この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

わたしは、地球にグラインドしています。 わたしの意識は地球に同調しています。 わたしの想いは地球の想いです。 わたしの叫びは地球の叫びです。 わたしの言葉は地球からのメッセージです。 少しでも、みなさんに 地球の想いを感じていただけたら幸いです。

カテゴリ: 人の道

人として生きているのは、役目があると思うのです。。

まず、この世におぎゃ〜と生まれて 赤ちゃんとしての役目。

両親や家族に育てていただいてる代わりに その笑顔で癒すのです。

そして、自分を育ててもらいながら 親を 育児ができる親にさせる役目もあります。

お互いに 育ててもらいながら 成長して、親に守られるのです。

親に守られるという役目。

だから 子供は 親に守られる権利があるのです。

親は子供を守る義務があり、自立できるように育てる義務がある。

そうやって 子供は 家庭の中で 自立できるように 育ててもらうのです。

そして 社会に出るのです。

社会に出たら、社会人として それぞれの仕事につき それぞれの役目をこなすのです。

そして、愛する人ができたら 、愛する人を守る役目があり、
家族が できたら自分が親に育ててもらったように 、子供に癒され、親になっていくのです。

社会での役目もあり、大忙しです。


だけど、それまでは 頭も身体も動いていたけれど だんだんと 動かなくなって 家族の手を借りて 生活をするようになります。


そうすると、今まで 生かされてきた知恵を 子供や孫に伝えていく役目があり、


それが できなくなってくると 、介護をしてもらうようになります。


それでも 役目はあるのです。


それは、お世話をされるという役目。

お世話をされることによって 人は奉仕ができるのです。

人が奉仕ができるということは、

人に奉仕をさせていただけるということで お徳を積むことになるのです。

お徳というのは 人間にとっての貯金みたいなもの。


自分が お世話される側になり、相手に お徳を積まさせてあげられるのです。


素晴らしいことです。



こうやって、人は 自分の役目を全うしていくのです。


長い人生だから このようにうまく 進まないかもしれないけれど 、

最後は

人は老いる。


老いた人間は 必ず、誰かのお世話になるとは思うから、 そのときには 必ずお役目がある。


人間は 最後の最後まで 人の役にたちたいものなのです。

お礼は大切です。


人と接する時には 必ず、挨拶から入ると思いますが、挨拶のできない方が多いです。

また それ以上に大切なのは、お礼をすることです。

それは、けじめでもあります。


ひとつの物事を終える時の締めくくりとも言えるけじめです。


感謝、お礼、後始末は、物事のけじめです。


挨拶はそこそこでも最後の締めくくりであるお礼、感謝、後始末はきちんとすることです。


それは この世に生きる人としてのルールとも言えます。


それがある人とない人というのは、人生に雲泥の差が出ます。



物事のけじめが出来るということは、相手を尊敬しているからこそできることです。


人から尊敬されるということは、嬉しいもので、それだけで信頼に値することになります。


人から信頼されるということは、それだけで引き立てられる要素に繋がります。


また、もっと重要なことがあります。



人から信頼されるようになると、人は 運が良くなり、良い発想がつくようになります。
勘が冴えるようにもなります。


だから より、仕事に身が入り、運気も良くなります。



見ていると、ネガティブ、運のない人というのは お礼下手の人です。


人から物をいただいたり何かしていただいても、感謝がない、お礼もない、きちんとお返しもできない人が多いです。


そういう人に限って、人に与えたがります。


お礼もそこそこで人には与えたいのです。
本末転倒です。


それでは 人とのコミニュケーションができないのです。


物事のけじめをつけられない人は人との信頼関係を結べないのです。


挨拶が苦手、お礼が苦手、感謝が苦手というのは、口下手というのとは違います。


口下手ながらでも物事のけじめをつけることは可能です。



目の前に差し出される出来事をきちんとこなすというのは、差し出された物事に感謝、お礼、後始末をすることなのです。


それをしたら、また 与えられます。



目の前に何も与えられないと思っている人は、感謝、お礼、後始末をしていないからですね。



自分の周りを見渡してみてください。




あなたは物事のけじめをつけて歩んでいますか?


わたしって 正直者だから、いい加減に謝れないんです。 


でも きちんと、自分の過ちにわかったら、早い。 

すぐに、謝ります。 


気づくまでは、苦しみます。 


気づいたら、すぐに謝ってスッキリしたい。 


スッキリしたいだけですが、スッキリしたら 何か気づきはいただけます。 

ありがたいなあ、と思います。 


人間だから、間違うわけです。 


気にしない。ドンマイ♪わたし。 




心の底から謝ったら、許してもらえるものなのです。 


心の底から謝ったら許してもらえることを知ってるから、謝れるのかもしれないです。




謝っても許してもらえないのは、自分自身が本心から謝っていないからか相手が不実だから。 


相手が不実なのは、相手の責任です。 


だから、詫びる心を自分の心の奥底からわき上がるのを待つわけです。 


自分は自分に嘘はつけないので、必ず わき上がってくるものです。 


にもかかわらず、相手から許されなかったら、、、、 

相手に天罰が下るものなのです。 



もう、そこは仕方ない。 

神様仏様はフェアですので。 



そんなことを経験してきています、わたしは。 


だから、正直でいられる。


先の記事『自立と恩に報いること』を投稿した後、一件のメールが届きました。 


『ブログに書いていただいたのは、私のことですね。
正直な自分はやはりわがままで上から目線でしたが、そこから、恩へ報いるということが、何の恩に対して報いるのか、それに恩に報いろうと思える心持がなくて、何をしたらいいのかが、わかりません。』 



