この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 努力



出来ることはさせていただきたい 

という気持ちで過ごしている。 



自分の出来ることってなんだろう? 


自分の出来ること。 



自分の頭や力を最大限にフル活用するということ。 


早く!正確に!誠実に! 


わたしは霊的修行の中で神様は厳しいけれど優しい存在だと感じるようになりました。 


簡単に、「お守りください」なんてお願いできる存在じゃないのに、守ってくださる。 

畏れ多いながらも自分をお守りくださいとお願いすると、ちゃんと守ってくださる。 


そうやって 神様と信頼関係を結んできました。 



畏れ多い存在だから、礼儀を尽くすのです。 


自らにわたし(神)を招き入れるために努力しなさい、と仰られます。


努力することが神様にたいしての礼儀になるのです。 


お金を包むとか食べ物をお供えするから聞き届けてくださるわけではなく、努力が捧げ物になるのです。 



こうやって、神様との信頼を結んできたわけですが これは、人間社会にも通じます。 


礼儀を尽くすとは努力です。 


先日の「分かれ道」でも書いたことなのですが 「すぐやるかやらないか」は成功するかしないかの分かれ道でもありますが 言われたことを素直にすぐやらなかったり自分のやり方でやろうという一見、自分の個性を大切にしているようにみえる行為は、成功とは真逆だということをわかっていない人がほとんどです。 



最近では、「個性を大切に」と言われますが、個性をわかっていないのに大切に出来るわけがない。 


集中して取り組める何かもないのに個性がわかるわけない。  


考える力を育むことは大切ですが自分の個性ややりたいことを探すあまり人の話を聞かない。 


頭の中で探すよりも経験が先です。 


要は失敗という経験が怖いのです。個性、個性と言ってる人は。


逃げなのかな? 

経験豊富にならなくてはならないと言ってるわけではなく、逃げてはいけないと言ってるわけではなくて、逃げてる事実に気づいていない、自覚ないだけですね。


自覚って大切です。 


自覚して経験を積むことで考える力を養うのです。 

経験もないのに力はつかないです。 


どれだけ勉強してもそれを活用してこそです。


活用して実践して力が養われるということを忘れないように!


誰だって何かしようと決意したら勇気さえあれば突き進んでいける。


神様が仰られる努力とは、突き進んでいくための土台を築き継続し続けること。 

瞬発力も大切だけど継続力。



土台もしっかりしていないのに努力できないですね。 


土台とは家族、親類縁者、友人。 


助け合えるよう支え合えるよう家族たちを大切にして過ごすことなのです。 


その感謝もそこそこでは成就できません。 


誰と信頼を築くかといったら まず先に家族からです。 


それでこそ、神様の器と成り得るのです。 




他者のブログを読んでいて思うのが
人の批判をしている人が多かれ少なかれあるなあ と感じています。


自分は〇〇出来るのに、人は出来なくて それはおかしいと 自分の尺度で物を考えています。


人はそれぞれ違いはあるのだから補う、教えあうことが必要だと思いますが それが軽蔑の対象となら 相手を傷付けています。

そして それを何度も繰り返し繰り返し訴えています。



こんなことぐらいできないのか!
って繰り返し書かれています。

知ってるなら教えればよいのです。

だけど 意地悪なんでしょうね。

自分の知識は自分でヒン握っていたいのでしょう。。。


結局 教えるわけなく、ただ 下げずむだけの人です。。。


結局 あれこれ出来る人ですが それだけの人なのでしょうね。。。




また それをやられて自信をなくす人がいらっしゃいます。


自信をなくして、鬱になったりして 身も心もボロボロになる。。。


そんな人に

『頑張らなくていいんだよ!ありのままでいいんだよ!』

という人がいます。←スピリチュアル業界の人が多いです。



あの?
そこ 人生の頑張りところなんです。

リタイヤさせるところじゃないのです。

一発奮起させるべきところを なぜ、リタイヤさせるのか意味わかりません。


そこで 乗り越えることができなかったら 乗り越えることの楽しみや努力することの楽しみが一生、感じることができないのです。


乗り越えることの喜び!
出来なかったことが出来るようになることの喜び!


それを感じずに

人生リタイヤして、楽なことをして過ごせばいいと流されて生きる〜


結局 負け犬の遠吠えなんです。


負け犬は負け犬仲間がほしいだけなのです。


傷をなめあいたいのです。


楽な道に逃げて

苦手だから とか 自分には元々向いていなかったんだ とか 別の仕事がしたい とか

ひとつのことをマトモに成し遂げられない人が 別のことをやって成し遂げられるわけがない。


出来なかったら、違う道がある って、人生なめていますよね?


