この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 信頼

『信じること』


何があっても離れていかない と信じること。


また 学びが終わったら、離れるんだ と信じること。



信じることが大切です。



これからは分離と統合の時代ですと書きましたが、 自分自ら離れていく選択をしなくても 学びが終われば、離れられますし 離れない と信じていれば、統合していきます。


人は徐々に、その波動によって 引き合う人離れていく人がいるものです。
それは離れなければいけないと、離れる選択をしなければいけないものではないのです。


目の前に起こることに真摯に対応していけば、自ら離れなくても、嫌いな人とはそぐわなくなり、自然に別れがやってくるものです。


また、好きな人とは自然に、寄り添っていくものです。



これが これからは、分離と統合の時代です という意味です。




この信じる力を育てることが成長するということですし、自分の自信に繋がります。



どこまで、自分を信じられるでしょうか?

先日の記事『これからの時代を生きるために』は、書いていて脱線して 本当に言いたかったことが抜けていたため もう一度書いてます。


『どうやら これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代に入るようです。』


と書きました。



スピリチュアルなメッセージでは、これからは分離と統合の時代です とよく言われますが、それを正確に理解している人はいるのでしょうか?



具体的に、事細かに教えてもらわないとわからないと思います。


そのためには、自分自身を知らないと、よりわからないのです。



その人その人の分離、統合があるのです。


同じはないのです。


これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代。


これを読んで、自分に当てはめて どうしたらよいかがわかる人はいますか?



意味わかんない!って思いませんか?



だらだら、ブログを読んでいても 自分に置き換えて考えられないようでは何もならないのです。



ただ、読んでるだけの人が多いと思います。




わからなかったら人に聞くなり質問するなら調べるならしないのかなあ?



一昨日、FBのメッセンジャーからメッセージをいただいた方がいらっしゃいます。

わたしは、ワケわからないまま電話します。

メールのやり取りは面倒なんです。

セッションの詳細を、と言われましたが 今はセッションはやってないです。

それは 大概が人からの相談内容がスピリチュアルな能力は使わなくても解決するからです。


だから、当然 無料です。


お風呂に入る前の15分ぐらいの間にお話しをしていました。


全部が全部、解決には至りませんが 今、できることをお伝えしました。


ただ、それだけです。


そして また、わからなくなったら電話をしてきてくだされば良いのです。


自分自身にしっかり繋がらないと、 スピリチュアルなメッセージを正確に読み取ることや具体的なことってわからないものです。


わからないうちは、聞けばいいのです。


わたしと話をするって、大袈裟なことでもないですし、ほんと隣の口うるさいおばさんです、わたしは。


聞かれれば、何でも答えます。


便利だと思います。


だから、周りからは便利に使われますし、重宝がられます。

だから、神様からも使われるのです。




あっ また、話が脱線しちゃった。。。スンマセン

自分がこうしたい!こうなりたい!という目的があるならば、きちんと筋道立てて考えなくてはならない。


また それは、感情に左右されるものではなくて ちゃんと ビジネスライクに考えなくてはならない。

そのためには、手放さなきゃ話しにならない感情もあるのです。




内観浄化というのは、自分の内側にある感情と向き合い、手放していく作業です。


人は感情を味わい乗り越えることで成長します。


乗り越えたら、離れていくものです。


また まだまだ、乗り越えられなくて 味わい足りない感情は、離れていかないものです。





人生の目的がわからずに過ごされている方もみられます。


それでも 味わいつくした感情は離れていきます。

そのため 目的はわからなくても目的に近づいているものです。


だから、目的がわからなくても 目の前に起きていることを確実に生きていくと 知らないうちに目的にたどり着きます。




どうやら これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代に入るようです。


そのため この12月は、最終的に感情の手放しが起こるように仕向けられているようです。




わたしはたまに、自分でもわからない行動をとります。


それは 人に対して追い込みをかけます。
感情を煽るとも言います。


それは どうやら、上からの指示でやらされているのです。


その人の感情の手放しが起きるようにわたしが動かされます。


嫌な役です。
嫌われる役目でもあります。


しかし、それは一度だけ行われます。


二度はありません。


一度だけ行い、相手がわたしに耳を貸さなかったら そこで切り上げます。

あとは、神の采配によるでしょう。


わたしは一度は手を差し伸べるのです。


それは わたしの目の届くところにいる人に対しての責任感からです。


一度は口を開くのです。

説教する、とも言います。


だけど 二度目はありません。


あとは神に委ねます。


そんなお役がわたしにはあります。


わたしはままのままだから。



わたしの声を聞いて 人生の目的に着実に近づいていく人もあれば、
わたしの声を無視して 人生の目的から離れていく人もいらっしゃいます。


仕方がない。


それが宇宙の自由意思というものだから。。。




わたしの声を無視した人は病が離れないようです。


仕方がない。

あなたは、どうやって信頼される人になりますか?



