この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

2020年12月


ままのままの教えというものがあり 
わたしは、そのままのままさんの教えを言葉にして降ろすことをさせていただいております。 


そして 次世代に繋げるよう伝え教えることもさせていただいております。 


ままのままさんの教えというのは、古代祭祀を司っていた頃からの礼儀を軸とした教えです。 



今年は、コロナ渦の影響を受けることなく ままのままさんの教えを広めることが出来たと嬉しく感じています。 


神様がコロナをこの世界にお許しになられたのは、パソコンでのコミュニケーションでもなくオカルトチックなテレパシーでもない、古来からの教えを受け継ぎ繋げるためだったように思います。 


仲間と離れていても 誰もが内にある神様という礼儀に気付き心を通わせていくことでそこを通して新たに仲間と繋がっていくことが出来る。 


それは 元々ある神々の秩序をこの世界に反映しているに過ぎないのです。 


古代には当たり前にあった礼儀や神々の秩序をわたしたちは見えないようにされていたのかもしれません。 


しかし こうやって 神々の秩序や礼儀を思い出すことで、新たな自分となり家族や仲間とも言葉を介さなくても心を通じあわせることが出来る。 


誰をも敬い、謙虚でいることで 古来からの想いを感じることが出来るのです。 



有り難いお導きに感謝しております。 



真実の口、真実を伝える役目を持つものは、規則正しく几帳面で清廉潔白でなければならない。 


それが出来ない者は、その役目は剥奪される。 


いくら真実を発したとしても信用されないような人間性であれば、真実は活かされない。 


故に、真実を伝える役目ある者は、精錬部隊でもあるのだ。 



謙虚な姿勢は何故、好まれるかというと そこには「学ばせていただこう」という心があるからです。 


謙虚になろうと頭で考えても姿勢に表れることはないでしょう。 


心が謙虚になろうと感じるとそこで姿勢が変わるのです。 



心と体(姿勢)は直結しています。 




「学ばせていただこう」という気持ちは「学びたい!」とは違います。

意欲の「学びたい!」は資格を取ろうとか目標がありそこに到達したいと言った気持ちが前に出る印象を受けますが
謙虚さの「学ばせていただこう」というのは、気持ちが前に出るというよりは一歩相手にへりくだった印象に思えます。 

相手にたいしての敬いの気持ちでしょうか?



敬いの気持ちなく、ただ「学ぼう」ではひとりよがりになりがちですね。 




よく見かけるのです。 

自分だけ、学習した気になっている人。 

そんな人の学びはひとりよがりで世のため人のためにもならないですね。 



学ぼうとする意欲は賛成しますが、ひとりよがりの学びは時として迷惑になるもので、協力しようという気持ちがなくなるものです。 



これからの世の中は、謙虚な姿勢を持つことが鍵と言えるでしょう。 



サインの読み間違い、サインを逆に読むことがあると聞いて少し驚いています。 


わたし、読み間違いは ほぼほぼありません。 


それは体の奥から響いてくるからです。 


頭で考えることではないからです。 


閃きとも違う。 



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「私たちの人生で一番大切なことは 自分の本質と向き合い生きることなのです」 


と先日、投稿した辺りから、何だかモヤモヤしています。 



というのは、 
大半の人が上記のことをわかっていないからです。 


どれだけわたしが声を上げても気付かないし
その人に気付きがあったとしても それはマチマチで
どれだけサインが降りてきていても気付かなくて最後には最悪の結果を招くことになることもあります。 


最悪の結果を招いても、運が悪いと考える人もいます。 


サインが降りてきていても正確に読み取れないのです。 


何故かといったら、経験値が低いとしか言いようがないのです。 



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気配り目配りが出来るととかく忙しいものです。 


目の前に起きることを疎かにせず過ごしていると とかく日々、忙しい。 


わたしは普段は主婦していますが 
朝、起きて新聞取りに出て草が生えていたら草抜きして、靴が汚れていたら洗い、洗濯物干す前には物干し竿周りを軽く拭くなりするし 
買物に出て、困ってる人を見かけたらすぐに声かけ、目についたゴミは取る。。。 


これに加えて、メールやラインが入ったら、すぐに対処して電話なりなんなりする。 


あちこち意識して見ています。 

意識して見て回り、素通りはしないです。 


暗闇の中、少しでも怪しい光を見たら、寒空で猫ちゃん泣いているんじゃないかと戻ってみるし(結果、小火の光で火を消してきた) 



肩書きもなくたいした仕事もしていない私のことを暇人扱いする人もいるけれど 
わたしは確かに目立った仕事はしてないが 
日々、四方八方意識を向けて過ごしています。  


だからか、それ以外で頼まれ事もあり、動いてます。 



目配りすることが仕事と思えるくらいです。 


どこに居てもアンテナ立てて意識して、何かあったらすぐに確かめにいきます。 



こうやって、いつでもどこでもアンテナ立てて意識して生活してるから サインの読み間違いはほぼほぼないのです。 



また、人にたいして何かして差し上げたら感謝されますが そこで感動して酔いしれる人がいらっしゃいますね。
じわ〜と酔いしれると言いますか 
わたしは酔いしれてる暇なく動きます。 
酔いしれる暇あるなら何か人のために動きます。 


そうやってセコセコ働きアリさんのように動いてます。 



そんな生活していたら、サインの読み間違いはしないです。 


お試しください。 



そんなわたしの両手には一億紋があります。 


幸せは与えられるものではなく、創るものです。



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