この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: 人の道

人として生きているのは、役目があると思うのです。。

まず、この世におぎゃ〜と生まれて 赤ちゃんとしての役目。

両親や家族に育てていただいてる代わりに その笑顔で癒すのです。

そして、自分を育ててもらいながら 親を 育児ができる親にさせる役目もあります。

お互いに 育ててもらいながら 成長して、親に守られるのです。

親に守られるという役目。

だから 子供は 親に守られる権利があるのです。

親は子供を守る義務があり、自立できるように育てる義務がある。

そうやって 子供は 家庭の中で 自立できるように 育ててもらうのです。

そして 社会に出るのです。

社会に出たら、社会人として それぞれの仕事につき それぞれの役目をこなすのです。

そして、愛する人ができたら 、愛する人を守る役目があり、
家族が できたら自分が親に育ててもらったように 、子供に癒され、親になっていくのです。

社会での役目もあり、大忙しです。


だけど、それまでは 頭も身体も動いていたけれど だんだんと 動かなくなって 家族の手を借りて 生活をするようになります。


そうすると、今まで 生かされてきた知恵を 子供や孫に伝えていく役目があり、


それが できなくなってくると 、介護をしてもらうようになります。


それでも 役目はあるのです。


それは、お世話をされるという役目。

お世話をされることによって 人は奉仕ができるのです。

人が奉仕ができるということは、

人に奉仕をさせていただけるということで お徳を積むことになるのです。

お徳というのは 人間にとっての貯金みたいなもの。


自分が お世話される側になり、相手に お徳を積まさせてあげられるのです。


素晴らしいことです。



こうやって、人は 自分の役目を全うしていくのです。


長い人生だから このようにうまく 進まないかもしれないけれど 、

最後は

人は老いる。


老いた人間は 必ず、誰かのお世話になるとは思うから、 そのときには 必ずお役目がある。


人間は 最後の最後まで 人の役にたちたいものなのです。


息の本体に帰りなさい。 

息の本体に帰ろと言いとるじゃろが。 


息の本体に帰れば弥勒の世の世界に戻れるのじゃ。 



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わたしが神を意識する時は、屈伸運動(運動原理)が基になっています。

なぜなら 神とは運動行動の名称だからです。 



屈伸運動は、伸、縮、止から為ります。 

伸、縮、止こそが神の元祖なのです。 

しかし 伸、縮がないと止が存在しないので、
止が神たらしめているのは伸、縮があるからですが、止には、伸、縮をさせるだけの力が備わっているから伸縮できるので、止が中心となるのです。 


