この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: その他読物


好かれなきゃいけない
大事にされて当然
お節介をやきたくなる自分を抑えなきゃならない
みんなによく思われなきゃならない
人より劣ってはいけない
軽蔑されてはいけない
下げずまれてはいけない
ボーっとしていてはいけない
人より上に立ってなきゃいけない
でした。



10年以上前のわたしが持っていた感情です。


こんな感情を抱えたまま生きてると、苦しいね。



自分でどうやって克服したのか記憶を辿ってみると、 2、3年前まではあったような気がします。 


わたしは幼少期から、姉と比べられてきたし 姉からも、同じ腹から生まれてきたと思えないどんくさいヤツ!と言われてきました。 



根強い劣等感。 



どうやって克服したのかというと、自分の得意分野を認めて、その自分を存分に出して生きたからなのかなあ〜って思います。 


今は、やりきった感ある。 


存分に出し切る❗ 



前回?も書いたような気がする。 



人に嫌われるまでやりきると、やらなくなる。 



自己主張万歳\(^-^)/ 




押さえていないで出すといいんだよ、きっと。



思ったより、受け入れてくれるものです。 


行動せずにいることで長引くから行動することですね。




嫌われてもいいやん❗ 


自分がやりたいのを止めるほうがストレス溜まるね。 





夫婦でいると どちらか一方がお金にルーズだったり使いすぎてしまったりすることあると思います。 



すると 相手からお小言を言われたり、言われなくてもそう感じたりすることありますね。 




それは 自分が相手に引け目を感じているからです。 



相手を誤解しないようにしましょう。 



見つめる対象は自分自身の生活態度であったり心です。 



誤解されたパートナーはたまったモンじゃありませんね。 






言われてないのに、そう感じて決めつけて相手を評価してる人は意外と多いです。 

自分はエネルギー読むのが得意だから間違いない!というスピ系さんにありがちな勘違い。 


そこ!自慢するとこじゃないから〜 


自慢して墓穴掘ってます^^ 


こういう人ほど確認検証しません。 


そのため横道に反れます、反れます。 



グラウディングできてない自分の直観は妄想です。  


スピ系あるあるな話しでした。 



これがわたしがメールアドバイスをしようと思ったキッカケです。 





幼児虐待について、テレビの報道を観る度に、思うことがあります。 




報道で、母親父親の「躾の一環としてやった」という言葉が流れる度に、そうだよなあ と思う。 


その人たちは、そう躾されて生きてきたから。 

だから、躾と疑わないし、自分は正しいと感じている。 



子供は親がすべてだから、親が間違った子育てをしてきたとは思わないし思いたくない。 


元を正せば、その親が間違った子育てをしてきたのだから、被害にあった幼児の親を責めるのは違うと思う。 



だから、違うと思う。 




報道して事実だけ届けるのではなくて、加害者である親を非難する。 


本当は加害者ではあるが被害者なのではないでしょうか? 


