この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 反省

仕事でミスをして叱られた場合

具体的に書かせていただきますと

上記の場合において

自分の内側に 相手に対して 申し訳ないという気持ちがある場合とない場合においては
相手の叱り方が異なります。

自分の内側に、申し訳ないという気持ちがある場合には
相手は感情的には叱ってきませんが

自分の内側に相手に対しての信頼がない場合や謙虚さがなく フン(`へ´*)ノという気持ちや態度の場合には
相手は感情的に叱ってきます。

これが 鏡の法則です。

自分の仕事でミスをするという行為をなくする努力は必要ですが
苦手な仕事の場合には、ミスをしてしまうものです 。

その時には、 自分のできなさを謙虚に受け止めて 相手に対して 心から謝るように努めましょう。

これが、人間関係を良くすることに繋がりますし、自分を傷付けないことにも繋がります。

人から嫌みを言われたり、攻撃されると、自分は傷付きますよね?

自分を可愛がるためにも、謙虚さを身に付けましょうね♪

ふと、思ったので、書いてみました。



『まずは、完ぺきにならなくてもいい。
できないことを素直に認めて、謝る勇気が必要です。
でも、何回もできないことを繰り返すのではなく、できないことをできるようにする努力はモチロン必要です。』







過去に人を傷つけてしまった過ちは取り戻せないけれど、そこに囚われて生きるのは違うと思う。 

今を生きるためには、囚われて悔やむことではなくて、きちんと謝罪することなんだ。 


謝罪の気持ちを伝えること。 


伝えないと、伝えるまで引きずるものです。  


伝えたからといって、許されることとは別問題だけど、伝えなくちゃ相手に謝罪の意思は伝わらない。 





わたしは、間違ったと自覚した時点で謝ります。 
謝罪の意思を伝えます。 
そうやって、歩んでいるせいか、変なことには巻き込まれません。 


逆に、嫌な想いをさせられたことはあります。 


謝罪してくる人もいればそうでない人もいます。 

謝罪してこれば許します。 
過ちを認めることは自分に素直になることだから。 


だけど、謝罪してこない人にたいしては、やみくもには許さないです。 


わたしは許す力が大きいので、うっかり許してしまいますが、戻します。 

その人の学びをとることはしないのです。 



大切なことは自分の過ちに気付き認めて謝ることなのですから。

『ごめんなさい』という言葉は


自分の過ちを認めて、相手に非礼を詫びる言葉です。


たまに、お母さんが 子供に

『ごめんなさいっていいなさい』

って怒っているのを見かけます。


ごめんなさいの強要です。



過ちを認めていないのに、ごめんなさいは言えないです。


だから 親は、


何が過ちであるかをまず、教えるべきです。



『〇〇〇ちゃんの行為は☆★☆だから、よくないんだよ』

ですね♪


そしたら 子供は、


ああ、そうなんだ♪と理解できます。


と そこで、出てくる言葉は


『教えてくださりありがとうございます』


なのです。



自分の過ちを認めました。

どうやって 認めたかというと 親から教えていただいたから、です。


教えていただいたから、ありがたいなあ〜 と思えるのです。




よく、意味なく ごめんなさいや申し訳ありませんと 使う方がいらっしゃいます。


謙虚なつもりでしょうが、ほんとにそうでしょうか?



