この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: ココロモチ

最近はまた朝にジョギングをしていました。
 
起きたときは、旅行の後ということもあり、体が重くだるかったのですが、走りはじめたら体が軽くなってドンドン走れました。
 
 
 
ここで、重要なことがあるのですが、
ほとんどの人は、
 
原因があって結果が起こる
 
と思っています。
 
ですがこれは、実は西洋的なものの見方でしかないのです。
 
 
 
本当は、
 
結果を決めると原因ができる、
 
という方が正しいんですね。
 
 
 
ジョギングの例でいくと、
 
体が動かないから走れない、
 
とほとんどの人は考えるのですが、そうではなく、
 
走らないから体が動かない、
 
のです。
 
つまり、
 
走れば体は動くようになる。走ると決めれば体は動くようになります。
 
 
 
東洋では昔から、
 
時間は未来から過去へ流れている、
 
と考えていたといいます。
 
 
 
ちなみにこのことは物理では正しいそうで、
 
アインシュタインはの相対性理論では、
 
時間は「-t」(=tは過去から未来への時間、つまり私たちが普通に思っている時間の流れ。なので-tは、未来から過去へと時間が流れていることをあらわす)としないと、計算の結果が合わないそうです。
 
 
 
目的の達成もこれと同じで、
 
まず「結果(=未来)」をおこなっていくことで、徐々に「手段(=今)」がついてくるのですね。
 
 
たとえば、お金持ちになる法則も、まったくこれを証明していて、
 
「お金持ちだったらどういう行動をするか」を考えて行動しろ、
 
といいます。
 
そうして、お金持ちが行動するようにしていると、あとから「お金」がついてくるのです。
 
 
 
具体的な話をしましょう。
 
たとえばサラリーマンが「お金持ちになりたい!」と思ったとしますね。
 
でも、サラリーマンをただやっていてお金持ちになれることなんてあるわけがありません。
 
 
 
ここでまず「結果」を考えます。
 
あなたが思うお金持ちは、どんなことをやっているでしょうか?
 
そこでそのときの状況ではどんなものがあり、何をやっているのか、どんな考えをもっているかを明確にします。
 
あとは、それをやっていくだけです。
 
 
 
ここで多くの人がメゲるのは、
 
なにかお金持ちがやることをやろうとしたときに、
 
「とはいっても、今お金ないじゃん!」
 
と考えることですが、これはすでに「原因」にフォーカスが向いているので、うまくいきません。
 
すぐに「原因→結果」のパラダイムに戻ってしまうからです。
 
それでは当然、できませんね。
 
 
 
また、今すぐにその「未来」の姿が明確に見えてこないときがあります。
 
でも、それはOK。曖昧な「未来」でも、「それを明確にしてかなえよう!」という意図さえもっていれば、
 
自然に「その未来では具体的に何をしているか?」を探すようになります。
 
このときの「自然に」というのが実は重要ですよ。(^^)
 
 
 
まず「未来」を決め、それを実行するためにはどうするかを明確にきめて行動する!
 
そうしていると、どんどんシンクロも起きてきますね。
 
 
こうやって書いていると、「原因と結果」「未来と過去」がよくわからなくなってくる。
 
というのは、私たちのほとんどは、「西洋的な時間」の旧パラダイムに捕らわれているからだ。
 
 
 
下では「結果→原因」「時間は未来から過去へと流れる」と書いたが、
 
おそらく実は違う。
 
というのは、おそらく未来と過去は、ある種の相互影響関係、または同じものなのだと思う。
 
 
量子の非局在性というのがあって、
 
どれだけ空間が離れていても、双子の量子は同時に変化する、という現象だけれども、
 
たぶん時間もそうなっている。(時間=空間なのだから当然といえば当然か・・・)
 
未来と今は同じものを、違うところから見つめているだけなのだ。
 
 
 
もうちょっとわかりやすくいえば、「スパイラル状」に影響しあっているのかもしれない。
 
「今」→「未来」→「(今からみるとちょっと先の)今」→未来→「今」、と。
 
このスパイラルを、ある断面でみると、時間は未来から過去のように見え、違う断面からみると、過去から未来が流れているように見えるのではないだろうか。
 
 
 
アナログ時計(針のついているやつ)を上下左右を変えてみてみると、針は左から右に動いたり、右から左に動いたり、下から上へ、上から下へ動いているように見える。
 
たぶんそれと同じ感じなのではないだろうか。
 
 
 
でもこれは、線形モデル(1次元)が2次元モデルになっただけだから、もっともっと実際は複雑なのだろう。
 
 
 
 
 
 


 
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すべては行動から生まれる。
 
 
 
とはいえ、
 
それはわかっていてもできないのが、みんなの悩みどころ。
 
それがなぜなのかを、今日は考えてみましょう。
 
 
 
多くの人がなにかをしようとするとき、
 
ついつい「構えて」しまいますね。
 
 
 
でも、
 
人は「構える」と動けなくなってしまうんです。
 
 
 
たとえば、走るために構えるとしましょう。
 
そうすると、動けなくなりますよね。
 
それを「動かす」ためには「合図」が必要なのです。
 
「バーン!」という、例のヤツですね。
 
 
 
でも、人生には大概そんなもんはありません。
 
合図なんて、だれも出してくれない。
 
だから、「構えた人」たちは固まったまま。
 
 
 
人生での合図は、
 
自分で出すものですが、
 
これを出すのが難しい。
 
 
 
というわけで、
 
「構えた人」は動けなくなってしまうのです。
 
 
 
じゃあ、どうすれば?
 
