この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 見守る

72c6231b.jpg自分は元々、神なんだ と実感できる人はなかなかいないのかもしれない。


実感できるようになると、『感謝』の本当の意味がわかると思う。




わたしは 『感謝』の意味をなるべく詳しく伝えているつもりだけど、全部も伝えられていない。





人は元々は神なんだ。


だけど、神のまま、地球にはいられないから 肉体を纏った。


肉体を纏った時点で神ではなくなった。


肉体を纏ったから、神という自分自身を肉体で表現しなければいけないんだ。


自分自身の魂は『感謝』という神なんだ。



だから

『ありがとう』と言うのは、自分を名乗っているようなもの。


相手に心を開いているということ。




だから、〇〇〇だから『ありがとう』と伝えたほうがいいね。



ただの『ありがとう』だけじゃ伝わらない。




〇〇〇だから『ありがとう』と伝えるんだよ。



わたしたちは

元々は神であり、感謝の塊だから


自分を肉体を使って伝えるんだ。




今の世の中、何のために個人主義になっているかと言ったら、自分に集中して生きるためだと思います。 


人は孤独でないと、自分自身を見つめられないものです。 




静けさに身を置くことで、自分を見つめることができるのです。 



自分自らが静けさに身を置くことができないから、天が采配してくださるのです。 




有り難いなあと感じます。 



静寂があるから、人は成長できるのです。 




人はいつまでも成長したいものなのです。 





☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 


これを原発に例えてみると、原発反対を叫ぶのではなくて 違う方法を考えることなのです。 


なぜなら、反対を叫べば叫ぶほど、そこに力を与えてしまうものだからです。 だから あえて離れる。


原発を孤独にさせることで、力を失います。 


今まで愛を基に動いていなかったものは孤独になることで力を失なうのです。 


人も同じで孤独になることで愛でないものは力を失い、愛だけでしか生きていけなくなるのです。 


静けさに身を置くことで、人でも物でも町でも成長していけるものなのです。


天の采配で成長する勇気を与えられます。


天の采配を信じて生きていきましょう。 


愛があれば、そこに残るものです。



なぜなら、愛は在るからです。 



見えなかっただけで、愛は在るのです。


愛は在るのです。




見守る愛と勇気を与える愛


人間という外側の奥には、全知全能という魂部分が控えているから 


『怖れるものは何もない。 出来ないことは何一つない。』 

と、思えるのですが 


この想いって、完全ではなくて、
できないことは何一つない。。。という想いは、 

『すべてを受け入れます』という意味でもあるのです。


だけどね 
すべてを受け入れることができるから、全知全能なわけではなくて 
引き受けない強さもないと全知全能ではないのです。 



『すべてを受け入れる』って女性性で 『引き受けない』のは男性性なのです。 



『すべてを受け入れる』想いと 『引き受けない』想いの奥にあるのは、 

『すべてを受け入れるから引き受けない』という想いで 

『全知全能』というのは、『すべてを受け入れるから引き受けない』という意味なのですね。



『すべてを受け入れるから引き受けない』 


だから、 


見守れるし、待てるのです。 



見守る愛です。 


見守る愛って全知全能という意味なのです。 


これが女性性と男性性の統合されている状態です。 

そして、エネルギーとして発現されてる時には、勇気を与える愛になります。 


見守る愛と勇気を与える愛はセットなのです。 





わたしは ブログでいろいろとキツい内容の記事も書いていますが

わたしがどこにメスを入れるか というと


『自分に嘘をつかない』

これだけなのです。


自分を軽んじることをしている人や事には、非常に敏感に反応します。



その人の魂の痛みを感じるからです。


でも、それだけなんですよ。



あとは、ゆるいですし、甘いです。



自分の魂に素直に生きていること、それだけです。



嘘つきは泥棒の始まりって言いますよね?



相手にも自分にも嘘ついちゃいけないのよ。


それに、約束は守るの。



自分にした約束も守るのよ。




魂は泣くから。。。


泣いて、泣いて、うずくまってしまう。。。



わたしは、それを視ていられない。


辛くなる。。。



わたしはあなたの魂と永遠の友達だから。。。


宇宙からのお友達なの。


魂の自由意思


魂の自由意思というのはね

魂がどんな選択をしても自由なんだ ってことなんです。


魂が!です。

肉体が!ではないのです。


魂が泣いてるのに、手を出さない友達がどこにいますか?



肉体が右往左往しているときに、魂が応援している時には わたしも一緒に応援します。


肉体が悩んでいる時に魂が喜んでいるときもあります。
そんなときはわたしも一緒に喜びます。



わたしはいつも魂に添います。

見守る人の辛さって感じたことがあるだろうか?


