この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: 受け入れること

ある人のブログで見つけた、言葉

『今 起きてることは事実ですが、受け取り方ですべてが変わる。』



これは、ある意味事実ですが これだけを信じるのは 片手落です。


この意味は、今はネジ曲がった眼鏡で世界を観ているけれど 眼鏡を外して裸眼で観たら、世界が変わったように観えるようになっただけということです。。


だから、

今 起きてることは事実ですが、受け取り方ですべてが変わるわけではない ということです。



スピリチュアルの落とし穴ってこれかなあ と思います。



ネジ曲がった眼鏡を外すと 最初は、世界は薔薇色に変わったように見えますが、実際は 自分の見方が変わったに過ぎないだけで 自分の人生を見つめ直すスタートラインに立って足踏みしているだけなのです。


そういう人の口ぐせって、「ポジティブになりなよ」です。



目の前に起こるすべてを受け入れることで 現実が変わっていくのであって、
目の前に起こるすべての見方を変えるだけでは現実は変わらない。


わたしからしたら、
こんなアドバイスは迷惑なのです。



信じないでほしい。

こんな言葉に惑わされないでほしい。

痛切に感じます。



前に歩みを進めるには、見方を変えるのではなくて 受け入れることなのです。

権力を使って人を支配しようとする人の心は寂しさに覆われています。


そのため その寂しさを受け入れてもらうことで、徐々に 頑なな心が和らぎ 権力的ではなくなるのです。



権力には屈しない!と言っている人は権力を許さないし、その寂しさを受け入れようとしないから いつまでも敵対しています。


それでは 未来は変わらないのです。



権力者の方が変わればいいんだ!という気持ちでは世の中を変えてはいけないのです。



受け入れること。


相手を理解すること。



支配されている身でありながら、権力者を受け入れていくことは容易なことではないかもしれませんが、これが効果的なことなのです。




誰もが人は尊敬、尊重されるべき存在です。



同じ存在なのです。




わたしたちは この地球に生まれてきて、受け入れることをしたいのです。


清くたくましい魂は、どこまでも受け入れていきたいのです。



わたしはそんな魂の想いがわかります。



だから、権力者の中に入り込んでいられるのだと思います。


潜入捜査官なんですよ、わたし♪

たくさんの役割があります〜



人を受け入れることで器が大きくなります。


それが成長するということです。


受け入れましょう。

許しましょう。

意識が上がると、『受け入れる』ということが出来るようになってきます。

そうすると、『受け入れない』ということがどういうことかわからなくなってくるのです。
そして、受け入れることができない人の気持ちを推し量ることができなくなるのです。


つい 以前は、受け入れることができない自分だったのに それを忘れてしまうのです。


意識が上がると そんな不都合が生じるのです。


意識が上がるということは神の意識に近づくことですが、近づいてるだけで神ではないのです。


もっともっと、意識を上げていくと 受け入れることができない人の気持ちもよくわかるようになってくるものです。


意識を上げるということは、すべてを見通せるようになることをいうのです。

わかってもらえると嬉しいようで、わたしの体調も良くなりました^^
このように、相手を受け入れると、相手は急に優しくなり抱きしめられます。
デカイ石に抱きしめられて窒息しそうです^^


本当に相手を受け入れると相手は変わります。


巨石群さんは確かに、ばかデカイ石ですが、義理人情に厚く、叙情的で繊細で精密さがあります。

こうやって 人でも存在でも受け入れて、仲良くなっていくのです。


結果、良い世の中にしていくのです。


わたしたちの受け入れる心で世界は変わっていくのです。


違いを認めるだけではなく、受け入れていくのです。


受け入れると相手は変わります。


それが、魔法と呼ばれるものです。

わたしは 人の本質を観てお話しをする癖があります。

そのため、お相手からはたまに、そんなに誉められても〜 と謙遜されたり、思ってもみないわたしの発言に目を丸くされることもあります。


しかし、わたしはソコ!を観て話を進めてしまうのでちぐはぐになることもあります。



人って自分の本質を知らないものだなあ と思います。
また、人から言われている自分を自分だけ錯覚したりもするようです。


優しい人、こわい人、楽しい人等 人は周りから評価された自分を自分だと思い込むようで でも、それが本質からかけ離れていることもあるようで それも悩みの対象にもなるようです。