となりますが、
 
とりあえずまずテキトーにやってみりゃーいいんです。
 
 
 
「テキトー」がどうも日本では軽視されますが、
 
よく日本語的に考えれば
 
「テキトー」は「適当」。
 
「程度などが、ほどよいこと。」ですよ。
 
 
 
動けないのは、そもそも目的にかなっていませんから、論外。
 
ということは、
 
動けることが前提なら、
 
「テキトー」で動けるなら、それは「適当」ということです。
 
 
 
まずテキトーでやってみる。
 
構えずに、いい加減でやってみる。
 
 
 
これが実は、知恵なのです。
 
だから「適当」「いい加減」なのですね。
 
えへん。
 
マジメちゃんには、つらいね。 
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産まれて間もない赤ちゃんには まだ他者意識が産まれていない 泣けばだれかが自分の不安を察して それを解消してくれると信じているから お腹がすいたときや おしめを取り替えてほしいときなど その度に泣き声をあげる

他者を意識するとき 論理は自然発生的に生まれるといったが 成長し 幼稚園に通いだすころになると 早熟な子供は自然に他者を意識し始める
もちろん そこには自分の不満を知り それを解消してくれる人が絶えずそばにいるとは限らない さらに そこで出会う子供たちはお互いにその感情を理解できない他者である そうした子供たち同士がいやでもコミュニケーションをとりあわなければならないとき 子供はムイキにのうちにでも筋道を立てようとする
そのときに 論理が自然に発生するのだ

幼稚園児の論理など 幼稚なものにほかならない だが 子供が「そのおもちゃ 誰々さんが持っているよ(具体例)」「先生もいいねて言っていたよ(引用)」「だから お母さん そのおもちゃほしいんだ(因果)」などと言ったとき 確かに論理を駆使しているのである
だから 依存心が強い子供ほど感情的で 自立した子供ほど論理が発達する

一方 他者意識が希薄なとき 言葉は省略に向かっていく

初対面の人に対しては丁寧な言葉を使うが 次第に気心が知れていくと 言葉遣いはぞんざいになり どんどん省略されていく
今現代は 大人になりきれない若者 大人たちが 世の中に溢れ出している
彼等は何か不満があると「ムカツク」などの感情語を使用する
そこには他者意識も論理もない 世界がどうであろうと 真理がなんであろうと自分が「ムカツク」と言えば それは否定されるべきこととなる
「ムカツク」と言えば だれかが自分の不満を察してそれを解消してくれると心のどこかで思っているから 自分の不満を他者に向かって論理的に説明しようともしない

夢の実現とは、
 
「未来」と「過去」の書き換えです。
 
 
 
だから、
 
「夢」をもつとき、
 
それが「自分にはできそうもない」
 
ものでない場合には、
 
それは「知っている過去」
 
の延長になるので、
 
「知っている未来」
 
となってしまいます。
 
 
 
「夢」は、
 
「うわ、自分にはできそうもない・・・」
 
とおもうものでなくてはいけません。
 
 
 
ここでいう「自分」とは、
 
古いパターンや観念をもっている自分です。
 
 
 
つまり、
 
今までの過去からの延長線上に「夢」を見ようするので、
 
ムリが生じるのです。
 
当たり前といえば当たり前です。
 
 
 
「夢」は、「今の自分」から、
 
飛躍しているから「夢」になります。
 
でも、「飛躍している」と思う、ということは、
 
「今までの自分の延長線上にない未来」なのです。
 
 
 
 
基本的に「記憶」というものは、
 
「幻想」です。
 
「記憶」は、「今」からできていきます。
 
そして、「想定される未来」へと繋がっていきます。
 
 
 
人生を変えたい!
 
と思うなら、
 
「未来」を変えなければいけません。
 
そして、
 
「その未来」から、
 
「新しい過去」を作り直さないといけないのです。
 
 
 
たとえば未来を、
 
「自分が世界に名をとどろかすようなセラピストになる!」
 
とするとしましょう。
 
 
 
では、
 
その「未来」への道程として、
 
「今」と「過去」はどう読み直せるでしょうか?
 
どうあるべきでしょうか?
 