今回、その気づきがなかったことで自分を責めているようにみえますが、それこそ 自分勝手で横柄な態度が鼻につきます。 
『わかりません』という言葉は自分勝手な言葉です。


まずは気づきをいただけなかったことを素直に認めて詫びる気持ちを神様仏様に届けることです。 

その気持ちが届けば、神様仏様は まずは見てくださいます。


日々の生活を観ていてくださいます。 



『わかりません』というより前に、詫びる気持ちがない。 


神様仏様に対しても自分に対しても。 




素直さがないというのは、このようなことを言います。 



自分を責めるのは、自分はできる!と鷹を食ってるからです。
出来ないとわかっていたら、責めることはしないものです。 


そんな心持ちの人には、神様仏様からの言葉も届かない。 



自分のことを言われているとわかった時点で申し訳ないと素直に詫びる気持ちが大切なのです。 



自分を責めるのではなくて神様に詫びるのです。 


一日の締めくくりに、「今日の一日はどうですか?いたらないところはないでしょうか?あったら教えてください。直します。」という謙虚な気持ちで過ごすことですね。 




謙虚な気持ちで過ごすことが心を育てるのです。 



そうしたら 自分がどれほど、ごう慢であったかに気づき、申し訳なさで頭が下がり、素直に詫びる言葉が自然と口から溢れるのです。 





わたしはそうやって、日々を過ごしています。 



自立と恩に報いること


自立っていうのは、字のごとく、自分の足で立つということだけど その地盤にあるのは、恩なんだよね。 


今まで守られてきた想いに報いるという気持ち。 

それがあって わたしたちは、きちんと自分の足で立てるんだ。 


自分の心の底からわき上がる感謝の気持ち。 


それがあってこその自立だね。 



〇〇〇から離れるというのは自立ではない。 


居場所が変わっただけだ。 




この一週間ほど、サンタクロースは良い子にプレゼントを届けたと思います。 


人の恩を感じて生きてる人には届いて、これからの人生も前を向いて進んでいくのだと思います。 


だけど 大浄化を受けた人は、どうかな? 


それをわからせるための大浄化だったわけだけど、気付いた人はいるだろうか? 




わたしたちは一人で生きているわけではなくて、支えあって生きているんだ。 


それを不義理したままで過ごしていても、なんの徳も生まれない。 




人からの支えを感じたり守られていることを感じたら、人は何をすべきかがわかるものなんだ。 


何を大切にすべきかがわかってくるものなんだ。 



この大浄化の時に、そんな気付きを得たならば、2019年はきっと良い年になるだろう。 



自立と恩に報いることはセットだから。


今年に入ってからのわたしは 昭和男子で頭が固くて厳しい、60歳以上の男性の方とのご縁が多いです。 


昭和の男子の特徴として、自分を律することができるが故に、他者にも求め、ジャッジします。 


ジャッジする心を持っているためなかなかうまく人間関係を築きにくいです。 


そのため 離れていく人が多いです。 


自分を厳しく律するように他者にも厳しいのです。 



お話しをしていて思いますが、人に厳しいことは悪いことではないのです。 


怒鳴り付けたり暴力は別ですが、人に厳しくなるのは、相手のためを想うからだとわたしは思います。


わたしたちは同じ身仏、神様から生まれてきた存在で 互いに尊重尊敬し合う関係です。 


だから、相手が自分を見失っているときに厳しく叱咤激励することは間違いではないはずです。


うまく説明できないので、以前に書いた記事から抜粋します。 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

一昨日、昨日と修験道の山を登ったのですが、 

修験道という修行は、それなりの意識の高い人でないとできないことだと思います。 


山を越えるのって、厳しいし辛いです。 


挫折するかもしれません。 


気力、根性がモノを言うのです。 


でも、修験道の流行った当時でも 根性のない人はいたのです。 

そんな人達が 
山を憎み、逃げて それを己の弱さからだと思わず、山のせいにしたのです。 


厳しいことがあたかも悪いことのように、他の者に伝えたのです。


それが、元となり、今の世の中が作られていった。。。 


厳しさを乗り越えられない意識レベルのままでは、魂の目的に反するように わたしは、感じるのです。 


だから、厳しさを憎まず 裁かず、己を高めること が人の道だと思えるのです。 


乗り越えさせていただけるって 非常にありがたいことだと感じます。 





☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 


他者を想うから厳しくなる。 


相手の本当の姿を知っているから厳しくなる。 


相手を尊敬しているから厳しくなる。 


相手を認めているから厳しくなる。


違いますか? 