ほんとに謙虚なら まず先に、

『いつもありがとうございます。』


と、お口から出るはずです。

口先だけのすみません、申し訳ありませんは、ホント、意味がありません。



だから

『ごめんなさい』と言いなさいと、感謝の強要する親は 教えているのではなく、叱っているのでもないのです。



人は


自分が本心から申し訳ないと非を認めないと、謝れないものです。


だから、子供にこの世界で生きていくための最低の善悪は教えていくべきなのです。


教えるというか解らせておく、と言いましょうか。。。


それを していないから、道徳的に悪いことをしても悪いと思えない子供がいるのです。

だから、『ごめんなさい』が言えないのです。




親は子供を育てる義務があります。


子供を育てる義務というのは、


この世界で生きていくための最低の善悪を教えていく、解らせておく


ということがわかりますね。



だから

子供が親に対して、教えていないことをしてしまった場合は


謝りなさい!というのではなく、


『教えていなかったね』と 教えてあげるだけですし


誰か相手がいる場合には

『子供に教えていないからごめんなさい』


と、親が謝ることなのです。



子供は悪くない。


子供は この世での善悪など わからずに生まれてきているのです。




少し、話しは伸ばしまして

以前、メールアドバイスで 子供が親の言うことを聞かずに すぐに興奮して、親から離れて騒いでしまう と相談されたことがありました。



当たり前です。

子供は、元来 好奇心旺盛なのです。

そこを諌めるには

一度や二度、教えたぐらいではわかりません。

身体でおぼえさせるのです。



子供が ☆★☆をしてしまい、誰かに迷惑をかけてしまった。

親が再三注意して教えているにもかかわらず。。。



親が相手に謝るのです。


子供に謝らせるのではなく、親が謝るのです。


『教えていなくて、ごめんなさい』『教えても、わからないからごめんなさい』(相手に迷惑をかけてしまった時や不快にさせてしまった時にです)


その姿を 子供に見せることによって

子供は 子供ながらにわかっていくのです。


大好きなお父さん、お母さんが自分のために人に謝っている姿を見て、わかっていくのです。


この時に、親は、子供が親に申し訳ないことをさせていると、思わせてはいけません。


親として、当然なんだよと教えるのです。


子供の代わりに親が謝ることは、当たり前です。


それが親の責任であり義務です。


子供は守られる権利、教えられる権利があるのです。


これが、義務教育の基なのでしょうね♪


ここで、子供は、やっと善悪がわかり、
『ごめんなさい』
と、心から言えるのです。




娘が小さいころ 果物やさんに並んでいるいちごを握り潰したことがあります。

わたしは、とっさに娘の顔を叩きました。。。


たまには、あり^^です。


子供は 何をやらかすかわからない生き物です。




このように

子育てでは

『ごめんなさい』を正しく使えるように教えていくことが 基本的なことではないでしょうか?



『子供を尊重して育てる』


本当に、悪いと思ったことしか 謝らなくていいんです。

いい加減に、謝らない。
謝らせない。



それが 子育ての基本です。


わかるまでは、親の責任です。



あっ 握り潰したいちごの件ですが

実は、わたしの母はプチプチ大好き人間で腐ったいちごも潰していたので やってみた^^らしいです。


育てたようにしか子供は育たないですね〜




今、娘は二十歳になり、大学生になりましたが

まだまだ、わからないことがいっぱいで
子育て、手が離れておりません。



周りからは、もう手が離れて安心だね と言われますが

イエイエ._._


まだまだ、教えることテンコモリです。


社会に出たら出たで、まだまだ 教えることはあるのです。



子育てに終わりはありません。






うまく、言葉が出なくて わかりずらいかもしれません。


わたしの伝えたいことは伝わったでしょうか?




『ごめんなさい』という言葉の使い方でした。



人から何かしていただいてありがたいなあと思うことや何かの気付きを得てありがたいなあという気持ちは素晴らしいことです。 


だけど その感謝している自分に酔ってはいませんか? 