塀の中で自分自身と向き合っていくことになるのです。 


すると、気づくのです。 


自分が受けてきた躾というものが躾と呼ばれるものではなかったことに。 
そして、子供に対して懺悔する。 


そんな形でしか、負の連鎖を止められなかった自分を責めるのです。 





確かに、加害者ではあるけれど、よく知りもしない他人があれこれ言うべきではない。 


〜評論家という人が出てきてまことしやかに解説をするけれど 他人に出来ることは、被害を受けた子供に対する祈りだけのように感じます。 



誰もが、自分の人生を生きるために生まれているのであるから、誰もが自分自身の感情に向き合うことがするべきことで、他人をとやかく意見すべきではない。 


知ったふりして、人を裁くのは違う。 





わたしは、自分の口を通して、魂からの声を伝える役目がありますが、厳しい言葉を放った時は、辛くなる。 


わたしの口が発したことは、その相手に向けた言葉ではありわたしに対する言葉ではない。 

だけど、辛くなる。 




楽しい言葉を降ろしていれば良いのだけれど、導き手でもあるし教える立場でもあるから辛くなる。 




わたしはわたしが辛くなる言葉を降ろしたくない。 

わたしを好きだとか信頼してると思ってくれているのなら、その辺の配慮をしていただきたいと思う。 




人に対しての配慮、感謝は人を穏やかにさせるね。 



わたしは常々、自分の物指しは持つのは構わないが他人をそれで測らないことと言っています。 



誰もがそうなると嬉しい。 



人の批判的な言葉はもう聞きたくない。




内なる女神を呼び起こすと言われる昨今?ですが 女神って何?という方は多いと思います。 


女神=女性性。 


う〜ん、女性性って何? 




これだけを考えてもわからないと思います。 



何故なら、『内なる』だから。 




宇宙レベルの女神の目覚めなのです。 





わたしは、よく「女子女子」という言葉を使いますがこの「女子女子」こそ、内なる女神だと感じています。 


外見を綺麗にしたり、身だしなみを整えたり、丁寧な生活を心掛けることも女子女子です。 


だけど 本質は もっと違う。 





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自分自身は道理の通らないことを最も嫌がります。
それは、「感謝」につながらないことを知っているからです。
そして、自尊心が生まれると「秩序」が生まれます。


 
自尊心が立ち上がらない時は罪や罪悪感、批判、精神、依存、被害者意識を生み出します。


自分自身は、自らの表現が人として当たり前のことをするところに支えられていることを知っています。

それは、別の言葉にすると「感謝の心」と呼ばれるもの。
 
自分自身の表現とは、「個」の表現に見えて常に社会性を持っているものです。
 
 
その道をひらくのは、「感謝」だということ。

それは、感謝しろということではありません。

感謝は自尊心が立ち上がると自然に湧きおこるもの。
 
感謝できないことを無理やり感謝しようと思っても無理なもの。

感謝できないときは、わがままが足りない。

わがままをやってみるとわかる。

わがままにスピリチュアルな言い訳はない。
ほんとにわがまます
ると、自分に責任を持つことができる。
なにがなんでもやるって思える。
やりたいことを素直に話もできる。
人に頭をさげることもできる。
自分の選択に責任を持ってやり遂げるために努力できる。
そのとき、人は初めて努力ができる。

そして、人は努力したときに愛されているって知る。
 
そうすると、あ〜自分わがままだったなってわかる。
これは、わがままを推奨しているんじゃなくて、 
道理の通らないわがままはやっぱりわがままなんだ。
 

自由な表現っていうのは、道理の通らないところにはない。
 
その道理を通すのが自尊心。

通し続けるのは意志の力。
 
もう努力が努力であることを忘れているぐらいのレベルです。

それは、人として「あたりまえ」のことをするということ。
 
そこに全力のエネルギーを注ぎ続ける。
 
 

乙女座新月が、「自分に不要なもの、相応しくないものとの 縁が切るようにもっていってくれる」
 


 
わたしたちの前途を邪魔するものと縁が切れるような流れを作ってくれて
 
なおかつ
 
あなたに相応しい道へと
軌道修正までしてくれる。
 



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これからの世の中、お金は分け隔てなく、人に奉仕ができる人の元へと、吸い寄せられていきます。 


お金を得ても、自分だけのために使わず分け隔てなく分け与えることができる人の元に吸い寄せられていくのです。 



人への奉仕が分け隔てなくできること、自分の利益のために使わないこと。 

それって天の神様も内側の神様もご存じです。 



人は そのように、自分が稼がせていただいた物も人様からいただいた物も公平に分け隔てなく分け与えることのできる人に育てていただけるのです。  




それが神様の力です。 



今の自分が変化するってわからないことだと思います。 


だけど、意識が変われば 身の回りすべてが変わります。 



満たされることを知ってください。 



今までお金に困ってきたり制限されてきた人って 一度は、自分が気軽に使えるようになりたい!という夢を持っているようですが、お金を手にしたからといって裕福さは身に付かないのです。 


裕福さってお金を手にすることで得られるものではないからです。 


言うなれば、品性というものだからです。 



品性というものは裕福というものよりも いかに自分を尊い存在であるかを感じているかです。 


結局 人は、お金を手にして 品性を得るのです。 


本来なら 当たり前にある品性です。 





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『内なる』は品性であり自尊心。






内なる自尊心を呼びさまそう!!!






