この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 共存


毎日のメールアドバイス内の日記で、

家族とドライブされた途中、息子さんが車から、高速道路で車に轢かれて動けないキジを目にしてしまい、落ち込んで泣いてしまうということがあったそうです。 

多感な10代前半の男の子です。

息子さんの気持ちが落ち着くまでは、体をさすりながら一緒に居て、落ち着いてからは、パパが色々話して、彼女も聞いていたが、どんな命も尊いんだ、と言っていた。 



と書いてありました。 



どんな命も尊いものです。 
だから 神は一寸の狂いもなく動かれます。 



それだけ観ていると悲しくなるのは当たり前ですね。 

だけど その光景をよく目を凝らして観てみることによって 普段は見えないものが見えてくるから不思議です。 



その近くには、お腹をすかせた子供を抱えた動物がいたのです。。。 


命を繋げることって、こういうことなんだなあと思います。 


だから、それを上から観ていたキジが身を捧げたのですね。 


自らの命を捧げることにより、命を繋げることが出来た。


命のサイクルです。

種を絶やさないように神の元で行われています。 


命の尊さを感じました。 






ピュアなアルさんの話で思い出したのだけれど、以前、天麻那舞のお席で麻の気持ちを話したことありました。 




麻もアルさんと同じなの。 




敬意を持って接しないと、心を開いてはくれません。 


敬意を表さない人には見向きもしないし、あまりにしつこいと毒を盛り、沙汰します。 


扱いが悪いと毒を盛るのです。 


でも 一度、相手を受け入れると、ごろにゃん、全面降伏して明け渡します。 


そのような性質を持つのです。 



だから、扱いが難しいのです。 




そのため 麻を利用しようと目論んでいる人は、逮捕されたりあるはずです。 

怖がって手を出してこない人には危害を加えません。 


しかし 関わろうとしてくる人には、最初は警戒心して合わせますが、心に少しの墨がついているのがわかるや否やそれ以上は触らせません。


利用されるのがわかるからです。


医療用大麻をと聞かれますが、よほど礼を尽くさないと出回らないのは、そのような理由からです。 


よほど丁重に扱わないと沙汰されるでしょう。 



マコモダケも同様です。


気づかれない方もいらっしゃると思いますが、マコモダケは痺れが起きる作用があります。 


以前、いただいて食した時、一口いただいて、全身に痺れが走りました。わたしはそれだけ敏感です。 


痺れがあるから悪いということでなく、注意して、扱わなきゃいけないよ、ということです。 

また、依存作用もありますね。


その後、わたしはマコモダケさんに敬意を表して 皮を乾燥させて、編み編みさせていただきました^^ 




そのように、強い毒性を持ったものは依存性や常習性が高いということです。 


そのようなものには安易に手を出さないが無難です。



その毒性故惹き付けられ依存してしまうのでしょうね。。。 



だけど その実、アルさん含め麻やマコモダケさんは、仲良くしたい♪気持ちしかありません。 


己れの毒性を省みず、関わりたいのです。 


関わって扱いが悪いと毒を吐く。。。 



これが、麻を麻薬たらしめた理由です。 


麻も悪いとこあるのです。 


ホイホイと人間に擦り寄っていくから始末が悪いのです。 


毒を吐いて脅したら怖がるに決まってる。 


人間なのだから。 


だから、神格化されたのでしょうね。 


おいそれと近づけないようにしたのです。 




これについて、わたしは麻のほうが悪いと思ってます。 


己れに毒がある自覚がないから。 




でも まあ、これからは、自然と人とが共存していく時代ですので、その間に入ってわたくしが互いを教育しながら、共存させていきたいと考えています。 


そして、麻やマコモさんには依存性や常習性があるので、そこも改良せねばならないです。 



自然と人とが共存していくためには、互いに、依存させないことが大切なのです。



自然と共存して生きてくのはワクワクうきうきすることばかりじゃないよ、ってことを書いてます。 


何事も、相手の立場を思いやること、配慮すること、わきまえることが必要ですね。 



と これを書いてるのは、ままのままさんです。 


依存性あるアルさんをうまく采配ふるっているままのままさんです。 





自分の個性を大切に。 


ワガママでもいい。 


個性を認めあって生きていく。 




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 

自分の個性って何ですか? 

自分の個性を認め合うってどんなことですか? 



自分の欲望を自分の個性と勘違いしていませんか? 