 
 
・ずっと平凡な人生を歩んできて、それがイヤになって飛び出した。そのためにその「平凡な期間」はあった。
 
・たくさんの人を助けるため、社会にいる身近な悩みをたくさん知るための時間だった。あの経験がなければ、たくさんの人を救えなかっただろう。今考えると、貴重な出会いがいっぱいあった。
 
・自分が虐待された体験がなかったら、たくさんの同じような境遇の子の微妙な気持ちを理解できなかっただろう。
 
 
なんて読み直せるかもしれません。
 
 
 
でもほとんどの人は、
 
・自分は平凡な人生を歩んできた。世界で有名になるような大きなことはできない。
 
・自分の人生には、メンターとなるような人がいなかった。貴重な出会いさえあれば・・・
 
・自分はやりたいことがいっぱいあるけれど、どうもトラウマが邪魔をして。。。
 
なんて信じ込んでしまうのです。
 
 
 
「過去」「現在」「未来」というのは、
 
「事実」ではないのですから、
 
つくりかえるのはカンタンです。
 
 
 
でも、
 
自分が「今」、「信じている過去」を、
 
無意識にもっているならば、
 
「未来」はその延長線上になってしまうのです。
 
 
 
今日はわかりにくいので、図を書いてみました。(^^)
(転載は自由ですが、画像はそのまま使ってください。)
 
 
 
 
 
 
 
 
そのために、
 
まず「今の自分にはできない夢」をつくってみてください。
 
そして、その「未来」から、「過去から今」までの体験の意味づけを変えてみてください。
 
そして、後は、
 
その未来への道で、「さらに必要な知恵や経験」をドンドン学ぶだけです。
 
 
 
決して「今と過去の延長」で「未来」を考えない。
 
これだけは忘れないでみてください。
 
自分を制限しているのは、
 
自分以外にないのですから。
 
 
 

 


 
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昔は僕もそうなりそうな時代もあったが、
 
僕の世代より少し上から、今の世代によく見られることとして、
 
「人生をあきらめる」ということがある。
 
 
 
そういう人たちには、
 
『あきらめる前に、自分は何かしたのか?』
 
と自分に聞いてみて欲しい。
 
 
 
この『人生をあきらめる』という病は、
 
なぜかとても若いときにかかる。
 
主に思春期のころだ。
 
そして、それが人生の終わりまでずうっと続くのだ。
 
 
 
今考えてみても、なぜ若いときには、
 
『人生ってくだらないな。』
 
『この世界はもうどうしようもない。』
 
とあきらめてしまうのかは、分からない。
 
 
 
何を参考にして、判断を下すのだろうか?
 
 
 
ひょっとしたらこの時期は、
 
大人からの分離とともに、
 
やはり大人というものへの『信頼』がどこかにあるのだろうか?
 
だから、『大人ができない、ということは自分もできない。』と考えるのだろうか?
 
 
 
そういえば僕は、大人がいうことを信じない子供だった。
 
僕は、いつも自然を見つめていたから、
 
大人が『これはこうである。』といっていることが、
 
どうにも自然、つまり現実に起こっていることとは合致しない、ということに気づいていた。
 
 
 
だから、僕は、同世代がどんどん人生をあきらめていく中で、
 
人生をあきらめることができなかったのかもしれない。
 
『だって、そういう風になってないでしょ!』
 
「大人」から何かをいわれても、いつもそう思っていた。
 
だから、「大人」が言っていることが「正しくない」ということを証明するために学び、
 
そして、ついには、やっぱり「人々」が信じていることは全然間違いであった、ということを自分のなかで確信した。
 
 
 
でも、多くの人は、自分の「考え」を支えてくれる支柱がないから、
 
どこかで『大人がいっていることは正しいのかもしれない・・・』
 
と思い、ついにはあきらめてしまうのかもしれない。
 
僕が、自然という「揺るぎなきモノ」をみることになったのは本当にラッキーだったのかもしれない。
 
 
 
まあ、とはいえ、
 
やはり、思春期を抜け、いわゆる「大人」になったときには、
 
あらためて自分を見つめ直すことができる。
 
 
 
親から自立した、論理的な思考をもってすれば、
 
自分がいかになにもせずに人生や「夢」をあきらめてしまったのか分かるだろう。
 
 
 
さあ、ここでもう一度自分に問いかけてみて欲しい。
 
あなたは、なにかをあきらめてしまった前に、
 
一体何を実際にやっただろう?
 
どれくらいそれについて知り、どれくらいの期間をかけて、どれくらいのことをやったのだろうか?
 
 
 
それはひょっとしたら、できるものではないのだろうか?
 
自分はただ何もせずに、ビビってしまって、または面倒で、それをやめてしまっただけではないだろうか?
 
 
 
もしそうならば、ただちに「私には○○○なんてできない。」「私に○○な才能はない」という言い訳を捨て、
 
「私は、○○をしたくなかったので、することをやめました。」
 
と言い換えるようにしよう。
 
 
 
自分に正直になって、事実を受け入れるようにすれば、人生は好転する。
 
ぜひやってみて欲しい。
 
 
 
 
 


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