旦那と別れたのは誰の責任? 

旦那の浮気はすべて旦那が悪いのかな? 

自分に非はなかったのかな? 

結婚した時は互いに思いやりがあったはずなのに、思いやりがなくなったのはなぜ? 


仕事が忙しかったから? 
仕事が忙しいのに、横柄な態度を取られたから? 


仕事が忙しいのは、段取りが悪いからじゃないの? 
時間を決めて動いてないからじゃないの? 



人のせい 
人のせい 
人のせい 


一度、人のせいにすると、次からも人のせいにするようになる。 


人のせいにして、自分の内側にふたをする。 

見ないようにふたをする。 



人のせい、旦那のせいにして、子供を父親のない子供に仕立てていく。



子供にとってそれは良い選択なのだろうか? 



母親として良き選択なのだろうか? 

人として良き選択なのだろうか? 




どんな選択をしても自由だと言うが 父親からの養育を受ける権利を奪う選択は果たして自由という言葉で済まされることだろうか? 



自分の外側に起こる現象は自分の内側に要因がある。 



反省すべきことはないのかな?  



ないのかな?






人はそれぞれ運命があって、その運命を生きるためには、使命というものがある。 


それは、みんな それぞれ違うもの。 



その使命に合わせて、わたしたちは姿形が決められている。 

そのため、親を選ぶことをしてる。 

DNAが必要だからだよ。 



姿形。 



そのためには、手足が短かったり長かったり少なかったり多かったりはあるものよ。 


それは、人生の途中でそうなることもある。




また 手足といっても現実的に目に見える手足、見えない手足があるものです。 



今のわたしは現実的に目に見える足は2本で見えない足は一本です(笑) 


そこもそれぞれ違うものよ。 


だけど 以前のわたしは見えない足がなかったから苦労したわ。 


でも 見えないから障がい者に見られなくて苦労したわ。 

今は生えてきたけれど^^ 



そんな理由で、
人はみ〜んな、造作が違うのよ。 



目に見えることだけで決めつけられないことがあるのです。



今の世の中では、一般的に目に見えるものを基準にしてるけど、そうでないことを知ってほしくて書いてます。 




実際に、目に見えてナイ場合、人から労られるけれど、見えないものがナくても気づいてもらえないから労られるどころかいじめられたして悔しい想いをするのよ。 



気づいてもらえないって辛いわ。 





だから、目に見えることだけで決めつけないでね。 

目に見えなくてもアルことを知って欲しい。


わたしがいつもブログで書いていることは家の中でも日常的に話しています。 


わたしは神様を身近に感じて生きていますがソレ同様に人との関係も近く垣根があるようでありません。 
昨日、書いた礼儀についても それは、親しき仲にも礼儀あり、の意味が大きく、親しい、が前提なのです。 