源には愛があるのです。


自分を見失っているから、そんな厳しさのある愛に気付けないのです。 



今、そんな昭和の男性に変化が現れています。 


他者に対して厳しかった自分を反省されています。 


自分に厳しいのは当たり前ですがそれを他者に求めるのは間違いだったと気づき、改め、反省されています。 


一方で、厳しくされて傷付いた方々がいらっしゃいます。 


自分は傷つけられた!傷つけられた!と主張されています。 

そこに、愛はなかったと言わんばかりに。 



違うと思う。 




確かに、厳しくされて傷ついたかもしれない。 


だけど、そこには愛があったのです。 




わたしの親や身内が厳しい人でした。 

そこには愛は存在しないと、傷つけられた!傷つけられた!と主張を繰り返してきた。

わたしは逆の立場でした。 
でも 内観浄化を繰り返して、菩薩行をさせていただき、心を改めることができ、気づいたのです。 


厳しくされた、その根底には愛があったと気づいたのです。 




自分自身を深く見つめていかないとわからないことがあります。 


生かしていただいているから自分自身を見つめることができる。 


ありがたいなあと思う。 

自分を生んでくれた母親に感謝できるようになったのは、それに気付いたからです。 



自分に起こることは、すべてすべて 本当の自分に還るために起きていること。 


本当の自分に戻ったら、本当の使命に気付かされます。 


それからが人生本番です。 




昭和の男性、60歳過ぎても 人生これからです。 


その厳しさは、これからの世のためになるのです。 



覚えておいてくださいね。 





人間、持ちつ持たれつだと思うんだ。 


何か辛いことがあって 助けられたり癒されたら 次はお返ししたいと思うものだとわたしは思うんだ。 


それを 癒されっぱなしでいたら 相手は逃げていく。 


いくら誰かを癒したり助けたりしていても、誰でもいいときが続くとは限らなくて、辛いことが起きて泣きたくて慰めてもらいたくなるときもある。 


そんな時には、今まで自分が助けてあげたり癒してあげたりしていた人に甘えてしまうかもしれない。 


そんな時に、突っぱねられたら、今まで助けてあげたり癒してあげたりしたことが無駄に感じることがあるんだよ。 


そんなことで人間関係が壊れてしまうことがある。 


人として、助けられっぱなし、癒されっぱなしは良くない。 


助けられたら、力はなくても意識は向けてあげなくちゃいけないと思うんだ。 



人を助けたことのない人は、そんな人のキビを知らない。 


助けられて嬉しい、癒される、ってだけなら誰でもできる。




人から嫌われたり人間関係がうまくできない人というのは、こんな人間関係の持ちつ持たれつがわからない人が多い。 



人と関わると煩わしいと感じる人は、人のSOSのサインがわからない人だ。 

サインがわかるようになるのは、日々の経験であって 誰もが一足飛びにできることではないことを知ってほしい。 


人生経験が乏しい人は、そうやって 鍛えられていくものだなあ と感じる。 




助けてもらうばかりで助けたことのない人は、人の気持ちがわからないものだ。


そこから逃げるな、と言いたい。 




相手を敬うことは、相手にたいして下手に出ることではないのです。 

礼を尽くすこと。 


最近、わたしのブログでアクセス数が伸びている記事があります。 


『お礼について』 

http://mamanomama777.m.blog.jp/article/50859495?guid=ON


人との縁を繋ぐにおいて大切なことは礼を尽くすこと。 


わたしは毎日、メールアドバイスをさせていただいておりますが そこでも礼を尽くすことを大切にしています。 


礼を尽くすことは、相手にたいしても自分にたいしてもです。 


自分にたいして礼を尽くすことができなければ相手にもできるわけがありません。 


自分にたいしての礼の尽くし方をご存じですか? 




今まで自分を支えてくれた人を裏切ったから、どん底を味わうことになって そして人に助けられた。 


そこで感謝が生まれるのは当たり前。 


しかし それでは、自分が誰かを裏切ったことは消えないものなんだ。 


自分が裏切った人にたいしての謝罪と感謝がなければ、いくら助けられた人に感謝がわき上がったとしても それは自分勝手な感謝でしかない。 


感謝を甘く見ている証拠で安く見ている証拠だ。 


それは、感謝とは言わない。 




心からの謝罪なくして罪は消えないし傷も消えない。 


そして 犯した罪を認め、謝罪しない限り心から安らかにはなれないものなのです。 





実際、自分の出来ることしか求められないのに 自分にはそれ以上の力があるのだと過信していると その出来ることを軽く考えたりして バカにしてやらなかったり、それ以上のことをやりたがったりするようです。 


本来、成すべきことをやらずに違うことをやろうとしたり見ています。 



本来は、自分の出来ることを粛々とこなしていくだけで 徐々に、器が広げられるものなのです。 


急がず過信せずに、求められることを粛々とこなしていきましょう。 



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