裕福だからできるのです。



ここで この仕事にしがみついていなかったら、生きていけない!

と思うから、頑張れるのではないですか?


ここで試験に受からなかったら生きていけない!

と真剣になるから、試験に合格できるのです。



それを

まだ、後がある と 余裕かましてるから 一生懸命になれないのです。


それが 乗り越える!ということです。


頑張らなくてもいい!

と、よく言えるなあ と思います。



ここで 頑張らなきゃ、一家 路頭に迷わせることになる!
と 思うから、死握り頑張るのです。


努力させない ってどういうこと?


出来なければ生きていけないなら 付きっきりでサポートするのが人間だろ。


教えるのが目上の人のやることだろ。



やらなくていい。

楽なことをしなさい。


と勧めるのは誰だってできるんだ。



癒しが必要?


癒しだけが必要ではないんだよ。



頑張れる力を持つために癒しが必要なんだよ。



人が頑張るのには、力が必要なのです。


愛されている力。


それが 責任感となり、頑張る力を生み出します。



頑張らなくてもいい というな!


力を削ぐな!


根性なしを作り上げるスピリチュアル業界って どこかの回し者でしかない と思えるのです。


宇宙がどうとかUFOがどうとか
人生を生きていく上で関係ありますか?


根性込めて生きていくために 何が必要かを考えてみてください。



人のためになりたいなら、癒すだけでなく 教えてあげてください。


教える頭がないのなら、学んでください。


学ぶ力をつけてください!



知恵は知識があるからこそわくのです。


知恵をつけるためには 日々の学びです。


頭の回転が遅い者には知恵は授かりません。



頭を動かす!

これは、基本です。



人間は頭をフル回転させて生きるのです。


縄文時代に憧れるなら、頭の回転も同等にしてください。




わたしは教えます。


また、このブログをきちんと読めば 何をしたらよいかは書いてありますし 実践できることもたくさん載せてあります。


ここに書いてあることを 確実に出来るようになれば 知恵は授かります。


なぜなら、わたしが証明だから。





癒すのは サルでも出来る。


サルのままで良いか?

よく、考えてみてください。



あなたは サルとして生まれて来たのか 人として生まれて来たのか どちらですか?

