この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 意識


今日は、毎日の生活で、潜在意識にあるブロックや、思いこみ(思考パターン)に気づく簡単な方法を書きたいと思います。

潜在意識は、“自分が信じたいように”、“心で思った通り”に、それはそれは恐ろしいほど忠実に現実化しています。

不安の元から修正しない限り、いつまでも繰り返されていきます。
潜在意識に入れてしまった、不安の元(ブロック)をクリアにして、修正するワークは幾つかありますが、日常でできることをまずは実践していただけたらと思います。

一番わかりやすいのは、「怒り」の感情がでてきた時。
(イライラする。ムカつく。嫌い。許せないなど。)
人間にとって無意識と意識を結ぶ要素が感情です。
意識的に感情を通して無意識のレベルでの思い込みや観念を理解していくことができます。
感情は無意識や深いレベルの真実を気づかせてくれます。
日々の生活の中で自分が反応した時、自分は何をどう感じたかを見ます。

例えば、「あの人は自分勝手でわがまま」だからむかつく!
この場合、あの人のどんな言動・行動にムカついたのか?を見ていきます。

・周りの意見を無視する、人の言うことを聞かない。
・約束を守らない。
・突発的でコロコロ言うことが変わる
などなど、相手に感じたことをみると、自分の思考パターンがわかります。

〜してはいけない。〜しなければならない。という自分ルールや、
自己主張、自由な表現などの制限がみえてくると思います。

これが思考の基礎の部分になってしまい、そのまま感情を放置し続けてしまうと思考パターンとなり、嫌な人、嫌な出来事を引き寄せ続けてしまうのです。

・周りに合わせている自分
・言うことをきく自分
・約束を守らない自分
・欲した時に言えない自分

本当はこんな自分がいて、
そんな自分のことを嫌だと思っているのかもしれません。

自然に自分が欲しているものや、感情を表現することを
してはいけないという思いこみ(またはできないと思っている。)が、
自分を抑え込み、嫌だ、こうしたい!こうしよう!としても、
できない、やらない(約束を守らない)を繰り返していきます。

認めがたいことかもしれませんが、
長年、抑圧され、放置され
続けた“欲求”や“感情”は、
「不満な現実」を作るように潜在意識へと指示を出し続けています。

無意識に自分を認めていない人は、認めてくれない人を、
自分を嫌って攻めている人は、嫌いな人・責めてくる人(状況)をつくります。
自分の無意識にあるものが目の前に映ります。

自分では気がつかない部分の思いこみを知り⇒認めることは、
もう無くなったと同じようなものなので、日頃から意識的に
ドンドン気づいてもらいたいと思います

そして、思考パターンに気づいてくると、その核の部分も見えるようになります。
見て、感じて、それは何を言おうとしているのかに気づくことでそれは解放されていきます。

感情をしっかり味わい解放することに慣れてくると、
心や体が軽くなり、
あんなに嫌だった人が、「あれ?ほんとはこんな良い人だったの?」
など、現実が驚くほど変わっていくので、楽しくなってきますよ

