この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 人の道

一生懸命に生きている人を見て嫉妬する人がいます。

また、それを見て わたしは弱くて同じことができないのだから 配慮してほしい とか攻撃してくる人がいます。



一生懸命に生きている人を見て 心が過敏になるのは 誰のせいでもなく、本人の心のせいです。


宇宙のせいでもない。


どうしてそんな見方をするのかと言ったら 心がひねくれているからです。


心がひねくれているのは、理由があるかもしれません。


だけど 理由探しをするよりも ひねた心をまっすぐにすればよいのです。

理由探しに意味はないね。

ひねた心をまっすぐにするためには、 毎日 1000回、自分に謝ることです。


それを続けることです。


そうすれば、直ります。




お試しください。



極めることが好きなわたしは、ある道を極めている方とお話しさせていただく機会がありました。 


わたしから連絡を取り、会わせていただいたのですが、挨拶もソコソコに、自分の元には技を盗みに来る人もいるので間口を広げていないからあなた(私)はとても運が良いですよ、と言われました。 


そして、あるキーワードで検索するとその方が極められているものを盗んだ方々のHPに誘導されるともいわれました。 


しかし、わたしはまさに、そのキーワードでその方にすぐ辿り着いたので 他の、とか偽物とか言われてもまったくピンとこないまま、その偽物さん達にたいしての想いをひとしきり語られてからの本題に入りました。 



本物と偽物。


道を極められている方なら偽物が出たとしても動じることはないと思うのですが 実際の所、その偽物に引き寄せられてしまう方々が多数間違って世に出てしまうことを嘆いておられました。 


その偽物に引き寄せられてしまうのは、偽物に引き寄せられてしまう因を持っているからで それは自ずの鍛練でしかないもので他人が嘆いても仕方ないようにわたしは思います。 


それよりも 自分の道をより極めていくことが世のため人のためになることだと思います。 


その道を極めている方に申し上げるのは畏れ多いことでしたがわたしの考えをお伝えさせていただきました。 


その後 わたしのことを訊ねられたので、細々ですがと前置きしてお話しさせていただきました。 


そうしたら 少し安堵されたようでした。 



想いはひとつなのだと感じました。 




目に見えて良くないと思われるような事が起きていても 思い煩うことなく自分の道を進むだけなのだと思います。 




これからは、その方にその道を教えていただけることになりました。 



自分のまま、ありのままのわたしの姿を素直に出すわたしにその方は驚いてみえましたが、どんな時も高らかに思い煩うことなく歩んでいこうと思っています。 




とても、有り難い有り難い出会いでした。 





《狭き門》

狭い門からはいりなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。

そして、そこから、入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

にせ預言者たちに、気をつけなさい。

彼らは、羊のなりをして、やって来るが、うちは貪欲な狼です。

あなたがたは、実によって、彼らを見分けることができます。

ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから、取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木は、みな良い実を結ぶが、悪い木は、悪い実を結びます。・・・

こういうわけで、あなたがたは、実によって、彼らを見分けることができるのです。




イエス・キリストは、

「まことの救いは、人目につかなく、地味で目立たないところに、入り口がある」

と言った。 





間口を拡げることなかれ。 




「自分の直観が信じられないからこうして訊いてるのに、どうして教えてくれないの?どうして!」 


ここ最近、
そう言われているように感じています。 



わからなかったら、すぐ訊く。 



「わからないことはそのままにしておかないで、すぐに訊いてきなさいね」
と、常日頃から話しているので、訊いてくるのは構いません。 


だけども 人に物を訊く姿勢があると思います。 

そのために メールアドバイスを受ける方々には日記を書くという受け皿を用意しています。 

それが何を指すかわかっていない人がいますね。 




謙虚な心に直観は降ろされます。 

直観と言えども自分の物ではないことを承知おきください。 


また 秩序というものがあります。 


秩序を守れない人にも直観は降ろされないでしょう。 

秩序とは、物事を行う上での正しい順序。また,社会・集団を正しい状態に保つための順序や決まりとあり、社会.集団の中にあるものです。 


社会や集団、仲間を意識しない者に直観は降ろされることはないのです。 

ひとりよがりで生きていたり周りを見ることをしない者には直観は降ろされないものです。 





わたしたちは、この宇宙全体を司る創造主から生まれた分け御霊であるとともに、そこからの直観を受け取り遣われているのです。


遣われているのに、使えない者でいても良いのでしょうか? 


