この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: 許す

以前 わたしが鈴木真奈美さんのメルマガをお勧めしていたこともあり わたしの読者の方は 真奈美さんのメルマガを読んでいらっしゃるかもしれないので 補足として書かせていただきます。



憎むのでなく許すということ


これは、人生において難しいレッスンです。


だけど 必ずしも、許さなくてはいけない わけではないのです。


この時期に 真奈美さんの身に起きたから 憎むのでなく許すのです。



はっきり 申し上げますと

自分の大切なペットや子供は ご主人様や親のために その身を犠牲にして気づかせます。



そうやって ご主人様や親の成長のために動くのです。


だけど それは、絶対ではないのです。



本人が 大切なペットや子供がそう行動する前に 気付けば 行動しないものなのです。



それを知ったら、自分を責めるかもしれません。


だけど あえて、書かせていただきます。



自分の大切なペットや子供を犠牲にしないためにも 気付かなくてはいけないのです。


歩みを進めなくてはいけないのです。



わたしは 人を犠牲にしたくないから、自分を高めることをやめません。




自分が上がらないと そのしわ寄せはくるものです。


だから 二度と、同じ過ちを犯しません。




最初に書いた


『だけど 必ずしも、許さなくてはいけない わけではないのです。』


これについては

人生には段階があります。

人を許さないことで、相手に気付きを与えることもあります。


だから 自分は人を許せないからよくない、と思わないでいただきたいです。

今は そんな段階。


許せない という感情で守られているたましいもあるのです。


そんなときは 人を許すために 大切なペットや子供は 動かないものです。


安心してください。

いくら 楽天家のわたしでも そこまで楽天家にはなれません。


人を思いやることは 際限はないけれど、
そこまではお人好しにはなれません。




その時、あなたはどうしますか? どう感じますか?
というお試しは数々、あります。



どこまで あなたは許せますか?

どこまで 広い心を持てますか?


とのお試しだったのかもしれません。



だけど 今のわたしが下した判断に間違いはありません。


わたしを裁きたければ裁けば良いのです。


今のわたしは 周りを見渡し生きています。


不思議な世界のこともわかるし、地につけて生きる意味もわかります。


だから、どんな生き方も自由ですが 正しい生き方はあるのです。



今は まだ、お金というエネルギーのある世界です。


自分が生きていくお金を生み出すためにすべきことは お金に関わる対象のすべての人、物を大切にすること 愛することです。

それができて 初めて、余裕が出来て 余裕を愛することができるのです。


人が生きていくためには優先順位があるのです。

誰もが最優先すべきは自分の命です。


自分の命を守るために、どう生きるか!どう感じるか!だと わたしは思うのです。




楽しむために生まれてきた とか 人に役に立つために生まれてきた という方も 自分の命がなかったら 楽しむことはできないし お役にも立てないのです。



わたしは自分の命を守るために、自分のすべきことをして過ごしています。



お金は天下の回りものです。


だから、愛するのです。



勇気にはふたつあると思います。


離れる(壊す)勇気と受け入れる勇気。


離れる(壊す)勇気は、発信する力が必要です。


受け入れる勇気は、内側に向かう力が必要です。


どちらも、力は必要です。



離れる(壊す)勇気がないと、そこに留まることになります。

留まるのは 一見、受け入れてるようにみえますが、そこに力は働いていません。



人が何か決断するときには力が働きます。

外に向くか内側に向くかです。



どんな時に決断するのでしょうか?


人生の岐路と言える時だと思います。


何らかの決断をして 方向性を決めますが、勇気がなくて 決断出来ないときには そこに留まることになります。




わたしが 今まで、生きてきて感じることがあります。


それは

勇気がなくて、決断できなくてそこに留まる場合

それは、岐路ではなかった といえることです。




どういうことかと言うと

実際に 岐路だと感じていたとしても 決めれないのは、岐路ではない、時期じゃない ということです。



逆に 岐路でないのに、決断してしまう場合もあります。
早合点してしまうのですね。



早合点すると 取り返しのつかないことにもなりかねしませんので
ここは やはり、早合点せずに 落ち着いて決断する時期を待たなくてはいけません。



想いでは、GOサインが出ているのに 先に進まないのは、時期じゃないからです。




決断する時期というのは 誰にでも訪れます。



それまで ゆったりと、感情と戯れているのも楽しいものです。




一時の感情に流され、翻弄されて決断してしまうよりも
感情を味わい尽くせば、否が応でも 決断せざるを得なくなるものだから とことんまで 味わうことが楽しいのかもしれないですね。



出てくる感情を追いやろうとせず 味わい尽くすこと。。。




人は そんなことがしたいのかなあ と思いました。




自分に自信がないの〜 って

寂しいの〜

悲しいの〜

辛いの〜


そんな感情を味わってみたいのかもしれません。

自分勝手で甘えたがりなのは、受け入れてくれる存在がいることをわかっている証拠♪



だから、人は安心感を得ると 甘えっこになるってことです。



逆に、甘えることを極度に否定される方もいらっしゃいます。


それは 自分が常に頼られる存在として生きてきた場合や頼る人がいないと一匹狼で生きてきた人たちです。


どちらも 寂しい、甘える先がない、頼る先がない人たちです。




寂しいと訴えても、誰にも相手にされなかった寂しさからなるようです。


だから 心を閉ざしてしまうのです。


そして 同じ、寂しさを共有できる人としか交流できなくなるのです。


だけど そこでも 甘えることはできません。


互いが まちまちで意地を張り合っています。



そんな仲間が集まるコミニュティも存在します。



寂しいと言えずに、集う仲間と
寂しさも楽しさも感じあえる仲間 に分かれています。






人が甘えてきたり、自分勝手な主張をしてくるのは あなたを信頼しているサインなのです。


だけど 甘えることは良くない!自分勝手は許せない!という想いがあると それを受け入れられないのです。


だけど、甘えられるということは、信頼されている証拠なのです。




人から頼られたら、あなたは信頼されているんだ と自分を認めてくださいね。


また、人に頼りたいあなたは、信じる先があることを潜在意識的にわかっているということですよ。



信じる先がわかっている人と信頼をされている人

どちらも幸せなことですね。

人を許す時には、サラッと恩着せがましくなく。。。です。



恩着せがましい人います。



許してやったのよ!
感謝しなさい!