内観浄化をして感情をはがしていくと、個性が見えてくるものです。


それは、魂の目的と直結しているもので、地球上で生きるための役割とも言えるもの。 




魂の役割を互いに理解し合って共存共栄していくという意味で、『個性を認め合いましょう』という言葉を使います。 



言葉を正しく理解して、正しく使いましょう。 



 いつも他人の目を気にしてしまう
 人に気を遣い過ぎて、疲れてしまう
 パートナーの関心をずっと保ち続けたい
 上司や同僚の前で有能だと思われたい
 友人に一目置かれたい、面白い人だと思われたい

当てはまった方は、無理をして仮面をかぶり、「いい人」を演じているかもしれません。

無理に演技をし続けると窒息しそうになったり、あまりに重たい仮面をかぶっていると首が痛く、肩がコリ、疲れ果ててしたりしてしまいます。

他人からどう思われているかをまったく気にせずに生きていくことは不可能ですし、他人の目に自分がよく映ることも確かに必要なときもあります。

しかし…。
もし、あなたが
「他人の目に映った自分=自己評価」
と思っているとしたら、とても危険なことです。

なぜなら他人から悪く評価されたなら、自分は価値のない人間だと思い、立ち直れなくなってしまうからです。
そもそも、他人は適正な評価をしているのか、というよりも、適性な評価などできるのでしょうか。



と、ここまでは FBの記事から引用させていただいています。 


この「いい人」を演じている人たちって厄介です。 

自分でわかっていればいいですが、わかっていない人は これが良いことと判断して そうじゃない人を廃除してきます。 


世間体重視の人は自分らしく生きてる人を目の敵にする傾向があります。 

防御が大変。 



毎日、日記を書くことで 自分の位置を知ることができるけど 今のわたしは、日記を書かなきゃ動けないようになってます。 

日記=内観 


内観することによってやっと動けるようになります。 


なぜ そんなにも動けないかといったら 世間体重視の人からのサイキックアタックを受けるからです。 



ここのところ、あまりに動けないので参っています。 


自分らしく生きるということは このように、ターゲットにされてしまうこともあるのです。 



しかし この自分らしく、というのは曲者で、自分らしくというのは、他人の目をまったく気にしないで自由すぎることではないからです。 


そこをわかっていないのが現状で、世間体重視で生きていた状態から自分らしく生きるようにと振り幅大きくシフトチェンジすると、単なる迷惑な人になります。 


だから 自称自分らしく生きてる人は嫌われてしまうのです。


自分らしく、って人に迷惑をかけても良いことにはならないのです。 



そのため 最近は、自称自分らしく生きてる人に対しての警告をさせていただいています。 


世間体重視で生きる人を導いていく役目もあり自称自分らしく生きてる人に対して警告する役目もあります。 



間に入ってる立場としましては どちらの気持ちもわかるので、折り合いが大切です。 


だから わたしは誰かの味方にはならないのです。。。





苦しいときに支えてくれる人や物がその人にとって大切にしたいものなんだと思う。 


支え。 


自分は何に支えられて生きているか誰に支えられて生きているかは人それぞれ違っていて それは、もしかしたら世間からは認められないものかもしれないけれど それでもそれは、その人の真実なのだから そこを認めあって生きていけたらいいと思うんだ。  


自分にとっての真実さえあればいいんだと思う。 

その真実が信じられないと、お試しが降ってくるのだと思う。 


自分にとっての真実。 


自分にとっての真実は、人から認められなきゃいけないようなものでもなくて ただ、自分さえわかっていれば良いのだと思うんだ。 



世間では、今 世間体重視で生きるている人がだんだん自分を取り戻していきつつあるのだけど その過程において、世間体重視で生きる人を否定したりしてる。 


自分だって 以前は、世間体重視で生きていた過去があるのだから 否定することでもない。 


だけど 自分を取り戻しつつある人は、否定することによって 過去の自分から飛び出そうとしている。 


否定することはないんだよ、と言いたい。 


波動が合わなくなって出会わなくなった人も 過去には仲良しだった時があるのだから。 



また、今わたしは、すべてにおいて 人との繋がりの中で生かされていると感じます。 


人と自分との折り合いをつけること。


儘ならないことがあっても、そんなときには誰か助けてくれる人が現れる。 


一対一の交流は難しくても、誰か中間に入ってくれる人がいてくれる。 


特別に支えられなくても、人との交流の中で 助け舟を出してくれる人が現れるね。 



ツインというワードに惹かれている人の中には、特別な支えを求めてしまう傾向があって そんな身近な助け舟をスルーしてしまうこともあるかもしれません。 


ツインがいる人もそうじゃない人も みんな、人との繋がりの中で生きているんだということを実感するために生かされているんじゃないのかなあ〜 

自分にとっての特別な人がいたとしても二人だけで生きてはいけないのだから、人との繋がりを大切にしていきたいと思います。



基本的なことはわかるのに、言われたことしかできない人がいる。


応用力がないというか知恵がない。



それは、今まで人を頼ってばかりいて、自分の頭で考えていないからだ。


自分が乗り越えていきたいことならば、自分が考えなきゃ。


自分の人生に責任を持つってそういうことじゃないかな?