わたしってスゴいでしょ、見てみて〜♪ 

感謝がわき上がってウキウ楽しくて仕方がない♪ 

それに引き換え、隣のあの人は、まだ感謝できなくてかわいそう。。。 




感謝する心というのは本来、とても静かなものです。 

ウキウキ、ワクワクするものではありません。




今まで居た暗くて長い長いトンネルを抜け出て、気分が良い気持ちはわかりますが わき上がる感謝をうまく受け取れない方がいます。 


わたしがいくら諌めても聞かないです。 


わたしが間違ってると言わんばかりに主張します。 



こんなに感謝できるわたしはスゴいのだから、できない人には慈悲の心を持たねば。 

とか 

スゴいわたしが癒して差し上げるのだから、感謝されて当然。 

とか 

スゴいわたしが、許して差し上げるの。 

とか、妄想が膨らみすぎて、開いた口がふさがりません。 





これでは、感謝している自分に酔っているだけで 本当に感謝してる状態ではないですよ。 


もっと 深く、自分を見つめましょう。 


深く深く、見つめましょう。 



静かな自分に出会うと、自分の愚かさに気づかされるものです。 




自分が経験してきているから書いています。 




神様の伸縮運動
神様の運動の基本は、『伸縮』運動。 


伸は、行動力、発進力。 
縮は、省みる力、振り返る力。つまり、反省です。 



行動力と省みる力は人としての基本です。 


心が素直なのは省みる力や行動力が強いこと。 

心が捻れているのは省みる力や行動力が弱いこと。




最近は転生回数の少ない人が多く生まれてきていて、宇宙時代の誇り高い気持ちが先立ち、省みることや慮ることがわからない人が少なくないようです。


そのような方は人間離れした印象を受けます。 

しかし、そういう方々は『伸』の力はあるように感じます。 

発進力、行動力ですね。 
しかし 『縮』の力、省みる力が弱い若しくはない。 


一方、転生回数の多い人は 基本の力をねじ曲げられていることが多くて 『縮』の力を失い 自分を卑下する傾向があり、『伸』の力は削ぎ落とされていて、行動力がないことが特徴です。 



どちらの方も 心の捻れを真っ直ぐにする必要があるのかなあと思います。 


心が捻れている人は真っ直ぐになっている状態そのものがわからないので 今の状態がまともだと感じている傾向があり、指摘されても 捻れていることに気づかないです。 


現代人の多くが捻れているため 捻れている人こそが人間らしく 真っ直ぐな人は人間らしくないと判断される方も少なくないです。 




本来 人間は行動力と省みる力が備わっているものです。 


反省しながら行動力を発揮していけるものです。 

そんな自分に戻してくださいね。 



何か失敗して落ち込んでいるのに追い打ちをかけるように厳しい言葉を投げ掛けられた経験はないですか? 



本当に反省していたら、厳しい言葉は投げ掛けられないはずなんですよね〜 

落ち込むことは反省とは言わないのです。


反省とは我が身を省みて前を向くことなのです。 

下を見ていませんか? 


前を向いてください。 




前を向いていたなら、厳しい言葉は投げ掛けられないはずなのです。 



それでも もし、投げ掛けられたなら、そんな輩はほっといたらよろし。 


そ〜いう人はどこかのドブにハマりますから^^


気にしないことです。 





今まで読まれてきた方ならわかるかと思うのですが



人への気配り、思いやり、人の気持ちを推し量ることがこれからの時代の必須となります。



それは
わたしがいつもお話しをしています、お掃除をすることが基本になるのです。


人は埃で死ぬことはないと言われますが 心はカビます。



カビた心は、カビたものを造り出し、増殖します。



それが 今の世の中ではないでしょうか?