自由意思の意味を知らない者のすることですね。 




わたしたちは 皆、創造主との繋がりを思い出すことの前提で、転生してきています。 


繋がりを思い出す前提での自由意思です。 





〜が出来ないと落ち込んで下を向いているのなら、目の先にある落ち葉を拾って大地をきれいにしなさい。 

涙で前が見えないなら手探りでも良いのです。 


その姿に直観は降りてくれるでしょう。


神様は降りてくれるでしょう。 



息の本体に帰りなさい。 

息の本体に帰ろと言いとるじゃろが。 


息の本体に帰れば弥勒の世の世界に戻れるのじゃ。 



*********** 


わたしが神を意識する時は、屈伸運動(運動原理)が基になっています。

なぜなら 神とは運動行動の名称だからです。 



屈伸運動は、伸、縮、止から為ります。 

伸、縮、止こそが神の元祖なのです。 

しかし 伸、縮がないと止が存在しないので、
止が神たらしめているのは伸、縮があるからですが、止には、伸、縮をさせるだけの力が備わっているから伸縮できるので、止が中心となるのです。 


これが生命運動の基となり、呼吸(息)の元となっています。


そして、伸縮運動が元になり回転や波形運動が生まれました。 

それは 止の住む場所は無重力だから。 


無重力な中で力が加わることで、熱が生まれ、凝固=物質化が始まり、気体が生まれ、水蒸気が生まれ、水や光が生まれました。 

それが神の運動です。 

神の運動からわたしたちは生まれたのです。 


**************** 

《呼吸》

神は鼻から命を授けてくださった。 


口から吐く行為は、神の愛を発揮することで、それが感謝だ。 


吐いたら、自ずと入ってくる。 


神の愛を発揮したら神から命を授けられるのだ。 

故に、
出したら、必ず 入ってくる。 

自ら与えたら、巡って入ってくる。 

決して、なくならない。 

息の本体に帰るとは、命を授けてくださった時を思い出すこと。神の愛を発揮した時を思い出すこと。 




最近では、立て直しを促されてる方が少なくないようです。 



親の立場から申し上げると、子供なら子供らしく親の言いつけをきちんと守るべきですし、大人なら自分で考えて行動すべきですね。 


親には甘えたいけど自分のやり方で生きたいは道理が通らない。 


自分のやり方で生きたいなら甘えず自立することです。 


自立とは、昨日も書きましたが、道徳心あってこそです。 


人の奥さんとホテルにしっぽりしたいなら離婚してからすればいい。 

奥さん怖くて離婚出来ないのに、好きだから一緒にいたいとホテルに連れ込むなんて自立してる男のすることじゃない。 

その上、人の奥さんの自宅まで上がり込んでおいて 人に迷惑かけない人なんていないと宣う、、、、、
頭おかしいじゃないかと思う。 


このような由々しきこと、あちらこちらで見聞きします。 


女性も女性で慎ましさもあったものではない。 


女性に道徳心や貞操観念があれば防げることは世の中にたくさんあると思います。 


わたしは女性ですし人の妻ですから女性には厳しいです。 


世間の女性を観ていると緩い人ばかりで不愉快になることも多いです。 



自分を大切にする基本は道徳心であり貞操観念だとわたしは感じています。 



まあ、由々しきことだから そのうちバレて大きなことになるのでしょうね。 

これからは隠し事が出来ない世の中になるようですから。 


あちらこちらで出てくるかもしれません。 

バレて立て直されるのでしょう。



立て直しの世の中の始まりです。 





誰だって何かしようと決意したら勇気さえあれば突き進んでいける。


神様が仰られる努力とは、突き進んでいくための土台を築き継続し続けること。 

瞬発力も大切だけど継続力。



土台もしっかりしていないのに努力できないですね。 


土台とは家族、親類縁者、友人。 


助け合えるよう支え合えるよう家族たちを大切にして過ごすことなのです。 


その感謝もそこそこでは成就できません。 


誰と信頼を築くかといったら まず先に家族からです。 


それでこそ、神様の器と成り得るのです。 





わたしは世間の常識にはとても疎いです。 


そのため 人の話しが理解出来ない時があります。 


話されてる間、頭が回転しなくて頭ウニ状態です。 

わたしにはわたしの常識があるので たぶん正反対なのだと思います。 



先ほど書いた礼儀についても、世間の常識は『礼儀正しくなければならない』のでしょうね。 

そして、『見せかけでも礼儀を示すこと』なのでしょう。 


だから 世間の人はわたしがわき上がる想いを示してること自体思い付かないのでしょう。 


礼儀正しい?と思われているかもしれないけど、想いがわき上がってるなんてわからず、ただ圧を感じるのだと思います。 


また 世間では常識を批判される方もいらっしゃいます。 


