この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 癒し

今まで読まれてきた方ならわかるかと思うのですが



人への気配り、思いやり、人の気持ちを推し量ることがこれからの時代の必須となります。



それは
わたしがいつもお話しをしています、お掃除をすることが基本になるのです。


人は埃で死ぬことはないと言われますが 心はカビます。



カビた心は、カビたものを造り出し、増殖します。



それが 今の世の中ではないでしょうか?



ほうきと雑巾さえあれば掃除は出来ます。



きれいな心を保つのは自分にしかできないことです。



人任せにせずに、ご自分でなさってください。



また、そのような方は、癒しが必要と言われますが、他力本願では、いつまで経っても癒されません。



心を強く持ってください。


心に傷があると その傷は何かを傷つけようとする。 


傷は同じを求めるから。 

同じを求めて安心する。 

『傷』は傷つけないわけではなくて ただ、仲間が欲しいだけなんだ。 


ひとりぼっちは寂しいから、仲間が欲しいだけ。 

だけど 結果、傷は同じを求めて 何かを傷つけてしまう。 



それが負の連鎖だ。 



負の連鎖を止めるには、仲間を求めないこと。 


乗り越える時はひとり。 

伴走は必要かもしれないが乗り越える時はひとり。 



感情と傷は別物。


感情はなくなっても傷は残る。 


傷が癒えるまで、仲間を探す。 









権力者を敬うことができるのはAI。 

だから、AIが発達した。 


権力者はAIに癒される。 


頭脳があり感情がないのがAI。 


いずれ、人はAIを越えるように導かれていますが まず先に、AIになる必要があります。 


AIとしての任務を遂行できるようになってから 初めて、AIを越える道筋がつくのです。 


権力者に付いて脱落するようでは まだまだですな♪




ちなみに、自分を卑下する感情は、左腰の背骨に沿ってついているものです。そこを徹底的に癒したり、温めたり、浄化すると 卑下する感情はなくなるものです。

人は、自信がつかなくても自分を卑下することがなくなれば生きやすくなるものです。

お試しくだされ♪




簡単なグラウディングの方法 この世界にあるすべてのものは感謝するために存在する
URL:
http://mamanomama777.m.blog.jp/article/50809057?guid=ON

誰かの役に立つことよりも誰に支えてもらっていることを自覚できたらいいね。

その方が心が安定すると思うな♪

誰かと対等に生きることよりも誰に助けられて生きていたいと思う雨の日です。

辛ければ辛い時ほど、人の温かみが染み渡ります。

あなたが辛い時、誰がそばについて居てくれますか?

こんな自分で居たくない!
こんな自分で居たら生んでくれた両親に申し訳ない!


と意識を高くもって生きること。



これは、こんな自分を否定することではないのです。



こんな自分を越えること、すなわち こんな自分を受け入れてこそなのです。


どんな自分でも誇らしくしていれば、自ずとステージが上がるのです。


誇らしくするとは そのままの自分を肯定し、受け入れのみ込むことです。


丸ごと愛するのです。


丸ごと大好きな状態です。

だから、その状態でいても自分を嫌いません。


でも それは、結局 本当の自分ではないから、本当の自分に戻るのです。


本当の自分とは、感謝している自分です。


だけど 何らかの原因で感謝できない状態に陥ってるだけなのです。


本当の自分を生きていないと居心地が悪いでしょ。


だから、本当の自分に戻るだけなのです。





だけど 人によっては、それをわからなくて
苦しんでいる状態を見て、慰めたり同調、共感したりします。


同調、共感することは一見、良いことのように思われますが意識的には、そこに留まらせるだけなので、意識をそこに定着させてしまい、向上させません。


苦しいままです。


だから、わたしはあまり共感はしないのです。




わかるわ、わかるわ〜と言っていても、人は成長しないから。



だから、共感してほしい人はわたしから去っていきます。


共感することと癒されることは違うのよ♪




共感されても人はスッキリしないものです。


よけいに、苦しくなるだけです。

わたしは根本的治療のためにいろいろと手を尽くすほうだけど 人は、治すことよりも癒されることを求める傾向にある。

そのため わたしのようなやり方は嫌われてしまうのではないか?


