綿々と伝わる心の整え方でもあります。 


そんなわたしがあることに導かれ、そこで切り火を使って場を浄めることをさせていただいています。 





イザナギとイザナミは仲睦まじく暮らして神様をどんどん生み育てていましたが 火の神様を生んだ時、陰部を火傷してしまいイザナミは亡くなってしまいました。 

そのため 死者が行く黄泉の国に行ってしまいました。 

しかし どうしても愛する妻を諦めきれないイザナギは追いかけて、黄泉の国に迎えに行くのです。 
しかし イザナミはもう、黄泉の国のものを食べてしまったあとだったのです。 
そして 落胆したイザナギが見たものは、イザナミの世にも醜い姿だったのです。 
とっさに逃げ出したイザナギをイザナミは追いかけます。 
醜い姿を見せたくはなかったからです。

命辛々、逃げ切ったイザナギは、とある水場で禊をします。 

黄泉の国でついた穢れを祓うためです。 

その時にイザナギは、祓神をお呼びして禊祓いをしていただくのです。 

そして その神を生んだのが火の神様です。 


ここからは、宇宙の成り立ちを説明しましょう。 

宇宙創造主が混濁とした中に漂っていました。 

自分が何物か知りたい!と願ったのです。 

すると その想いが原動力となり、摩擦が起こりました。 

摩擦が起こり火が生まれました。 

すると 火で暖められた場所が気体となり上昇して温度が低い場所が下降してどんどん冷えて凝縮されていき物質化(星や惑星)されたのです。 


一方、暖められた部分は気体となり、水蒸気となりました。 


水はそうやって生まれたのです。 




宇宙の起源まで遡ったのは訳があります。 


それは 
わたしがさせていただいていることは、最近作られた宗教ではないということです。 


毎日わたしは、イザナギを禊祓いした神をお呼びして、わたし自身を浄めていただいております。 

切り火はその神の生みの親である火の神様に敬意を祓うためのものです。 



わたしが日々、させていただいていることは 
世のため人のために尽くせるように 自分自身を浄めることなのです。 



汚れのついた体で人にお尽くしすることは失礼に当たるからです。 



わたしがさせていただいていることは、宇宙起源に基づいた礼儀なのです。 



宗教じゃないよ。 



だから わたしの言葉を真似して誰かが唱えたとしても それは宗教ではなく 礼儀なのだから、心配しなくてもよろしい。 


どんどん真似して、広めてください。 


お願いします。 

火打ち石は、自身をプロテクトするものです。

今の時代にはなくてはならないものです。






「自分の直観が信じられないからこうして訊いてるのに、どうして教えてくれないの?どうして!」 


ここ最近、
そう言われているように感じています。 



わからなかったら、すぐ訊く。 



「わからないことはそのままにしておかないで、すぐに訊いてきなさいね」
と、常日頃から話しているので、訊いてくるのは構いません。 


だけども 人に物を訊く姿勢があると思います。 

そのために メールアドバイスを受ける方々には日記を書くという受け皿を用意しています。 

それが何を指すかわかっていない人がいますね。 




謙虚な心に直観は降ろされます。 

直観と言えども自分の物ではないことを承知おきください。 


また 秩序というものがあります。 


秩序を守れない人にも直観は降ろされないでしょう。 

秩序とは、物事を行う上での正しい順序。また,社会・集団を正しい状態に保つための順序や決まりとあり、社会.集団の中にあるものです。 


社会や集団、仲間を意識しない者に直観は降ろされることはないのです。 

ひとりよがりで生きていたり周りを見ることをしない者には直観は降ろされないものです。 





わたしたちは、この宇宙全体を司る創造主から生まれた分け御霊であるとともに、そこからの直観を受け取り遣われているのです。


遣われているのに、使えない者でいても良いのでしょうか? 