世間の常識は〜だから、良くない!と言われてる方をお見かけします。 


それは、「昭和の男」でも書いたように、自分を律するが故に他者にも求め、ジャッジするのです。 

それは、教える姿勢ではないように感じます。



わき上がる想いの伝え方で人を傷つけるやもしれません。 


伝え方ってあります。


ご自分が大人だと自覚されてるなら、伝え方を考えるては、と思います。 




昭和の男




今の時代は古いものを排除して新しいものを取り入れる傾向がありますが、その中でも変わらないものがあります。

それは、人心、つまり「敬う心」です。



今まで付き合ってきた方との別れや新しい出会いの中で大切にするべきことは、この、敬う心なのです。




それが、人としての基本であり常識です。 






人として生きるということは、これが根底にあり、軸とも言えるでしょう。 





感謝を感じることも謙虚さも人にお願いすることもこれを忘れなければうまくいくはずです。 



人との関係も、常に人を敬うことを忘れなければ、うまく進むでしょう。 



人に甘えてもいいし嫌ってもいいのです。 



だけど、根底に、「敬う心」を持って接してください。 



相手も笑顔で接してくださるでしょう。 





最近 仕事において、プロフェッショナルを求められるようになりました。


プロフェッショナルな高い志

プロフェッショナルな高い倫理観

プロフェッショナルな高い信頼感


です。



わたしの本業は 特に専門職ではないのですが プロフェッショナルとして顧客に接することを要求されるのです。



でも、これって 仕事においては当たり前のことなのです。



最近の風潮では 社内仲良しごっこして協調性を重んじられているように思いますが
実際、顧客からしたら
社内、仲良くしようが厳しかろうか 顧客満足度が高ければよいと わたしは思います。



対顧客を大切にすることが第一条件だと思います。


顧客を満足させることが基本だと思うのです。



そのためには 自分のスキルを磨くことは大前提ですし 意識の高さも必要です。

いい加減な仕事は迷惑をかけますし、 けじめがないのも話しになりませんね。



顧客から高い信頼感を得るためには 日々、向上することだとわたしは考えています。




わたしは スピリチュアル方面の仕事もさせていただきますが
やはり こちらも同様で 意識が低いと話しになりません。



一旦、引き受けた限りは クオリティーの高いものを提供したいと考えています。


それまでは、低料金でお気軽に と設定していましたが 高レベルで提供できるように料金は高めに設定させていただいております。


そのため 施術前、一時間かけて 部屋の浄化、自分の浄化をしていきます。


場所の浄化を何かで代用したり
また、カラオケやさんやカフェで相談を引き受けることもしていません。



だんだん 最初の頃に戻ってきました。




そうすることで 顧客の意識も変わってくるようです。

朝、目覚めたら 顔を洗って身支度して神仏に手を合わせ、生かせていただけてることに感謝する。
そして、自分をつくっていただいているご先祖様にも感謝し、ご供養させていただく。

その後、身の回りの掃除をして 朝食のしたくをして 朝ごはんを感謝していただく。


そのあとは、家事をこなしたり 仕事や遊びに出掛けて 帰ってきたら 無事に帰宅できたことに感謝申しあげ、食事をして お風呂に入り 一日の反省と明日の予定して就寝。



簡単に書きましたが、これが 人としてより良い人生を歩むための基本です。




基本的なことも知らずにやらずに、仕事がうまくいかないと嘆いてみたり、病気になったり、心がざわついたり、、、、。


人としての基本的なことをやらずに 遊びで神社詣りしてご利益をいただけるわけがないと思いませんか?


家の掃除ひとつしないのに、外でうまく仕事ができると思うの?


これって 基本的なこと過ぎて 最近は書かなくなったけど いろいろ履き違えてる人が多いから書きました。



娘にもよく話しますが、家でやらないことは外でもできない。



自分の身の回りのことをきちんできないのに、人から信頼されるわけがない。


やることやってからなら どれだけ遊んだり仕事をしても構わない。


いちいち、基本的なことを言われなければならないのでしょうか?



それは 心が浮わついているから。



出来ない、じゃなくて やるの。


そこに選択はない。




こんな基本的なことを実践しない人が、講演したり人を導いたりってできるのかなあ?



不思議だ。



当たり前過ぎて書かなかったけど 知らない人が多いのかな と思って書きました。

悩むならやることやってから悩めばいい。 
やることやってもうまくいかないことが、悩みというものだと思います。

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