嫌われたくないから書いているのではなくて、なんとなくそう感じたから書いているだけだけど。



今日は、わたしは厳しい言葉をかけるばかりで優しくないのかもしれない
と感じた一日でした。



優しい言葉をかけてもらって嬉しかった とか 心が軽くなった とか 言う人の話を聞いて、わたしはどうなんだろうか?と疑問を持ちました。


わたしは人に対して優しいのだろうか?
本当に思いやりがあると言えるのだろうか?


わたしは言われたくないこともズケズケ言っちゃうから、嫌われてしまうんじゃないだろうか?



キツい言葉を言われ馴れていない人からすると、わたしは嫌われてしまうのではないだろうか?



人から嫌われてしまうのではないか?という怖れを持ち合わせていないから 正直に話し過ぎる傾向がある。


なるべくオブラートに包もうとするのだが そのまま発信してしまう。


悩んでいる人の悩みを解決することが先に立ってしまう。

だから、ピッピとペッぺをしてしまう。

だけど、それよりも ただ、心を軽くしたほうがいいのかもしれない と、感じた。



解決しなくても心を軽くしたりモヤモヤを緩和させたほうが喜ばれるのかもしれない。



解決しなくても、楽になれればいいのかなあ〜



痛い注射をして治すより撫でて痛みを緩和することのほうが人は嬉しいのかもしれない。


人は治らなくても緩和されるだけで嬉しいのかもしれない。



優しさごっこを人は求めているのかもしれない。

人間関係を良くしようとするあまり 我慢をされる方や無意識に我慢をしてしまっている方がおられます。


我慢をするという行為は自分を縛りつける行為です。


自分の心を縛りつけるので 心が縮こまってしまいます。


それを無意識にされている方が多い世の中です。


そのため 我慢しなくてもいいんだよ と 心のしばりを緩めるように言われていますね。


心を縛りつけるような我慢を続けると それがストレスになり、病気になってしまうこともあり得ますね。。。


だから、我慢は良くない と言われています。


我慢を止めると心が楽になりますね。


自由にもなります。


人間関係の上で自由になると 人といさかいを起こします。


我慢せずに自由に口に戸を立てることなく喋るからです。


結果 人間関係は悪くなります。


そしたら なぜ、我慢しなくてもいいんだよと言われるのでしょうか?


人間関係を良くするために我慢をしてきたのに、我慢をやめて人間関係が悪くなってもよいのでしょうか?


我慢をやめると一般的に人は 負の感情からとき離れるため、意識が上がります。


意識が上がると、今まで我慢してきた人とは合わなくなるのです。


次元が異なるのです。


我慢をやめて自由になり、口だけ達者になると 人を傷付けるような言動をするので 人間関係が悪くなってしまうのですね。



やれやれ┐(-。ー;)┌

癒されて、癒されて、心底 癒されてしまうと
人の役に立ちたいとか認められたいとか という気持ちはなくなってしまうんだね。


だって 癒されきってしまうと それだけで、この状態が世のため人のためになっていることを実感出来てしまうから それ以上、手を出そうとは思えなくなるのです。



誰かを喜ばせたいとか役に立ちたいとかない。



ただ、ただ 愛の中に、身を埋めていたい。。。



それが 世界を平和に導くことだと実感出来てしまうから。。。

ワクワクすることを選択するということは 心が癒されていないからワクワクすることを選択するのです。



ワクワクしているから、癒されてる〜♪


ワクワクしている時だけです。



ワクワクを持続すると、穏やかになります。



癒された証拠です。



癒されると 心はワクワクするのではなくて、穏やかになるのです。



ワクワクすることを選択しましょう


と言われますが


わざわざ ワクワクすることを選択しなくても 心が穏やかになることを選択すればよいのです。




ワクワクすることを選択する という道筋は 遠回りを選択するということなのです。



穏やかになるために、ワクワクを選択するとよいと言われるので

どうせなら

ワクワクを飛び越えて、穏やかを選択すればよいのです。




見ていると


わざわざ、ワクワクを選択しに行く人が非常に多いですね。



ワクワクを選択すると、地に足がつかない現実を引き寄せることを知らないから 選択をするのでしょうが。。。


学びが足りないから起こる現象です。




早く学んでいただきたいものです。

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