これが生命運動の基となり、呼吸(息)の元となっています。


そして、伸縮運動が元になり回転や波形運動が生まれました。 

それは 止の住む場所は無重力だから。 


無重力な中で力が加わることで、熱が生まれ、凝固=物質化が始まり、気体が生まれ、水蒸気が生まれ、水や光が生まれました。 

それが神の運動です。 

神の運動からわたしたちは生まれたのです。 


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《呼吸》

神は鼻から命を授けてくださった。 


口から吐く行為は、神の愛を発揮することで、それが感謝だ。 


吐いたら、自ずと入ってくる。 


神の愛を発揮したら神から命を授けられるのだ。 

故に、
出したら、必ず 入ってくる。 

自ら与えたら、巡って入ってくる。 

決して、なくならない。 

息の本体に帰るとは、命を授けてくださった時を思い出すこと。神の愛を発揮した時を思い出すこと。 




最近では、立て直しを促されてる方が少なくないようです。 



親の立場から申し上げると、子供なら子供らしく親の言いつけをきちんと守るべきですし、大人なら自分で考えて行動すべきですね。 


親には甘えたいけど自分のやり方で生きたいは道理が通らない。 


自分のやり方で生きたいなら甘えず自立することです。 


自立とは、昨日も書きましたが、道徳心あってこそです。 


人の奥さんとホテルにしっぽりしたいなら離婚してからすればいい。 

奥さん怖くて離婚出来ないのに、好きだから一緒にいたいとホテルに連れ込むなんて自立してる男のすることじゃない。 

その上、人の奥さんの自宅まで上がり込んでおいて 人に迷惑かけない人なんていないと宣う、、、、、
頭おかしいじゃないかと思う。 


このような由々しきこと、あちらこちらで見聞きします。 


女性も女性で慎ましさもあったものではない。 


女性に道徳心や貞操観念があれば防げることは世の中にたくさんあると思います。 


わたしは女性ですし人の妻ですから女性には厳しいです。 


世間の女性を観ていると緩い人ばかりで不愉快になることも多いです。 



自分を大切にする基本は道徳心であり貞操観念だとわたしは感じています。 



まあ、由々しきことだから そのうちバレて大きなことになるのでしょうね。 

これからは隠し事が出来ない世の中になるようですから。 


あちらこちらで出てくるかもしれません。 

バレて立て直されるのでしょう。



立て直しの世の中の始まりです。 





誰だって何かしようと決意したら勇気さえあれば突き進んでいける。


神様が仰られる努力とは、突き進んでいくための土台を築き継続し続けること。 

瞬発力も大切だけど継続力。



土台もしっかりしていないのに努力できないですね。 


土台とは家族、親類縁者、友人。 


助け合えるよう支え合えるよう家族たちを大切にして過ごすことなのです。 


その感謝もそこそこでは成就できません。 


誰と信頼を築くかといったら まず先に家族からです。 


それでこそ、神様の器と成り得るのです。 





出来ることはさせていただきたい 

という気持ちで過ごしている。 



自分の出来ることってなんだろう? 


自分の出来ること。 



自分の頭や力を最大限にフル活用するということ。 


早く!正確に!誠実に! 


わたしは霊的修行の中で神様は厳しいけれど優しい存在だと感じるようになりました。 


簡単に、「お守りください」なんてお願いできる存在じゃないのに、守ってくださる。 

畏れ多いながらも自分をお守りくださいとお願いすると、ちゃんと守ってくださる。 


そうやって 神様と信頼関係を結んできました。 



畏れ多い存在だから、礼儀を尽くすのです。 


自らにわたし(神)を招き入れるために努力しなさい、と仰られます。


努力することが神様にたいしての礼儀になるのです。 


お金を包むとか食べ物をお供えするから聞き届けてくださるわけではなく、努力が捧げ物になるのです。 



こうやって、神様との信頼を結んできたわけですが これは、人間社会にも通じます。 


礼儀を尽くすとは努力です。 



わたしは世間の常識にはとても疎いです。 


そのため 人の話しが理解出来ない時があります。 


話されてる間、頭が回転しなくて頭ウニ状態です。 

わたしにはわたしの常識があるので たぶん正反対なのだと思います。 



先ほど書いた礼儀についても、世間の常識は『礼儀正しくなければならない』のでしょうね。 

そして、『見せかけでも礼儀を示すこと』なのでしょう。 


だから 世間の人はわたしがわき上がる想いを示してること自体思い付かないのでしょう。 


礼儀正しい?と思われているかもしれないけど、想いがわき上がってるなんてわからず、ただ圧を感じるのだと思います。 


また 世間では常識を批判される方もいらっしゃいます。 


世間の常識は〜だから、良くない!と言われてる方をお見かけします。 


それは、「昭和の男」でも書いたように、自分を律するが故に他者にも求め、ジャッジするのです。 

それは、教える姿勢ではないように感じます。



わき上がる想いの伝え方で人を傷つけるやもしれません。 


伝え方ってあります。


ご自分が大人だと自覚されてるなら、伝え方を考えるては、と思います。 




昭和の男




今の時代は古いものを排除して新しいものを取り入れる傾向がありますが、その中でも変わらないものがあります。

それは、人心、つまり「敬う心」です。



今まで付き合ってきた方との別れや新しい出会いの中で大切にするべきことは、この、敬う心なのです。




それが、人としての基本であり常識です。 






人として生きるということは、これが根底にあり、軸とも言えるでしょう。 





感謝を感じることも謙虚さも人にお願いすることもこれを忘れなければうまくいくはずです。 



人との関係も、常に人を敬うことを忘れなければ、うまく進むでしょう。 



人に甘えてもいいし嫌ってもいいのです。 



だけど、根底に、「敬う心」を持って接してください。 



相手も笑顔で接してくださるでしょう。 





最近 仕事において、プロフェッショナルを求められるようになりました。


プロフェッショナルな高い志

プロフェッショナルな高い倫理観

プロフェッショナルな高い信頼感


です。



わたしの本業は 特に専門職ではないのですが プロフェッショナルとして顧客に接することを要求されるのです。



でも、これって 仕事においては当たり前のことなのです。



最近の風潮では 社内仲良しごっこして協調性を重んじられているように思いますが
実際、顧客からしたら
社内、仲良くしようが厳しかろうか 顧客満足度が高ければよいと わたしは思います。