わたしは、以前 生きているだけで愛される存在なんだよ


と書いています。


『生きている』 これをきちんとしていれば、人から信頼される人になります。



『生きている』
自分を意識して、相手も意識して生きることです。



そうやって 生きていれば、誰かの心を軽くしたり、気付きを与えたり、できるのです。



そうやって、信頼されていくのです。



漠然と、書きましたが 人には得て不得てもございます。



自分の出来ること!が、グラウディングになります。


生きる活力になります。



わたしはどうやって人から信頼されるか?と言ったら

まあ、このしつこさでしょう^^



この畳み掛けるほどのしつこさだと思っています。



これからもしつこいままのままをよろしくお願いします。

確かに、人は誰でも尊敬、尊重の対象になるので 誰もが信頼されて良いはずです。



だけど この地球においては、それをわかっている人はまだまだ、少ないのです。



誰もが信頼される人なんだよ!
と、声高々に言ったとしても聞き入れてもらえる人は少ないでしょう。



だって この地球は実績がすべてだから。



そこを受け入れずに、


わたしたちは元々が信頼される存在なのです〜


って、怪しい宗教にしか思われません。




口だけなら誰だって言えるのです。



実績をつくること。



それをするために、生まれてきているのです。




だから、この地上で信頼される人になるのです。

でもね


見ていると

そこでシナリオ通りに進まない人もおられます。



わたしは そういう人を視るとどうも、いらっときて執着しちゃうのです。



わたしがなんとかしてあげたい!

魂さんが泣いている!



と想い、関わりすぎてしまっていました。



だけど

それでも その人の人生です。




見守っていこうと思います。



最終的には、わたしが抱き抱えるのですから〜



やんなっちゃう

ヤな役回りだわ(-.-;)

なら、最初からわたしの言うこと聞いておけばいいのに〜


って想いがあるわたしは、まだまだ、まだまだな存在です^^



オホホ(*^O^*)

信頼される人になる



人の愛 でも書いたと思うのですが

愛というのは、信頼度なのだと思うのです。



求められることは出来ることなのですが

この『求められること』というのは、信頼される度合いで難易度が高くなってくるのです。



また、この信頼される度合いが高いのは 自ずとわかると思うのですが、家族です。



家族間で 信頼度が高ければ、他の方からも信頼されていきます。


家族の仲が良いというのは、信頼度、絆が強いということなのです。



だから、人からの信頼度も高くなりますね。



最終的に、魂というのはその信頼を家族からその周りへと広めていくことをしたいのだと思うのです。



また、ツインフレームの魂におかれましては、

この信頼度は家族間の比ではないくらい元々、高いのが特徴です。




だから 決して、裏切らないし裏切れないのです。



求められることは出来ることです。


信頼度に応じて、求められますので 着実に、丁寧に取り組んでいきたいものですね。




しかし、先ほど書きましたが 人生のシナリオというのは、そうはうまくいかないようにもなっている場合もあります^^




裏切ることもあります。

だから、面白い^^


それをすることで憎しみが生まれたり執着が生まれたりもします。


それが 血となり肉となるのです。



どう、行動するかは その人次第です。



意識を高め、絶対に間違わない!裏切らない!をモットーに生きるのもひとつですし
だらだらと逃げ腰で生きるのもひとつです。




まあ、決めてきてるのだから仕方がない〜



その渦中に居るときは辛いですが 魂的には大満足しているのですぅ



そういう体験を経て、人は成長していくのです。  




そうしてみると、挫折のない人生はつまらないもののような気がします。



でも 最終的には、みな気付きを経て 信頼される人になっていくのです。

頑張らなくていいんだよ
もっと、自由でいいんだよ



と、人は言います。




今朝のメールはこんな内容でした。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ままさん

今日、急遽 出勤になりました。
手薄で、私しか出勤お願いできないそうで。。
断ったんですが、明日の勤務が回らないとのことで、出勤を了承しました。

明日は、娘の卒業式です。
だから、今日は最後の授業なので、いってらっしゃいと見送りしてあげたかった。

それが、してあげられなくて悔しい気持ちになりました。

その気持ちを娘に伝えたけど、私が自分に許可してない
から、悔しいだけが残ってます。
求められることは、出来ると思うど、、
親として見送りしてあげることも、私は求めていたので、今日はちょっと、、
それが叶わなくて、仕事辞めたいとおもっちゃいました。
こんな気持ちでままさんごめんなさい