心の中に、「人に依存したい。自立したくない。」という想いがある人は それが現実に反映していて、その願い(想い)は叶えられています。


そして、依存心の強い人は、依存できる環境にいるにも関わらず感謝もなく当たり前にしてるため、不満ばかりを感じます。



魂的には、依存していたくないから不満を感じるのですが 潜在意識では依存したいのです。


だから、依存する現実を作り出しています。



魂的には、依存していたくないのです。


それならば、依存しない!と腹を括ることです。

依存できる環境にいるにも関わらず感謝もなく当たり前にしてるのは、その環境にいたくないからなんですね。


だったら、腹を括って 自己責任で生きればよいのです。


自己責任で生きるためには、自分の頭で考えて実践することです。


人に頼らず、自分で考えて実践するのです。



結局は、自分の頭で考えて行動できない、と自分に自信がないから人に頼るのです。


頼ることは悪いことではないですが 何もかも言いなりになっていれば良いという考え方は違うと思います。


自分の人生なのです。


誰かが決めたレールに乗ることをするために生まれてきたわけではないと思います。


自己責任ってそういうことだと思います。

この世界はまだ、認めてもらいたい人でいっぱいなんだな。




頑張り過ぎている

止まることができない

こんな生き方しかできない


「人の役に立たないと自分は駄目な人間」という想い。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

認められたい相手に依存して生きる。


頑張ってると認められたい。


他の誰かが失敗したら、自分が認められるから嬉しい。


他の誰かが失敗すると、楽しくて仕方がない。


自分だけが認められたい。


自分だけが頼られたい。



自分がない人というのは、このように 人から認められることが楽しくて 人の失敗も楽しい。

仕事ではそこそこ出来ると言われている人たちです。


認められさえすれば、嬉しいから
人の仕事を取ってでも仕事をするし、残業も楽しい。


要は、自分自身の楽しみがない人なのです。


楽しみがないから、認められることで 自分の存在価値をそこに求めるのです。



実は、自立して生きる者からしたら迷惑な存在です。


共依存なら問題ないと思うかもしれませんが、周りとの調和を乱すから、たちが悪い。


そのため 今回の春分の日のエネルギー、自立を促すエネルギーが発信され、共依存の関係は離されていきます。




本格的にひとりひとりの自立を促されていきますね。



とは言え、それをフォローするのがわたしの役目。


またまた、わたしの役目が増えました。

誰かにすがらないと生きていけないくらいの想いを抱えている人が まだまだ、いるということですね。


だけど 依存は良くないと思っていて、寂しいのです。


誰かに支えてもらわないといけない時は確かにあります。


依存と支配と支えと、意味を取り違えている人もいらっしゃいます。



わたしからすると 精神的な自立もしていないのに、依存はダメって言うのはおかしいなあ と思います。


ちゃんと自分の足で立てるようになるまでは、支えは必要だと思います。


支配者と呼ばれる方々が支配ではなくて 支えて導いていく人になっていくのが望ましいと思いますが そのような方々も癒しが足りなくて、どうしても支配されたい方々を見つけると支配して満たそうとしますね。


どちらも癒しが足りないから起こるようですね。

わたしは、日常において 支配層の中にいて 支配層の意識を変えていく役目をしています。


だから、支配層の心理はよくわかります。

また 心理されたい側の気持ちもわかります。

わたしは、その間に挟まれて生活しているからです。



支配されたい人が支配者をつくる。

支配されたい人がいる限り、支配者はいなくならない。


これ、ホント その通りです。


支配者と呼ばれる人たちは、支配されたい人の前では支配者になりますが そうでない人の前では、善人そのものです。


支配されたい人が支配者をつくるのです。

支配されたい人が目の前の人を支配者にしたてあげるのです。


わたしは どちらかというと、支配者と呼ばれる方々と交流する方が楽で支配されたい人とは距離を置きたくなります。


支配されたい人って わたしがひとりでいると馴れ馴れしいのですが 自分が仲間といるとわたしを無視します。
それか、タメ口で寄り付いてきます。
そして、あなたが頼りなのとかあなたを信じるとかわざわざ言ってきますが、嘘です。

すぐに反旗をひるがえすのです。



基本、わたしはタメ口は受け付けません。

互いに、尊敬尊重のない関係は築けませんから。

その点、支配者と呼ばれる方々の方がきちんとしていますね。


支配されたい方々は誰彼見つけては盲信しますね。


見つけても支配してこない人に出逢えると、そこから抜け出せるようです。


まあ、信じる相手を間違えないことです。


そのためには、自分自身に繋がることでしょうね。


だから、最近では瞑想することを勧められているのですね。

支配されたい人が支配者をつくる。


支配されたい人がいる限り、支配者はいなくならない。



支配されたい人って身近にもいて、頼られるのですが 要注意です。


自分がない。

人の意見が自分の意見なのです。

うまく、導いていかないと 誰かに支配されてしまうから どうしても見張ってしまうんです。

すると 端から、わたしがその人を支配しているように見られる。


以前のわたしは そこにいちいち反応していました。


でも 最近は、思いたい人は勝手に勘違いしてれば と思うようになりました。


実際、ままのままさんに支配されている、と逃げていった人もいらっしゃいます。


そう思えたなら仕方ないと思います。


それは、反省材料にはなりました。


でも、気がつくと 戻ってくるものです。


ま、こっぴどく 他でやられると気づくのです。


支配なのか、見守ってるかが。




支配されているように思われるというリスクはあっても仕方ないです。


自分が相手を自立に導くという意思があれば、人にどう思われようと関係ないです。


気迫ですね♪


実際、支配しようとする人は力を見せつけるものかもしれません。


でも導き手との違いは、逃げた時に執拗に追いかけます。


わたしは追い掛けない。

そこは、信じます。


案の定、戻ってきます^^

このページのトップヘ