ぜひ、楽しんで発見してみてくださいね

問題視しないって はっきり言って 愛ある行動とは言えないです。


ちゃんと、見ないから。


人として生まれたなら ちゃんと見て行動しましょうよ。



いくら 安心感を得て不安感がなくなったとしても見ることは大切なことです。


見た上で 何をすべきかを考えるのです。



見た上で 優しく微笑むのです。


見た上で 安心感を送るのです。



問題視するって 負の感情を抱くことではないのです。


問題視しないと 感謝もわかない。


問題視しないと 愛もわかない。




気にならない、気にしないのは 愛のない行動の証拠です。

最近、ちまたで多くみられるのが 自称、愛があると呼ばれる人たちです。



自分には愛があると思っているから始末が悪いです。



愛があったら人は傷付けないはずなのに、傷付けます。


愛があったら誰もと仲良く過ごせるはずなのに、よく人とトラブルを起こします。



自分勝手な愛だからです。


自分勝手にやりたいことだけやる愛。


人の迷惑を省みない愛だからです。




泣いている人のそばで、自分は彼氏がいて幸せなのよ〜 と幸せを巻き散らかします。

自分のことしか考えていません。




こんなに ちまたでは、覚醒した?というブログが溢れていますから、どうやったら覚醒できるだろうと悩んでいる人もいるでしょう。

しかし、そんな人に近づいて、覚醒しなさい!気づきなさい!と言ってみたり、覚醒して頭が弾け飛んだのか、お花畑な頭を振り撒く人。


それは、覚醒したとは言いません。


ただのアホです。


覚醒したら、人の気持ちを思い図れるはずですから。




このように 自称、愛があると思っている輩 自称、覚醒した輩 が多くみられます。



自分を見せびらかす行為は相手を傷付けて自分も傷付けます、


相手の負の感情を思い図れないのは、本当に愛ある行動とは言えません。


結局は 自称、なだけで 目覚めていないのです。


頭がボケ〜としているから思い図れないのです。



頭を使わない。

会話ができない、おしゃべりしかできない人たちです。



なぜ、わたしがこのような人たちをいちいち取り上げるかと言うと

こういう人たちが一番、人を傷つけるし 人を傷つけていることの自覚がないからです。


人の傷口をえぐる行為をしてくるのです。


思いやりのかけらもないからです。


自分のことしか考えない。


自分しかない。


だけど 自分は愛に溢れていると勘違いしています。



人を傷つける行為をする者は 問題視されるのです。



覚醒するしないは、個人の自由です。

人を殺めたりはしないから。

しかし、このような人は 人を殺めたり傷つけるから わたしが問題視するのです。

わたしは わたしの周りの者から、傷つけられる現実を作り出している人たちのことを見聞きします。


また わたしの知らない世界では傷つけられている人の話を聞くことがあります。


不治の病で苦しんでいたり家族間の悩みがあったり。。。


見えない何かにぐるぐる巻きになっていて身動きがとれなくなっています。


どうしてそんなことが起こるの?

信じられない。。。


わたしがそう感じても そうなることは当たり前だと信じて疑わない。


家庭不和はもちろん、登校拒否、いじめ、病気、怪我、事故、、、、、。

起きていることを問題視せずに、生きています。

わたしは小指一本に痛みがあっても その意味を考えます。


わたしのどんな言動、心がそれを引き起こしたのだろう?


内省、検証します。


それをしないと前に進めない(一瞬で終わりますが)から。

それが わたしの当たり前です。


だから、人の痛みにも反応して一瞬で治します。


ひとつひとつの感情や感覚に絶えず向き合っています。


少しでもブレたら戻します。

ブレることを許さないのではなくて、ブレる自分は本当の自分じゃないから本当の自分に戻すだけなのです。


こんなわたしを人は敏感だと言います。


確かに、痛みには敏感です。


みんなみんな、同じ存在だから 自分の痛みにも人の痛みにも敏感に反応します。



そういえば 人間社会の残虐な行為って どうやって生まれたかわかりますか?


みんなみんな、同じなのに 人にたいして残虐な行為をするために、わざと自分を鈍感にしたのです。


人の痛みがわからないように自分を鈍感に仕立てあげたのです。



自分の痛みに敏感だと、人の痛みにも敏感に反応して、傷つけることはしないし できないです。


自分の痛みに鈍感なままでいると 人の痛みにも鈍感でいるのです。


それって どういうことかわかりますか?


人の役に立ちたいと言われますが、自分を犠牲にしてまでも人の役に立とうとする人がいます。


それは、鈍感だからです。


わたしは人の役に立ちたいとは思わない。


ただ わたしのやりたいことが人の役に立つことだと思って行動しています。



敏感と鈍感の違いです。


人の役に立ちたいと思う前に、自分の痛みに敏感になってください。


お腹が痛いのに、人をおんぶはできません。


おしっこ我慢して、人をおんぶしたらもれてしまいます〜♪



愛を知らない人が愛を語る。 


思いやりとか共存共栄だとか真しやかに語るけれど、その本質を知る者は少ない。 




心はそのまま生きる姿勢となるものだ。 


自分がされたことばかり感じて思いやりを持ちましょうとか相手の立場になって考えましょうとか、いつまでも被害者意識で居る人が居て、そんな人たちは逆に加害者になっているものです。 



自分が加害者であることに気づかず愛を語る。 



そんな方々に気付きが起きるようにとのエネルギーが降りてきているような感じがします。 



被害者意識の強い人は自分の痛みにに関心はあるけど他者の痛みには疎いです。 


そのような方は、今まで問題視してこなかったことを改善させられていく流れになっているような気がします。 


例えば、その心の見直しのために周りの者が病気になったりして気づかされていくでしょう。


そうやって、家族の立て直し、被害者意識の見直しが起きています。 


宇宙の真理に気付くと 人は守られている、という安心感を感じることができて不安感がなくなるという


これが 一種の覚醒と呼ばれるものらしい。




この不安感がなくなると、目の前に起こることに対して 問題視しなくなるらしい。


問題視しない という視点を持つことで より良い人生を送れるようになるようです。



しかし この問題視しない という視点は、いかにも この世界においては 一般的ではないようです。


そのため 問題視しないことを問題視されることになるようです。




人は ある出来事を問題視して そこから抜け出そう!解決しよう!とするから 成長できるものだとわたしは思っているため
問題視しない行動はいかにも、人らしくないなあと判断してしまいます。



