この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 見守る


わたしは自己主張が強いせいか、お世話になった人に後ろ足で砂をかけるようなことをして、恥をかくことをたくさんしてきたんだ。 


みんな、黙っている。 


気づくまで待ってるのか知らないけど、教えてくれなかったよ。 


教えてくれなかったから幾度となく繰り返した。  


わたしは教えてもらいたかったんだ。 


その時、恥をかいても教えてもらいたかった。 



後々になって気づいたわけだけど 気づくまで待っていてくれたのか笑って教えてくれなかったのかはわからない。 


だから わたしはその場で指摘して教えるんだ。 



わたしに公衆の面前で恥をかかされた、と言われる方はけっこういると思う。 


だけど それだから、気づけるんだ。 


恥をかくから気づける。 

恥をかかなかったら繰り返す。 


教える行為は相手の学びを取る行為だと言う人もいるけれど、わたしはそうは思わない。 


教えなきゃできないことってあるし、その発想がわかないこともあるしね。 




また 先記事で書いたことに関連することで 

周りの家族から、わたしがこれをしてやった 俺がこうこうしてやったとよく聞いて育つと 同じように感謝の押し売りをしてしまうと言われた。 

わたしは、その逆の家族を反面教師として生きてきました。  


それって 相手をバカにすることですよね? 


でも 教えることは相手をバカにすることなのか? 

違うと思う。 


教えないことのほうが相手をバカにすることだと思う。 


相手を見守ると言いながら、心ではバカにしているかもしれない。 




おもいやりってなんだろう。 


相手を想うってなんだろう。 



相手の成長を望むなら早く教えることのほうが相手のためになることではないのかな? 


見守るって ボケっと突っ立って見てることではないんだ。 


いつでも 手を差しのべることのできる位置にいて、目を離さずに見ていることなんだ。 


だから、わたしは 見守る一環で、教えるんだ。 

直接、教えるんだ。 



気づくまで辛抱強く待つことも大切かもしれないけれど 教えなきゃわからないこともある。 


一度、教えたら それからは、手は出さない。 


待つ。 


辛抱強く待つ。 



大切な人だから、大切にしたいのです。



わたしは 常日頃から、「素直になれば自分から発せられる言葉が変わる」と言っているため 素直になること を推奨しています。


心にもない言葉を使っても意味がないと思うからです。



心から感謝の気持ちがわけば、それに応じた感謝の気持ちが込められた言葉が発せられるし 心が詫びる気持ちがあれば 謝罪の言葉に気持ちが乗せられるからです。




わたしは その時々に応じて適切な言葉が スルスルと発せられます。


そんなわたしは、よくクレーム処理もさせられますし 言いにくいことを伝えることもさせられます。


わたしは、心底 感じているから謝罪の言葉なり感謝の言葉が出るのですが わからない人から見ると、わたしは心にもない嘘 が出てくるように思われる方もいらっしゃいます。



わたしは相手の本心がわかるから、心から素直になることを推奨しているのですが わからない人からしたら心がこもっていようがなかろうが関係ないようで わたしのそれをテクニックと思われるようです。


だから こんなときはどう話をしたら良いの?と聞かれたら テクニックとして教えることもあります。


その場しのぎのテクニック。


わたしとしては不本意です。


そのため 何故、その言葉を使うかということも教えますが 人は聞いていません。


テクニックだけ欲しいのです。


学ばない。 だから、繰り返します。



わたしのそばにいても 学ばない人もいらっしゃいますよ。



それでも わたしは教えますし、いいように使われます。


それが見守る姿勢だと思っています。




また 霊の宿った言葉を使う「言霊」というものもありますね。


そんな言霊も思い立ったように使ったり 使ったり使わなかったりでは、意味ないことです。



日常的に 使いこなしてこそですね。


書くのは容易いのです。
日々の生活に使いこなすことで 心が変わるのです。

見守る愛というのは、きちんと育てて自立させてからでないと その資格は得られないのだと思う。

だって、そうでないと 無関心とも受け取れられないから。


無関心と見守るの違いをハッキリ身体でわかっていないとできないことだと思います。


手元にグッと引き寄せて抱きしめて育てる、その後に自立をはたしていくのです。


しっかり自立をさせた者でないと見守るという心の葛藤は受け入れられないと思います。


成長を願うということの素晴らしさを体感させていただいています。


ありがとうございます。

見守るというのは、手を出さずに見守り、だけど 一瞬たりとも目を離さないことだと思います。


娘が社会人となり自立をしたので、見守る愛の実践をしています。


思ったよりもキツいです。

手を出した方が早いです。

だけど 手を出さずに、信頼して見守ります。


自分で気づいて行動してくれることを信じて見守ります。



神様の気持ちがわかりますね〜

わからなかったら 長老に聞けば 何でも答えてくれます。

取捨選択をしてから教えてくれます。

だから 余計なことは考えなくてもよいのです。

考えが足りない者が10人いても 長老ひとりには敵いません。

取捨選択技術があるからです。

わたしは 困った時は何でも聞きなさい と言っています。

スピリチュアルなこと以外でも何でもです。

昨日 人と何気に話をしていたら、 先週、その人の腕が急に動かなくなり精密検査を受けたけど 原因不明で リハビリをしている
と言われました。

わたしからしたら

へ?何で、わたしに電話をしてこないの?