自由意思の意味を知らない者のすることですね。 




わたしたちは 皆、創造主との繋がりを思い出すことの前提で、転生してきています。 


繋がりを思い出す前提での自由意思です。 





〜が出来ないと落ち込んで下を向いているのなら、目の先にある落ち葉を拾って大地をきれいにしなさい。 

涙で前が見えないなら手探りでも良いのです。 


その姿に直観は降りてくれるでしょう。


神様は降りてくれるでしょう。 





調べ物というと一般的には、書籍だったりPCだったりで調べるけど わたしの方法は違っていて、記憶を遡りアクセスする。 



今までそうやってわたしは歩んできた。 


自分のソレが信じられなかった時は、書籍を調べたりPCで検索をしていたけれど、間違いが多かった。 


自分のソレを信じなさいということだなと気づいてからは、真っ直ぐ歩んでいる。 


いくら調べたところで、他人の書いたものは何か違う。 


歴史書なんてホントそう。 


だから わたしは自分の記憶を遡る。 


そうすると 自分の前世もわかってくる。 


その時、言語化出来ないこともしょっちゅうだけど それでも大丈夫。 


どこかで寝かせられて、いずれ形になるから。 




今 調べているのは、というか蘇ってきているのは、出雲だ伊勢だと言ってる以前の時代のこと。 



現在過去未来と 手一杯な毎日を過ごしています。




 





ここのところ 感謝の心のなさから起きる体の不調に関わる相談が続いています。 



その不調は、感謝の想いがわかないから起きています。 


感謝の想いがわけば、ちょっとしたことに目配り気配りが出来、早く不調に気づくでしょう。 


愛する人に迷惑かけたり不安にさせたり心配はさせないはずです。 




メールアドバイス内で話すことがあります。 



わたしのことを好きなら、わたしの教えたことを疎かにせずに実践してよ。 成長した姿を見せてくれるのがなによりもわたしは一番嬉しいと。 



でも
成長したからと、誰かに上から目線で人に物言いしていることではないですね。 

ご恩返しが出来ないのに大きな口を叩くのは張り倒したくなる^^ 



わたしは確かに人に迷惑はかけてきたけれど、裏切ることはしてはいない。なぜなら、感謝の想いをその都度、伝えてきましたから。 


感謝出来る人となるために成長させられたのだと思います。 



だけど 世の中は 自分のやりたいことを押し込めたままにしてはいけないとか自分の生きたい人生を生きなさいと 人から離れてでもやりたいことはやるべきだというような風潮があるように感じます。 


そこに感謝は存在しないように感じます。 


自分のやりたいことをやることがご恩返しになると言われますが 
本当にご恩返しをしているなら、相手から許されるし仲も元通りになるはずなのです。 


自分勝手に離れて、その後 感謝の言葉も謝罪もないのは、心が離れてるだけでご恩返しとは言いがたい。 


体で感謝の想いを感じたら必ず自ら歩み寄ってしまうものだからです。

そして、そんな姿を見たら相手は許してしまうものです。




感謝の想いがわき上がらないのに、感謝している気になっている人が非常に多いと感じます。 


感謝している気になるのは、感謝がわき上がるものだということを知らないから。 


知らないのに下手な小細工をしてみたり隠してみたりする。。

隠してもわかるのです。



感謝は、頭で感謝しなければと思うものではなくて 心や体で確信めいた何かを感じるものです。 


ズキン❗とかじわ〜とか体で感じるもの。 


そして そうなる前には、自分の情けなさに涙が溢れ出るし、有り難くて思わず神様にひれ伏してしまうものです。 



頭で考えるのが感謝ではないのです。 






コロナは風邪とは言うけれど 

そうだからと言って、万が一のことが起こらないと確証できるのだろうか? 



絶対に大丈夫❗と言えるのだろうか? 





身内にコロナが出たら隔離され仕事にはいけなくなり他者との接見もより敵わなくなる。 
今はそんな世の中だ。
しかし、そんな状況になることも考えられずに野放図に好き放題やって、コロナになりましたから仕事を休みますと言われたら、誰が代わりの仕事をするのだろうか? 


自分の仕事に責任持てず、自分の人生にも責任持てない人の代わりを誰がするのだろう? 