だから 問題視しないことが決して良いことだとは思えないのです。


だからといって 不安を感じる生き方も決して良いこととは思えないです。




どちらもバランスが大切かなあ と思います。




目の前に起こることに不安を感じることなく、対処していけばよいのではないかな と思います。


問題視しなければ 向き合うこともしないからです。


問題視しながらも安心感と自信で前に進んでいけばよいのだと思います。


だから 不安感がなくなるだけでは 片手落ちなのです。



不安感がなくなったら
自信をつけることをするのです。



不安感がなくなることがすべてではない。



覚醒することがすべてではないのです。



覚醒してからが 人生の本番です。



だから まず、不安感をなくすことから。。。ですね♪

自分の縛りを取ると意識が変わる。


それだけのことなのに、周りが違って見えるものなんだ。



だけど 〜しなきゃいけない って自分を縛ることも人生にとっては意味があることなんだ。



この世界は人間の頭では考えられないことが起こっています。



人生のからくりがわかると地球から逃げたしたくなる。



根底にそれがあるから、目覚めたくないって頑張っちゃうのかもしれない。



人生の主導権を魂に明け渡したら、もう逃げられない。



いくら自由意思だろうと魂に主導権を明け渡したら、逃げられない。。。


夏休みか終わる時期になると 自殺する子供がいたり学校に行きたくないと言う子供も出てきます。 



わたしは幼少期から空想の世界に生きていたので、人から違った目で見られることもありいじめっ子の標的でしたし、子分にしたてられることもありました。 


それが自分の日常でした。 

家庭では親のしつけが厳しく、いじめられていることが言えない環境でもありました。 


親や姉は性格がキツくやられたら徹底的にやり返すの主義です。そのため泣いて帰ることは出来なくて、平静を装うこともありました。 


そうなると行き場がなくなり よけいに空想の世界に逃げていました。 



もし うちの親が普通の親なら、いじめられていることを話していたと思います。 


教師からもいじめられてもいましたから、行き場がなかったです。(教師の捌け口) 

学校では、病弱ないじめられっ子同士でつるんでいました。 



転機が訪れたのは、転校生の存在で 転校生とお友達になってからはいじめられることはなくなりました。 


だけど それまでに身に付けた逃げることは大人になっても影響を及ぼすことになるのです。  




いじめられてる子って 
自分本位の性格ではなくて 優しくて気弱で自分の意見を言えないのです。 
人のこともよく見てるしわかるのです。

自己犠牲が強い。 

自分が我慢すれば良いと思ってしまう。 



だから 留まってしまう。 


逃げる選択肢がないのか、向き合おうとしてしまう。。。 



痛みに意味はない。 




わたしは無意識に空想の世界に入ることで逃げましたが、逃げる選択肢を持っていない人たちがいます。 




逃げていいんだよ、と言われないと逃げられないし  そこから引っ張り出されないと逃げられないのです。 




それは その子の世界ではない場所に、引きずりこまれているからです。 


そんな時、魂はそこに居ない。外れています。 


だから 突発的に憑依されて自殺してしまう。 





わたしは魂を落としたことがあるのですが、自分が自分じゃなくなりました。 
乗っ取られないように処置していただいたので助かりましたが、

何で助かったかというと、お水です。 


わたしは和歌山県橋本市のゆの里のお水を愛飲しております。 


意識はお水で変えられます。 



自分に合ったお水を飲むこと。 

合わないお水は乗っ取られます。 


お水って重要です。 


合うお水がわからない場合には、住んでいる場所のお水をとにかく飲むことです。 



保護される方々もいらっしゃるかと思いますが、とにかくお水を飲ませてください。 


意識はお水で変えられますし魂も戻ってきます。 





自分の人生は自分が意識した通りになります。 


〜したい! 
〜でいい! 
〜しかない! 
〜しない! 
等 


自分の人生は自分の思っている通り、感じてる通り、になっていきます。 


意識的でも無意識に意識したことでも人生は動き出すものです。



人生が動き出すと、わたしってこんなこと意識してるんだな?とわかります。 

体もそのように整えられて、周りもそのように整えられていくので、後戻りはできないと感じます。 

意識するとは決心するとも言います。 


「決める」とそのように人生が動くものです。 



もし 物事が動かないと思われているのなら、決めていないのかもしれません。 


よく、心を見つめてみてくださいね。 


意識的でも無意識でも決めてないことは進んではいかないから。 




わたしはあることを無意識に決めたせいか、そこに到達すべく体も周りも整えられてしまいました。 
走るしかない〜っ 





今の現状は自分に何を気付かせたいのだろう? 


自分は何を学ぶべきなんだろう? 


今の自分に足りないものはなんだろう?





意識の変容が起きると、このように考えられるようになってきます。 



現実に起きることは、すべてにおいて 自分を成長させるために起きているんだ、ということが自覚できるからです。 




意識の変容が起こる前は、今の自分に置かれている立場や現状に不満ばかりで、それが自分の内面が引き起こしているなんて思いもよらないものです。 
そして、それは人のせい、社会のせいとしか思えないものです。 




『すべては自分の内側にある想いが引き起こしていたことだった』 



これに気付くために、目の前に問題が山積みされるのです。不快になることも起こるのです。 



意識の反転です。

考え方がガラッと変わります。

それを経て、意識の変容がなされていくのです。





このページのトップヘ