ちょっと ヒーリングしたら治った^^

わたしからしたら、水くさいなあ〜 って思います。

その人からしたら

まさか、思い付かなかった
ということらしいですが

わざわざ 病院に行く手間、診療代を使わなくても

わたしに電話してきたら、スタコラサッサと わたしは動きます。

わたしが出向きます。

わかんないのかな?

わかんないんですね〜

人から そこまで親切にされたことがないから。 

わたしを知ると、人は人の温かみを知るようです。

人類最強の母親だ!と言われても
覚悟が。。。と恐れられても

わたしは動きます。

出向きます。

便利なんですよ〜

見守るって 何も口を出さないことじゃない。


見守るって ただ見ているだけではない。



すぐに 手を差し伸べられる場所にいて 注意深く、集中して 見続けていることなんだ。



あなたから目が離せない。



それが わたしの愛し方♪

今のわたしは、苦しみの渦中に居る人を見守る立場です。



渦中に居る人も苦しいけど、見守るのも苦しいです。



わたしが采配をふるうこともあるからです。



これからの未来を見据えて、また 魂の意思を感じて 采配をふるいます。





これからの時代は
魂の生きたいように生きる時代になっていくのですね。




自我があればあるほど 苦しみます。



楽になるには、
握りしめている手をゆるめることです。


抵抗しないことです。


抵抗するから苦しいのです。


握りしめている手をゆるめて、身を委ねてください。


委ねていただけたなら、わたしの想いで包みます。



案ずることはありません。



委ねてください。。。





自ら、手放そうとしなくてもよいのです。


委ねてください。


委ねるだけでよいのです。

無償の愛とは…

他者の意思を最優先に考えながらも、自立できるように 導く最善の方法を 常に考え 実行していくことです。


気をつけなければいけないことがあります。

それは

1 相手の自由意志を損なわないように気をつけること(宇宙の約束事のひとつとして 相手の自由意志を損害しないようにというルールがあります)

2 過剰な奉仕にならないように 相手が自立できるようになることを最善に考えること

3 時には厳しく、他者を傷付けないように警告だけをしてあげて ただ 見守ってあげることが大切な場合が多いです。

4 同情などの感情は持たないようにする。

5 自己犠牲の精神を捨てる。

6 他者への奉仕をすることで 自己満足に陥らないこと。


無償の愛とは 他者へ 奉仕することを 常に 自己の喜びとして実行することです。



内観、浄化をしていくと 周波数が上がり 意識レベルが上がってくると 自分の内側から 無償の愛が沸き上がってきます。

そんな人のために 参考になればと 記しました。

本当の愛、究極の愛とは、どのようなものだとお感じになられますでしょうか?


私は「見守る愛ほど大きな愛はない」と表現します。

見守る愛は、その魂を信じているから実際に関わり合うということではなく、周りから温かく見守るという行動に出るため、関わりを求める愛を求めるものにとっては寂しく感じることがあります。

しかし、夫婦として関わり合いたい、過ごしたい、日々生活したいという想いはごく一般的だと思われます。

これは、この地球上の社会の仕組みの多くが男性、女性という枠を基本にして構成されているところが大きいように思います。

そのため、私達はごく自然に男性を男性という枠で捉え、女性を女性という枠で捉えやすいということが言えやすいのではないのかとも感じています。

それは、一つの肉体的違いによる見分け方に過ぎず、大切なことは肉体を脱ぎ去った状態である魂の視点から「存在を見る」こと
それは、一つの肉体的違いによる見分け方に過ぎず、大切なことは肉体を脱ぎ去った状態である魂の視点から「存在を見る」ことではないかと思いました。


特に、真理を歩む方ほど、家族やパートナーに求めやすい愛があります。

心から分かり合いたいと、いう想いです。


では、その心とはどの部分を指しているのでしょうか?

自我の部分でしょうか?
それとも、もっと深い部分でしょうか?


自身がどの部分から分かり合いたいと望んでいるのか?
その根元を見つめていくことがとても重要です。

私の場合、自我の部分からの想いでありました。

真実の愛とは「魂と魂同士の関わり合い方」だと感じております。

つまり、肉体的特徴というのは、その魂が経験したいことを実現するための一つの選択肢、表現方法に過ぎないということであります。

その一部分にこだわってしまうと、本質が見えてこない場合があります。


勿論、男性、女性という枠組みで物事をみる視点も大切で、私はそれを認めて、受け入れています。

ですが、もし本質を魂の視点をと求めておられるなら、ご家族、パートナーをすべての枠、フィルターを脱いで、魂の視点から見る必要があるように感じています。

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