手を差し伸べたい。。。

だけど、それをしたら 目の前の人のためにならない。


だから、あえて 手は出さない。




そういう人にわたしたちは支えられている。




厳しいことを言う人の辛さ。


恨まれてもいい、憎まれてもいい。


目の前の人が自分の力で幸せを感じられるようになってくれれば、それが 喜びになる。




そうやって、育てられた。


わたしも繋いでいきたい。

そこに意識が向いてしまうと、戻るのは なかなか難しい。



気がつくまで、そこに居続ける。




ほんと、良いも悪いもない世界だと思う。



どこかに偏ってしまうと、バランスを崩す。


だから、中心に居ることが大切。



気にならないというのは、宙に浮いているということ。



中心に居ると、自由自在に意識が向けるし、見守ることもできる。

見守るということ
『見守る』 

って 何もしないわけじゃないんですよ。 



見守るって 


すぐに、手を繋げる位置にいるということでもあります。 


いつも 目を凝らして見ています。 


目をそらさず、見ているのです。 


ぼけっと 見ていることではないのです。 



注意深く、目を凝らして
いつも、手を繋げる位置に いるということです。 

だから 安心して、見守っていられるのです。 


決して、離れたところにいるわけではないのです。 



わたしは、いつも そうやって暮らしています。 



神様は、


あれしちゃダメとかこれしたら不幸になるとか言いません。


じっと 見ているだけです。



たとえ カルマの法則が働くことが出てきても、ダメとは言いません。



それは

それごと 引き受ける土台があるからです。




見守るということは すなわち そういうこと。




あれこれ 文句を言うのは 引き受ける覚悟がないからです。




親が 子供にガミガミ言うのは、引き受ける覚悟がないから ガミガミ言うのです。



子供のせいにしないことです。

今までのわたしは 人間である限り 見守る愛は実践できないわ と思っていました。




でも でも、自分の器が大きくなると
見守ることができるのです。



わたしに繋がっている子供達は、わたしの愛で光り輝いていくのがわかるから。。。



だから

手出し口出ししなくても、見ていられます。



地球って、神様って こんな想いで見守ってくれているんですね。



ありがたいことです。


このわたしの中に居るままのまま さんという存在はとても立派な方だと思う。(自分のことなのに、変f^_^;) 


自分に厳しくて それでいて他者にはそれを求めず、優しくて慈愛に溢れていて、とても親切なの。 
人が何か困っていたら率先して手伝い、重い荷物も軽々と抱えるの。 


何年か前、何回かの悟りの時に体験した『怖れるものは何もない。出来ないことは何ひとつ、ない。』という存在がそうだったんだ、、、と納得。 


とてつもなく大きくて安心できて、委ねられる存在。 



それがままのまま さんであり、わたしが目指すところなのだと思う。 



今のわたしでも、人から慕われるし安心できるし頼れる存在だと言ってもらえるけど 比じゃない。 

それでいて 女子力も高い。 


まるで、うる星やつらのラムちゃんみたいな存在。 



比じゃない。



たまに、そんなままのまま さんがうっかり顔を出す時がある。 


おちゃめでかわいい♪ 

2016年には、こうやって書いたけど わたしは、この神の愛を目指して修行をしていくのでしょう。





『人の愛』 この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま
URL:
http://mamanomama777.m.blog.jp/article/50837019?guid=ON


人の愛
2016.03.01

人間という外側の奥には、全知全能という魂部分が控えているから 


『怖れるものは何もない。 
出来ないことは何一つない。』 

と、思えるのですが 


この想いって、完全ではないのです。 



できないことは何一つない。。。という想いは、 

『すべてを受け入れます』 
という意味でもあるのです。


だけどね 


すべてを受け入れることができるから、全知全能なわけではなくて 

引き受けない強さもないと全知全能ではないのです。 



『すべてを受け入れる』って女性性で 

『引き受けない』のは男性性 

なのです。 



『すべてを受け入れる』想いと 
『引き受けない』想いの奥にあるのは、 

『すべてを受け入れるから引き受けない』という想いで 

『全知全能』というのは、『すべてを受け入れるから引き受けない』という意味なのですね。



『すべてを受け入れるから引き受けない』 


だから、 


見守れるし、待てるのです。 



見守る愛です。 


見守る愛って全知全能という意味なのです。 





見守る愛って 


継続して、相手を信じて待つことができる。


これが 神様の愛なのですね。 


人間の愛ではないのです。 



だから、 


この見守る愛を目指そうということは、もう 肉体を脱がないとできないことじゃないのかなあなんて わたしは思っています。 


いくら わたしの魂が神様だとしても 
肉体を着ている限りは、神にはなり得ないから。 



だから、 


人間においては


この『見守る愛』はできないけど 


ギリギリまで待つ。 

そして、いざというときは引き上げる。受け入れる。 



これが 

人の愛だとわたしは思うのです。 



人は肉体を持つから、最終的には 腕で抱きしめるし足で駆けつけるのだと思います。 



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