あと 周りの人のもうひとつのテーマ 『依存からの脱却』があります。


今まで そばにいてくれる人に寄り掛かって生きていたため 急に、寄り掛かるな!と言われてしまい ショックを受けている人はいらっしゃいませんか?


依存とは、そもそも 自分に自信が持てないために 頼る人を見つけて その人の言われるままに生きていこうとする他力本願な生き方になります。


他力本願ですので 主体性に欠けますし、自分の意見を持てず、自分の軸はありません。

他人軸で生きようとすることです。

他人軸で生きるということは 自分をなくしていく生き方です。



本来 わたしたちは、自分の人生を生きるために生まれてきているのですから 魂の生きたい生き方ではなく 魂の想いからは離れた生き方と言えるでしょう。


そのため そんな生き方を続けていると 魂が反乱を起こします。


それが 相手に伝わり、相手から見下り判を突きつけられてしまうのですね。

それは、共依存の関係では起こらないようです。

共依存だと、頼られたい人と頼りたい人の組み合わせになります。



さて 見下り判を押されてしまった場合、急に 依存関係を解消されてしまったわけです。。。


それまで 相手軸で生きていた人にとっては、青天のへきれきですね。


わたしから言わせると、 見下り判を押した側に責任があると思います。


それまでは 依存を認めていたわけです。
それを急に、くつがえすなんて 責任感がないやり方です。


依存したい方というのは、自立ができていないのです。
自分の足で立てない赤ちゃんを外に放り投げるやり方です。

なんてことをするヤツだ!と思ってしまいます。


わたしは、自立していただくために毎日メールでアドバイスをしています。

その方たちはわたしの子供のようです。

わたしが親の立場になるので 昼夜関係なく、メールだけじゃなく 電話でも教えています。


依存 という言葉は非常に悪い捉え方だと思います。
なぜなら そこには、信頼があるわけです。


依存であろうがなかろうが信頼していた人から、急に見下り判を突きつけられたら、、、を考えてみてください。


相手軸である杖を急に外されたのです。


ただ よろけるだけではすまないことはわかると思います。


転んで怪我をします。

そして、その状態から立ち上がらないといけないのです。


人の気持ちというのは残酷です。

依存はいけないんだ!

そんな簡単に言い切れるものではないのです。



人が立ち上がるときは、
抱きしめられて誉められて、デレデレに愛されてからです。


わたしは 空ちゃんから そうされたから、自立できました。



依存はいけないんだ、ではないのです。


自立で立つ前には、杖がいるのです。




そして 先記事でも書きましたが 離れるのは、人や物ではないのです。

負の感情だけです。


人は離れていかない。


人が離れていくと考えている人は、本当の意味での自立をわかっていないです。



自立というのは、自分自身の内にある神様と繋がり、誰もが同じ神様と繋がっていることを実感することだからです。



自立するからワンネスがわかるのです。


人や物は離れていかない。