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


わたしの返信がこちらです。


娘さんの最後の送りをできなかったって
娘さんとA子さんの関係が壊れるわけでもないし

A子さんは立派に仕事をしているのだから、悲観することでもないよ


してあげたい という気持ちはエゴだよ


手をかけることが愛情ではなくて
仕事の厳しさや信念、決められたことを遂行する意思の強さを教えることが大切だよ。


プロでしょ A子さんは

仕事をなめたらあかんよ



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


わたしは こう、教えます。


与えられた仕事を責任を持ってこなす姿勢を見せることが 親の務めだと、教えます。

仕事をすることの大切さを家庭で教えていけば、娘さんは 外に出たときには一生懸命に働くことができるのです。


仕事をすることをぞんざいに考える人は 人からもぞんざいに扱われます。

与えられた仕事はどんな仕事でも仕事なのです。

それを きちんとこなすことで 自分に自信ができるのです。



頑張らなくてもいい。
自由でいい。


そんな意識レベルでいるから、人が育たないのです。



甘やかすだけが能ではない。




頑張り過ぎる人には、そこに意識を集中し過ぎているだけで
頑張りを おおいに認めることではないでしょうか?



何かを犠牲にするという意識は捨てて、目的を遂行するためには 何をするかだけなのです。


それが 仕事の本来の姿です。


仕事をできるだけの器があるにも関わらず、頑張らなくてもいいと 自分に制限をかけるから、息が切れるのです。



求められることはできるのです。


それが 自分の軸となります。



軸というのは、責任感の強さです。


自分自身に繋がって、自分は愛ある存在だとか生かされていることに気づいて 感謝する気持ちは芽生えますが、生きていく強さとは、別物です。




今は 自由やいい加減さを求める風潮がありますが それを求めることで 輪を乱してはいませんか?


本来、自由さいい加減さは、輪をまとめるためにあるものです。


そこを間違えて捉えていませんか?


いくら、自分が良いこと♪と思い、自由さいい加減さを求めても 輪を乱すことは 結果、人とのいさかいを呼びます。


そして その自由さ、いい加減さは 責任感のなさを生みます。



自由やいい加減さを求めるのは、責任を取りたくないからではないですか?

責任を取りたくないのは、自分に自信がないからで 自由さを求めるのは、自信のなさを隠したいからではないですか?


仕事に自由やいい加減さを求めることは、責任を取りたくないからではないですか?





家庭と仕事は違います。


家庭は一家の長がいて、まとまります。


責任は、親が取ってくれるものです。




しかし 仕事は、各自が仕事をきちんとこなすことを求められる場所です。


でも そこで 失敗したら、ペナルティーや上司が責任を取りますね。




その責任を取りたくないからと、責任のない仕事をしたいと 求めます。


自由がいいと、責任のない仕事を求めます。



結果、自分の人生に責任を取らずに生きていくのです。



と いうことは、誰からも 求められず、当てにされずに生きていくということです。



自由に生きるということはそういうことです。



だったら、寂しいと言うな!

しかし、寂しいから、責任を取れない者同士が集まって、コミニュティをつくる。。。


楽しいことばかりを探して歩き回るコミニュティ。


責任感のかけらもないコミニュティ。



そんな人たちも世の中には存在しますね。



なんの責任も持たないのに、権利だけ主張する。





この世界には、汗水たらして働いている人がいるのです。


その人達が働くから、成り立っている世界です。




責任のない人にはわからないでしょうね。。。


何も責任を取らずに生きている人は、わからないのだと思います。





頑張らなくてもいいんだよ。
自由でいいんだよ。

という風潮の中でも、頑張って働いている人がいるから 成り立っている、生かされていることを知ってほしいと思います。


責任感のない自分を認めてもらいたいなら、まずは 責任感のない自分になったことを人のせいにしてはいけない。




自分は責任感がないと自覚することです。


このように わたしに何かあると 最終的には、神々が判断を下してわたしを退かせます。 


それは、わたしを守ってくださるからですが、神々の判断は人にとっては時々、厳しく映るときがあります。 


そのため わたしの投稿は、敷居を高くしているのです。


わたしの記事が厳しい内容の理由がおわかりいただけたかなあと思います。 



しかし 本来のわたしは非常に人なつっこいです。 

ギャップがありすぎるのですよね〜 


だから よけいに厳しいことを書いて、敷居を高くするのです。 



間を取り持つための策ですね。 





わたしは神に遣われる身だから 神の御意思に従います。 


ただ わたしは、それに遣われるだけなのです。 


神に遣われるだけのわたしから発せられる言葉は尊いものです。 


しかし それをいい加減に扱われると憤りを感じます。 


尊いものだからです。 



わたしが憤りを感じたら、神々はそれ以上 わたしを動かさなくなります。 


神々のご意思でわたしを動かさなくなるのです。 

そうやって わたしは神々から守られています。 


媒体であるわたしを労り助け続けてくださるのです。 


ありがたいです。


媒体であるわたしの体が壊れたら神々の降りる先がなくなってしまう。 

そのため わたしは守られる。 



その想いを感じているから わたしは、また 立ち上がれるのです。 




神々との信頼関係があるからわたしは生きていけるのです。 




そうやって 神々が一見さんお断りしてくださるのは、とても心強いものです。 




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