これでは 許したことには、なりません。

力を誇示しているだけです。




わたしは 逆の立場になるときには 非常に気を使っていました。


相手がヘコヘコしてくるからです。


わたしは上から目線な話しはしますが いたって対等に話をします。


そのヘコヘコ態度を見ると、悪いことをしているような気分になっていました。


どうして、普通にしてくれないの?って思ってしまいます。


でも 人は、わたしがさも威張りたいから許してくれているんだ という目で見てきて、それを態度に表します。


ヘコヘコしていれば、わたしの気分がいいのだろうと 思い違いをするのです。


そういうのって、疲れます。



よそには、威張りたい人がたくさんいるから わたしもそうかと思われていたみたいです。。。



でも それって わたしに『恩着せがましいのは良くない』『感謝をされたい』という観念があったからです。


その観念を手放すと


周りの人がわたしをそのように見てこなくなります。


あっさりと、ありがと〜♪と言われるようになり、気分がいいものです。


自分の観念のあるなしで周りの人が変わります。

でも そこで どうしてあの人が変わっちゃったの?と 思い出してしまうと、またまた 観念が戻ってきてしまうので 要注意です。



相手が変わったのは、自分の思い込みが外れたからだ!と 気付けると前に進みます。


感謝をされたい方は、相手からあっさりとありがと〜と言われると、もの足りなく感じるようです。


すると せっかく外した観念も戻ってきてしまいます〜



わたしは そこら辺はつけたり外したりして学んできました。




感謝の観念って奥が深いです。

わたしは 毎瞬毎瞬、許すという選択をしています。


何を観ても、どこに居ても、変わらず 許すという選択をしています。



最初は 心がざわついたり、嫌がったり、もがきますが

だけど、馴れてくると

自然に、できるようになります。



許すって諦めることではないの。


ちゃんと、対象となるものに対等になって、意識を向けるのです。


すると、自然に 身体の中から見えない手が出てきて 対象物を抱きしめます。



それが 受け入れる、許す、愛することなんだと思います。


心が温かくなって、なんとも言えない想いに満たされます。



ひとりでに、ありがたいなあ って言葉が溢れてきます。



今、生かされて ありがたいなあと毎瞬毎瞬、感じて 許す選択をしています。

人を許すこと、受け入れることが大切と言われますが


それもそうですが


赦される人、受け入れられる人になる


ことも必要です。



自分だけ勝手に、または 見当違いに人を受け入れていたところで 人からは受け入れられません。




人から受け入れてもらおうとする謙虚さが必要です。




自分は 人を許しているからいいんだ!
受け入れているからいいんだ!

というのは、自分勝手な振る舞いです。




本当に

受け入れるということは


人から 赦される人になるということです。





本当に 自分が受け入れると
相手から赦されます。




それが


自分の思い描いたことが現象化する


の、最たるものです。




だから、目の前の相手が鏡として映るのです。



相手が変われば、自分の内側が変わった証拠です。



自分だけ受け入れたつもりでは、相手は変わりませんよ。

受け入れることは許すこと と書きました。


もっと 詳しく書いてみると



相手を受け入れるには


まず、
自分が心を開くこと。


自分の腹を見せること。


偽らない自分を見せること。


そのままの自分をさらけ出すこと。


格好つけないこと。



それが できて、初めて まずは、そのままの相手を見ることができるのです。

そして、
見ることができてからようやく、受け入れることができるようになってきます。



相手を受け入れる。

相手を認める。





まずは、自分からです。

以前のわたしは



何物かに憑依されたり攻撃されたりすると


逃げたり、怒ったりしていました。


それを過ぎると、気にならなくなりました。


そこで 終わりかな?と思っていましたが


次は


憑依されても攻撃されても


許せるようになりました。



受け入れる=気にならなくなる

だと思っていましたが、違うのですね。



受け入れることは許すこと。




体験しながら進んでいます。

そこまでの意志の強さがあるなら許せばいいのに。。。


と 思うことがある。


意志が強いだけでは、本当の強さとは言えないのだな、と思う。


本当の強さは、


許す、赦す


これが出来てこそなんだと思う。。。




わたしは、あまり『許し、赦す』という言葉を使わない。

その代わりに

『謙虚さ』

を 使います。



相手を許すということは、相手に謙虚になるということだから。。。


相手を許すということは、相手からの学びを受け取るということだから。。。




許さない、絶対に許さない!という意思の強さが本当の強さではないんだよ。


本当の強さは

『許すこと、赦すこと。。。』



自分も相手も受け入れるということなんだよ。




相手を許せたら、ありがとうと頭が下がるよね。


相手を許せたら、ありがとうと抱きしめれるよね。



結局、許すって抱きしめるってことなんだ。


だから ケンカしたら、黙って ぎゅって抱きしめたら それでチャラなんだよ〜♪



幸せ〜♪ハグハグ〜♪

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