我慢は必要ない。必要なのは努力なんだ。


人は我慢をしようとする。

我慢しても、解決しない。

必要なのは、努力。


相手を尊重して、接すること。

一生懸命に 相手を思いやる心。


相手を思いやることは、自分を思いやることに繋がるから。


この人から教えていただこうという謙虚な態度で 接すると 学ばせてもらえるんだ。
ありがとうと思えるんだ。


そして ひとつ、階段が上れる。



我慢しても何も学べない。
我慢しても心は辛くなるだけだ。

どんな学問でも学ぶことは、とても大切なことです。



わからないことがあったら 人は調べると思うのです。


調べて ひとつずつ学んでいく。



それを 人に聞いてみたり
人が教えてくれるまで待っている人がいます。



それは 学ぶ姿勢ではないと思います。



学習って探求心からだと思いますし、自分で努力して調べたのと ただ人から聞くだけでは 重みが違います。




わたしがスピリチュアルな記事を読み出したのは、ある方のメルマガからでした。



最初は しっかり読んで、覚えることは自分で書いて覚えました。


チャクラの位置やその部分の特色など
あちこちのブログを参考にして ひとつにまとめあげました。



わたしのメインブログはそうやってつくられています。


だから、未だに チャクラの記事は よく検索されて上位にあります。



人の記事でも 自分がしっかり理解できると 自分の言葉で記事が書けるのです。


わたしは初期の頃はひとつひとつを丁寧に調べて記事にしていました。 


学んだことを自分の言葉で記事にしていました。

そうすると 読解力がつきます。




わたしのブログは そうやってつくられていますので ひとつひとつ丁寧に読み進めて 暗記できるぐらい自分のものにしていかれると良いと思います。

ジャンル分けもまだまだ、途中ですが
それでもキーワードを入れていただければ かなり出てきます。



わたしのメインブログを読んで 理解していただくと 実践もしやすいですし 実践の仕方も書いています。


現に、わたしのブログを読んで 勉強されている方からのメールも届きます。


ありがたいです。



般若心経の内容などもかいつまんで書いています。



やはり いろんなジャンルの本を読んで よいと思ったことは実践するだけですし、ビジネス書や宗教学的な本、子育て本、など 幅広く読んでいます。



読んでそれをまとめて記事にしたりすることもしていました。



そして 自分の内側からの声が聞こえた時に 学んだことの答えあわせをしていきました。



わたしはそうやって スピリチュアルを学んできました。



観念浄化ワークだけじゃなく それ以前に 江原さんの著書もすべて読破しています。



ずっと、学んできたから今のわたしがあると思っています。



努力は人を裏切らないと実感しています。





人は知識と経験が物を言うのだと思います。

恐怖心 
裁く人というのは、人に恐怖心を植え付けるのが得意なようだ。 


裁かれる恐怖というものがある。 



その恐怖はいったいどこから来ているのだろうか。 



それは、人の内にある自信のなさが生み出しているのです。 


何故、自信がないかといったら 人生で100%の自分の力を発揮して生きていないからなのです。 


それは、今の自分にOKを出していないから。 


何故、自分の人生にOKが出せないかといったら 細部に辺り、曖昧で優柔不断で開けたら閉めるという作業や閉めたかどうかの確認作業や検証することを怠っているからなのです。 

最善を尽くしていないのです。


自分が感じる不安を100%払拭していないことも考えられます。 


自分が自分の行動に100%、OKを出せるまで 取り組んでいないからなのです。 


そのためには、計画性や人の意見を聞く耳を持つことが必要で、他者を信じたり頼ることも必要なのです。 



自分に自信を持つということは、ひとつの物事を完成させることでもあるのです。 


ひとつの物事を完成させるためには、自分だけの意見に固執していては到底、つくりあげることができないものです。 


だから、周りの意見を聞き、良いと思ったことはすぐに行動して、今までの言動を改め前を進みながら、最善を尽くしていくのです。 


自分が最善を尽くした結果が自信に繋がるのです。 


根拠のないものではないのです。 


根拠があるから、胸を張れるのかもしれません。 




わたしでも やはり、最善を尽くしていない時は、モヤモヤとした気持ちになります。 

何かが足りないと感じると、それを探すのに躍起になり、他のことは手につかなくなります。 

それがわかり、対処して、事なきを得ると安心に包まれます。 


これで、間違いない!と確信できるものなのです。 

その繰り返しです。


だから、モヤモヤとする気持ちは 何かを見落としていますよ、というサインだから、悪いものではないのですよ。   



見落としていることをわかっていながらも改善しないというのは、自分を信じ過ぎてることでもありますね。 


他者の意見を聞き入れられないのですから。 


自分の固執した考えだけで生きてきた人は、それを曲げられないのかもしれません。 


それは、置いておいて まずは、


自信を持つということは、最善を尽くす結果で得られるのだと言うことです。 


そして それが恐怖心を越えものになるのです。 




昨夜、次のような質問をいただきました。 



『わたしは入社して二年になりますが やりたい部署にもつくことが出来ずに やりたくもない部署で連日連夜、働かされています。 
朝、早く出社して、終わるのは日付が変わるまで仕事をします。 
それだけで足りないので、休日も無給で働いています。 
親からは、心配されて仕事を辞めるように言われています。 
だけど 責任があるので 辞められません。 
いっそ 病気にでもなれば辞められるのに、と考えますが 風邪を引く程度で 辞められるまでの病気になりません。どうしたら良いのでしょうか?』 



わたしがちょうど、昨朝、投稿した記事があります。 
その中に、 


『人それぞれの役目は違うもので そのままの自分でできることなら、すぐにでも自分の役目は見つかるけど、それなりの人材になっていないとできないことなら、そうなるための人生経験が必要なんだ。』 