ほうきと雑巾さえあれば掃除は出来ます。



きれいな心を保つのは自分にしかできないことです。



人任せにせずに、ご自分でなさってください。



また、そのような方は、癒しが必要と言われますが、他力本願では、いつまで経っても癒されません。



心を強く持ってください。


人を批判したり人の揚げ足を取ったりする人は、そういうことをすることが好きなのです。 

自分では気づいていないけどそれをするのが好きで好きでたまらないのです。 


だから 指摘されても直らず、ついつい、人を批判したり人の揚げ足を取ったりするのです。 


直らないのは楽しいし好きだから。 


だから、それを認めることだ。 


認めないから直らない。 

自覚とも言う。 



なんて自分は意地悪な人間なんだ、なんて卑下する必要はない。 


ただ、淡々と、そういう人間なんだと自覚していればいい。 


自覚したら気をつけようと思えるものだ。 


無自覚だから気をつけることができない。 




無自覚な人ほど質が悪いのです。 


省みることが出来ないから。 



自分に闇と思える部分があっても良いのです。 


自覚したら直そうと努めることができるから。



大概の人は前世から持ち越したカルマというものがあり、それを刈り取るために、今、そこに居るものです。 


だから、カルマの刈り取りが終わったら、そこに居なくてもよくなります。 

カルマがあるから、そこに居る、その選択をしているということになります。 



例えばわたしですが わたしは元々、専業主婦希望でしたが、学生のころから休みなく働いてきました。 
16歳の頃から54歳まで、ずっと約40年間、働き続けてきました。 


カルマが外れたから、今こうして、専業主婦生活をマン喫しています。


このように、今、やりたいこと!というのは、カルマと関連しています。 


そのため それを越えた先に、本当の使命が存在します。 


それは、平行してやってる方もおられます。わたしもそうでしたから。 



何が言いたいかというと 
今、やりたいことは、カルマの刈り取りのためにしなければならないことであって、本来の目的とは違うことがあるということです。 



これしかない!これが天命だ!と思ってしていることが、本来の天命とは違うことかもしれないのです。 



だから これしかない!と思わず、もっと楽な気持ちになってください。 




やりたいことをやっているはずなのに、なぜか報われない!  
自分にはもっと合ったことがあるはず!
自分は一生懸命にやってるのに! 
誰も気持ちをわかってくれない! 


そう思われてはいないでしょうか? 


カルマをさっさと終わらせて、早く、本来の目的を生きようと思いませんか? 



相談者様とお話しする中で、自分の使命に気付いた!これが天命だ!と意気込んでいる方ほど、カルマなのです。 


う〜ん、違うのになあ〜と言っても、わたしの話しは聴かないです。 

カルマの刈り取りは意気込んでやることではなくて、さっさと終わらせることなのです。 


実際、やりはじめたらすぐに終わることが多いです。 

そのため、次にやりたいことがあらわれて苦悩します。

さくさく終わらせることが目的です。 だから、そこに執着しないで、次に進みましょう。 


負の感情があると無駄に執着するので厄介です。 

そのためには、浄化ワークは必要です。 



天命に進めないのは、カルマに執着する心です。 




わたしには使命がある!のではなくて、カルマがある!のです。 




もっと謙虚になりましょう。


ずっと書きたいと思っていたことがあります。 

それは、ご老人のこと。 




昭和初期から戦前に生まれた方々というのは、戦争を経験されているだけあって そこでの体験に基づく感情や学びがあるものです。 


そして その人達が子供を生み育てています。 


そこには、ある種のこだわりがあるようです。 





最近では、体の弱くなったご老人は、ホームや施設に入られることも少なくありません。 


また わたしの周りのご老人を見ていると、自分勝手な考えの方もいらして驚きます。 



きちんと子育てをされてこなかったご老人は、子供に見放される傾向があります。 


そのため、自身の内省を促すために病気になられています。 

それで苦しまれている方は大勢いらっしゃいます。 

「死ぬに死ねない」という状況を自身が作り出しているのです。 




魂は、亡くなるまで、成長したいと願う存在です。 
亡くなるまで反省を促されているのです。 


また 反省を促され、その相手からの許しを待っているのです。 



怒りや憎しみがあったとしても それを子育てに影響させてしまっては、巡り返ってくるのです。 



自分でつくったカルマは自らが刈り取る他ないのです。 



しかし そのようにして生かされている人々を、甘い蜜を吸わせて利用しようとされる方々もいらっしゃるわけで。 


だから 反省できないご老人が増えていくのです。 


清き一票も利用されるのです。 



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