この世の中は 中庸の世界だから、良いことも悪いこともないとおっしゃられますが わたしはあると思います。

しかし その正しいことを主張することによって 傷付く者がいるから、傷付けられた人は 傷付けた人を悪と呼ぶのだと思うのです。

実際は、『正しいこと』を主張しているに過ぎないのだけど
主張し過ぎるため、愛がないと判断されるのだと思います。

また、主張した人は 自分を愛だと信じているから、それに反発する相手を悪だと判断してしまうのだと思うのです。

これは、善と悪というものではなく
表と裏に過ぎないのだと思うのです。

求めているのは、その正しいことではなく、
その正しいことの内側にある『愛』なのだと思うのです。

その『正しいこと』の扱い方で愛があるかないかを判断するのではないのでしょうか?

だから 現象はただ、現象として受け止めるとよいのだと思います。

そして、先ほどの記事にも書きましたが

その現象を自分の中の絶対愛で表現するだけだと思うのです。

絶対愛の量が低い人は、そのままストレートに主張してしまいますが
絶対愛の量の多い人は、慈しみの心を持って表現されるのだと思うのです。

慈しみの心、それが絶対愛だとわたしは思うのです。

思いやりも配慮することも慈しみの心からです。

宇宙の愛は信頼を根底においた見守る愛ですが
ここは、地球で人が住む星です。

人には手も足も口もございます。

だから、それらを駆使して、慈愛を表現することをしたいのだと思うのです。

そうやって 魂を磨いていきたいんだなあ と思うのです。

見守るのは、簡単ではないですが、 でも、まあ 簡単です。

だけど
わたしたちは、魂の上に肉体をかぶった生き物ですから 魂のままでいるような、見守る愛をわざわざしなくてもよいでしょう。

魂を磨く、魂を成長させるということは

どこまでも見守る。。。ことではなく
手を出し、声をかけ、労り 尽くすことだと わたしは思うのです。

これはわたしの考えですから、間違っているかもしれません。

だけど、そう思えるのです。

わたしたちは、慈しみの愛を学びに来たのだと思えるのです。