この相談者様はまさに、これが当てはまります。 



普通、そこまで身体や頭を酷使したら、倒れます。 
しかし、倒れないのは、その場所で それなりの人材になるための人生経験をしているからに他ならないです。 


また 相談者様は、他にやりたいことがあったけれど その部署には配属されませんでした。 


それは、その器がないからです。 


だから 今、別の部署でその器になるために修業をしているのでしょう。 


しかし 頭の中が不満でいっぱいで うまく頭が回らず、仕事効率が悪いことが考えられます。 


相談者様もわたしがいつも書いている、AIを超える人材になろうとされていると思われます。 


たかだか機械に翻弄されるのは人としていかがなものかと思います。 


人というのは、機械にない情緒、趣を持っているものです。 


この相談者様は 頭の中が不満や負の感情に左右されているため、通常の頭の回転ができなく、手や足も口も動かないから仕事効率が悪いのでしょう。 


瞑想やグラウディング、呼吸法で 頭の中の負の感情を浄化し また、ON OFFのある生活に切り替えることをお勧めします。 


仕事を辞めたところで その人材になるためには どこかで努力しなくてはならないものです。 


リタイヤさせてもらえない。 




このように 不満を抱えて生きていても 魂の進みたい方向に生きているものです。 


しかし 周りを見渡すと、すぐに仕事を辞めたり 仕事以外では離婚したりされる方もいらっしゃいます。 


自分が一度決めたことを辞めるのは、自分との約束をやぶる行為です。 


魂に逆らっていることならば、病気になったりして、強制的に終了させられます。



忍耐を学ぶためにしているのに忍耐がないから辞めたいのです。 




今は、自分の意思が尊重される世の中ですが 自分の人生を深く考えてみてください。 



人が成長するためには、一足飛びで出来ることではなく 毎日、こつこつ努力を繰り返すことです。


貴方は毎日、どんな努力をしていますか? 


 




昨日は、一生懸命に努力することを書いていますが、一生懸命に努力するってどんなことかというと 一点だけを見つめて集中することではないのです。 


目の前に出されたこと集中して取り組む ということでも 目の前だけ一点を見つめることではないのです。 


一点を見つめることは大切です。 


だけど 周りをみたり高い位置から見ること、客観的視点で見ること、反転させて見ることなど 出来る限りのことをしつくすことが大切です。 


だから、頭を使うことなのです。 


計画性を持って また、集中力も必要ですし、余裕を持つことも必要です。 

目の前にあることをガリガリ集中すれば良いことではないのです。 




自分の頭でありとあらゆることを考えて、行動することなのです。 


一生懸命にやっているから余裕がない、というのは間違いで 一生懸命にやたら余裕はあるものなのです。 


一点しか見ていないから余裕がない。 

一点だけやればよいという思い込みです。


周りをみて、人の立場になって考えて 人との調和を考えて行動するから、目の前のことを乗り越えていけるのです。 


自分だけの視点でなく、他者の意見や情報も取り入れ自分の意見と照らし合わせて行動するから乗り越えていけるのです。 


そして、出来る限りのことをしつくすから、乗り越えられないと弱音を吐きたくなるのです。 


そこに、神様が慈悲を示してくださるのです。 



夢を叶える、奇跡はそうやって起こすのです。 


それが魔法と呼ばれるものなのです。 



義務教育期間では全体的にみて目標までを計画立てて取り組む忍耐力を教え、家族間や周りの人と協力しあって進むことを教えられていくはずです。


そこをすっ飛ばして、遊びに興じていると、社会に出た時に困るのです。 

家族間や仲間、職場という社会で様々な役割をとおして協力することの大切さを学ぶから責任を担うことの重要性を感じ、独立していけるのです。 

それまでは役割ごとに動いていたことを、徐々に一人でできるように任されながら成長していくのです。 


そうやって成長していけば恐怖は感じないはずです。 


一人でやらなければいけないと思い込むから恐怖が先に立つのです。 


どんなことでも準備は怠ることなく、ですね。 



人からしたら 一見、難しいと思えることでも 努力したら 楽に出来るようになるものです。


楽になるまでは努力は必要ですが、必ず 楽になるものです。



わたしたちは 元々は、何でも簡単に楽にできるようになっているものですが 人として生きるために、できることをできないように負荷をかけて生まれてきています。


だから、戻るだけなのです。


努力し続けて戻ることで 努力することの素晴らしさや苦しさ辛さを感じて人に対する思いやりや許しを学んでいくのです。

すべては、たましいの学びのためなのです。



努力してできるようになることで 人の痛みを知ることになります。


そうしたら、人にたいして、威張ったり自慢はしないもので、思いやりが芽生えるものなのです。

それが、人を助けたいという奉仕の気持ちです。

一緒に乗り越えていきたいという気持ちも同じものです。




一目置かれるということは そのようになってこそ、なのです。



すべては、相手を思いやる気持ちを育てるためなのです。



わたしたち、本来の自分というものは このように思いやり溢れた配慮ある姿なのです。




そこに行き着くには、努力が必要です。


わたしは待っています。

手を放さず、待っています。

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