結局 責任ある人が代わりにやるのだろう。 



結局 責任感のない人がコロナを増やしているとしか言えない。 




自分の人生を真剣に考えて 世のため人のためになろうと働いている人は、病気にはならない。 

なってる暇などないからだ。 


真剣に自分の人生を考えている人は、コロナにかかるような責任感も感謝もない人とは接見しない。 


だから、かかりようがない。 


これが波動の法則というものだ。 



コロナは運が悪いからかかるわけではない。 




「わからない」という発言は 

自分の気持ちがわからない 

ということなんだな。 



自分の気持ちを突き止められないから、わからない。


ぐらついていても、わからない。 




わたしは、言ってることが毎回違うと、以前言われていたことを思い出しました。 


わたしは揺らいでる様を素直に伝えていただけだったのですが それが相手を混乱させていたように思います。 


また、あなたはどうしたいの?の問いに
「正直に話したら却下される」と思い込んでいたから、答えられなくて相手から激怒されることはしょっちゅうでした。 

あの頃のわたしは、
却下されて落胆したくないので、結局、うやむやに済ませることしか出来なかったことも思い出しました。



その行為は、まさに自分に嘘をついている行為だから、とても辛かったなあ〜 


その時の辛い気持ちがあるから わたしは相手を問い詰めてでも 相手に嘘はつかせたくないと思うのです。 



自分に嘘をつくと 胸が詰まって苦しくなって 磁石が鈍くなる。。。 




そんな過去のわたしを思い出しました。 



その後 自分の状況を打開したくて、嫌われても自分の主張を貫く実践をしてきました。 


自分は楽になるけど相手には迷惑をかけました。 
ホント、周りに迷惑をかけてきました。

でも、そこから、感謝が芽生えてきました。 


相手に迷惑をかけてかけてかけまくってきたから、相手に思いやりを示せるようにもなったのです。。。 




自分の気持ちがわからないと 
このように、自己主張して 迷惑をかけることも出来ないのだなと感じています。 



自分の気持ちを知ることって大切ですね。



最近では わたしが相手の気持ちを引き出そうとしても、相手からトンチンカンな返答が返ってくることがあり、落胆することありますが、
トンチンカンな返答は その人なりの防御反応なのだなあ、と思えるのです。昔のわたしみたいに。 



あなたはどうしたいの? 


その問いかけは、 

あなたを責めているわけじゃなくて 
あなたを引き出したい想いがあることを知ってくださいね。 



昨日、感情と自己防衛反応の違いを質問されたので書いてみたいと思います。


そもそも、感情というのは好き嫌いといった心の動きです。一方、自己防衛反応というのは自分を守るためのアレルギー反応ですね。

体が元の拒否反応で、体質とも言えます。



蕎麦アレルギーの人は、お蕎麦を食べたらアレルギー反応により心停止する恐れもありますね。好き嫌い以前の問題です。


その違いです。


この質問をされた方は、体が拒否反応を起こしていることと心が反応していることの見極めが出来ないということになります。

あまりの鈍感さにのけぞりました。


見極めが出来ないのは重大なことです。


わたしは感情が動かず体が反応しますので、そこのところは正確です。



ちなみに、わたしは波動のひく〜〜い場所が超苦手で受け付けないので、絶対にその方面には動かないです。うっかりもない。


たまに、防御服に身を包み飛び込むことはありますが、ほぼありません。


わたしは自分の体に忠実にに動きます。


人に対しても同様で急に合わなくなることがあるのでその時は寄り付かないです。


感情と自己防衛反応の違いを質問された方は、自己防衛反応が起きても感情の動きだと錯覚するのでしょうね。


自己防衛反応が起きているにもかかわらず感情の動きだと錯覚し続けることは、身体に異常を起こし死ぬ危険があるのです。


あなたは自己防衛反応と感情の動きの違いをわかっていますか?


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毒性のある食べ物を食べると体が痺れます。


痺れるものは、わたしは受け付けません。


結界で使用される植物もわたしは受け付けないです。

また世間では波動が高いと言われている食べ物もありますが、その昔、その中のうちの一つを一口、口に入れた時には全身が痺れ、のたうち回りました。


毒性のある食べ物は痺れを起こしたり常習性を引き起こすことがありますので食べるのは控えた方が良いかと思います。


体が鈍感だとそれがわからず常習的に求めてしまうので、敏感になりましょう。



死なないとわからない、死ぬ想いをしないとわからないというような鈍感でいては、取り返しのつかないことになりますよ。


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