対顧客を大切にすることが第一条件だと思います。


顧客を満足させることが基本だと思うのです。



そのためには 自分のスキルを磨くことは大前提ですし 意識の高さも必要です。

いい加減な仕事は迷惑をかけますし、 けじめがないのも話しになりませんね。



顧客から高い信頼感を得るためには 日々、向上することだとわたしは考えています。




わたしは スピリチュアル方面の仕事もさせていただきますが
やはり こちらも同様で 意識が低いと話しになりません。



一旦、引き受けた限りは クオリティーの高いものを提供したいと考えています。


それまでは、低料金でお気軽に と設定していましたが 高レベルで提供できるように料金は高めに設定させていただいております。


そのため 施術前、一時間かけて 部屋の浄化、自分の浄化をしていきます。


場所の浄化を何かで代用したり
また、カラオケやさんやカフェで相談を引き受けることもしていません。



だんだん 最初の頃に戻ってきました。




そうすることで 顧客の意識も変わってくるようです。

朝、目覚めたら 顔を洗って身支度して神仏に手を合わせ、生かせていただけてることに感謝する。
そして、自分をつくっていただいているご先祖様にも感謝し、ご供養させていただく。

その後、身の回りの掃除をして 朝食のしたくをして 朝ごはんを感謝していただく。


そのあとは、家事をこなしたり 仕事や遊びに出掛けて 帰ってきたら 無事に帰宅できたことに感謝申しあげ、食事をして お風呂に入り 一日の反省と明日の予定して就寝。



簡単に書きましたが、これが 人としてより良い人生を歩むための基本です。




基本的なことも知らずにやらずに、仕事がうまくいかないと嘆いてみたり、病気になったり、心がざわついたり、、、、。


人としての基本的なことをやらずに 遊びで神社詣りしてご利益をいただけるわけがないと思いませんか?


家の掃除ひとつしないのに、外でうまく仕事ができると思うの?


これって 基本的なこと過ぎて 最近は書かなくなったけど いろいろ履き違えてる人が多いから書きました。



娘にもよく話しますが、家でやらないことは外でもできない。



自分の身の回りのことをきちんできないのに、人から信頼されるわけがない。


やることやってからなら どれだけ遊んだり仕事をしても構わない。


いちいち、基本的なことを言われなければならないのでしょうか?



それは 心が浮わついているから。



出来ない、じゃなくて やるの。


そこに選択はない。




こんな基本的なことを実践しない人が、講演したり人を導いたりってできるのかなあ?



不思議だ。



当たり前過ぎて書かなかったけど 知らない人が多いのかな と思って書きました。

悩むならやることやってから悩めばいい。 
やることやってもうまくいかないことが、悩みというものだと思います。


極めることが好きなわたしは、ある道を極めている方とお話しさせていただく機会がありました。 


わたしから連絡を取り、会わせていただいたのですが、挨拶もソコソコに、自分の元には技を盗みに来る人もいるので間口を広げていないからあなた(私)はとても運が良いですよ、と言われました。 


そして、あるキーワードで検索するとその方が極められているものを盗んだ方々のHPに誘導されるともいわれました。 


しかし、わたしはまさに、そのキーワードでその方にすぐ辿り着いたので 他の、とか偽物とか言われてもまったくピンとこないまま、その偽物さん達にたいしての想いをひとしきり語られてからの本題に入りました。 



本物と偽物。


道を極められている方なら偽物が出たとしても動じることはないと思うのですが 実際の所、その偽物に引き寄せられてしまう方々が多数間違って世に出てしまうことを嘆いておられました。 


その偽物に引き寄せられてしまうのは、偽物に引き寄せられてしまう因を持っているからで それは自ずの鍛練でしかないもので他人が嘆いても仕方ないようにわたしは思います。 


それよりも 自分の道をより極めていくことが世のため人のためになることだと思います。 


その道を極めている方に申し上げるのは畏れ多いことでしたがわたしの考えをお伝えさせていただきました。 


その後 わたしのことを訊ねられたので、細々ですがと前置きしてお話しさせていただきました。 


そうしたら 少し安堵されたようでした。 



想いはひとつなのだと感じました。 




目に見えて良くないと思われるような事が起きていても 思い煩うことなく自分の道を進むだけなのだと思います。 




これからは、その方にその道を教えていただけることになりました。 



自分のまま、ありのままのわたしの姿を素直に出すわたしにその方は驚いてみえましたが、どんな時も高らかに思い煩うことなく歩んでいこうと思っています。 




とても、有り難い有り難い出会いでした。 





《狭き門》

狭い門からはいりなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。

そして、そこから、入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

にせ預言者たちに、気をつけなさい。

彼らは、羊のなりをして、やって来るが、うちは貪欲な狼です。

あなたがたは、実によって、彼らを見分けることができます。

ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから、取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木は、みな良い実を結ぶが、悪い木は、悪い実を結びます。・・・

こういうわけで、あなたがたは、実によって、彼らを見分けることができるのです。




イエス・キリストは、

「まことの救いは、人目につかなく、地味で目立たないところに、入り口がある」

と言った。 





間口を拡げることなかれ。 



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