そうです。わたしは、親しくなったら垣根はなく、家族同様に接します。 

接しますというより接してしまいます、と言ったほうが良いかもしれません。 


それはわたしが日常的に神様事を話したり行ったりしているからかもしれません。 


制限されることに対して拒否反応を示してしまうので予め自分の正体を暴露しているのです。 



神様事のことでも原発のことでもタラタラと喋りだします。 


家の中だと、母親として過ごしていることが多いですが、何をしていても降りてきたらそのまま話すし、動き出します。 


自由です。 




人と交流を持つということは、ありのままを生きてるわたしにとって、ありのままを出せる場所を広げているだけで、もっともっと広げていきたいなあと思ってます。 

ブログを読んでいただくことで、わたしの日常を感じて欲しいです。






 自分と価値観の違う人を 『残念な人』と表す方がいらっしゃいます。 


『残念』とは どんな時に使うかわかっていて 『残念な人』と言っているのでしょうか。 


『残念』とは 期待していたのに、 期待通りでない時に使う言葉です。 

だから 人に使うということは 

自分が〇〇〇な人だと思っていたのに×××な人 
という風に使うと思われます。 


しかし、期待とはほど遠い、自分勝手な思い込みで
『残念な人』と表す方がいらっしゃいます。 



その人からしたらいい迷惑ですわねぇ〜

『〇〇〇な人』と思い込まれていたんです。

勝手に 『自分の価値観と同じ人』 
だと 思われていて 
けっきょく 
『自分の価値観と違う人』だから

と言って 

がっかりされてしまうのですから。。。



それって 相手を尊重する言葉ではないのです。 


『〇〇〇な人だと思っていた』
ことは 勝手な思い込みであり  相手を尊重する言葉ではないということです。 



『残念な人』という言葉を使っている方は 自分が正しいという前提で、使われていて、相手を敬うことや尊重するということを知らない人なんだな と思います。 


わたしは  社会的に立場のある方が、
この『残念な人』という言葉を使っていることが多いと感じます。



人に伝える役目を持っている方は 言葉に気をつけていただきたいと思います。 


それをいいことのように広める人がいます。 


それが世間というものです。 



言葉は正しく、美しく 使いたいものです。 





わたしはスピリチュアル的に導かれる前までは、自己否定が強く、それを克服して今の自分があると思っていて、また 人に認められたい気持ちはなく、自分が自分のやりたいことをやっていくことが世のため人のためになるのだと感じて生きています。 

しかし ここ最近、何か知らないけれどサインが降りてきています。 


そして、それに影響されて違うエネルギーも降りてきていました。 



この世界は2元性の世界であって ひとつあるともうひとつあるという表裏一体の世界です。 


そうです。表裏一体のサインが降りてきていたのです。 


そういうときは決まって強いエネルギーに引っ張られるものです。 


そのため 昨日の朝まではモンモンとしていました。 


ある場所に行かなくては、とも感じていたのです。 


しかし 遠方であるため迷って結局はやめたのは正解でした。 




わかったことは、サインというのはわかりやすく降りてくるということです。 


目に見える形で、わかりやすくです。 




そうです。 
わかりやすく、わたしの盲点を教えていただけたのでした。 



わたしは認められるべきことを当たり前にしているため気づかないことがあるのだなあと感じました。 


人に関わると、自分でも気付かなかった自分に気づかされますね。 



わたしと同じようなことが起きてる方もいらっしゃいますよ〜 


参考になさってくださいね〜


人からギャフン!とやられたことを反省せずに、親しい友達や家に帰って当たり散らしたことはありませんか? 

目の前に起こることを学びだと思わずに、逆に人に当たり散らすのです。 


友達や家族はいい迷惑です。 


また、それをいさめることなく同じように悪口を言い合ってストレスを発散する。 




うちではそのようなことはなく、何かあったら わたしが聞き役になり、時には諌め、時には慰めますが 目の前に起きることは『学び』なのですよね〜 



そんな話を見聞きすると、逆に自分の身が引き締まります。 


自分はどうだろうか?と。 



でも この世の中には、当たり散らせる家族や友達がそばにいてくれる人がいるとは限りません。 


寂しい、と感じます。 


そして そんな方々ほど 目の前のことを真摯に取り組もうとされていて、友達や家族がそばにいる人ほど気づかないのです。 



結局、人は淋しさに身を置くことで成長ができるものかもしれません。 




だけど 家族がそばにいてくれる人こそ 目の前に起こる出来事を真摯に見つめていただきたいと願っています。 


離されてからでは辛いから。 


温もりのないのは辛いから。 



いくら 自分自身に繋がったとしても 人の温もりには勝てないものです。 



それがわかるから、わたしは進んで聞くのかもしれません。 


そばにいても温もりのない関係もあります。 



結局、人は成長よりも温もりを求めるものかもしれませんね。


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