一昨日、わたしは金山巨石群に行ってきました。
わたしの印象は一言、ばかデカイ石だなあ〜 でした。


しかし、周りからしたら 巨石群さんのことをばかデカイ石と表現されることはないと思います。

宇宙的だとか壮大だとか神秘的だとか、、言われていると思います。


しかし、何故 わたしがばかデカイ石と一言表現したかというと
巨石群さんは、自分のばかデカさを卑下しているからです。



周りからは宇宙的だとか壮大だとか言われていますが 実際には、その形状にご不満があるようで 本当は、お花のようにきれいなイメージを自身に持ちたいようです。


石とお花は違います。


人間さんからは、宇宙的だと誉め称えられていますが その実、それよりもきれいだ〜、かわいい〜 と言われたいのです。


しかし、わたしは巨石群さんの気持ちもわからずにばかデカイ石発言をした不届きものです。


だから、天罰が下り、今のわたしの体調は最悪です。



巨石群さんは確かに、形状はばかデカイ石ですが、エネルギー的には繊細で精密で硬さがあります。


わたしから見ると、宇宙的というよりも 叙情的です。



言わずもがな


という言葉がピッタリなんです。



確かに、巨石群さんは宇宙人が意図的に置いたとしか言えない代物です。

だけど 本質は、宇宙的壮大というよりも細やかさがあるんですよ。



美女と野獣の野獣みたいなエネルギーです。



その細やかさ、重みはあるけど可愛らしさ、静けさがあるのです。



この本質をもっと、他の方にも知っていただきたいです。

今では わたしは、受け入れることがわかっているしできますが つい、昔はできなかっんですよ。


愛する、受け入れる、を徹底的に自分なりに研究して自分のものにしてきました。

凝り性なの。

好きこそ物の上手なれ って言うでしょ


わたしは内観浄化がとっても好きで、研究もしてきました。

自分なりの持論もあります。


わたしのは探求心の賜物なのです。


だから、結局は こういうことって 探求心、集中力が物を言うのです。



読んだから簡単にできる って思っていませんか?

また、出来ないんです とか 受け入れることが出来ないんです って言われますが、3日や5日、試みたぐらいで使いこなせるわけがないのです。


集中して使いこなしていないのに、使いこなせるはずがないのです。


それを まだまだだ、自分は。。。と落胆して、責める。


責める必要ないのです。
努力してないのだから。


努力していても、ちっとも出来ないならば 使い方が悪いから考え直して、使い方を見直さなきゃって思いますが もともと努力してないのに、落胆しようがないです。


あなたは ただ、努力が足りないだけだから。


違いますか?


そこをわからない人が多いです。


やってもいないのにやってるふりして、出来ないんですって言われても答えようがありません。


集中力がないだけでしょ

もしくは、やりたくないだけでしょ



出来ない言い分けを並べられても正直な自分を伝えなきゃ、わたしは答えようがないのです。

まあ、わかるよ。わたしはわかる。

でも、自分のことをきちんと伝えることをしなくちゃ相手には普通は伝わらないのです。


だから、自分の事実を伝えることが大切なのです。


だけど 、人に裏切られたり否定されたり利用されたりしてきた人は 本音を語ろうとはしないものです。


自分の本音がわからなくなってる人も多いですね。


だから 逆に、わたしがお相手の本音を紐解いていくこともあります。


警戒心の強い方は 紐解かせないです。


固く閉ざされた心の紐を解いていく。。。


わたしの好きな分野です。


内観浄化が大好きでエネルギーを扱うのが大好きなわたしです。


エネルギーを動かしながら紐を解いていきます。


エネルギーってネジに似ています。


感情を肉体に止めています。


ネジをゆるめて、様子をみて、動かし外していきます。


楽しいです♪


楽しいから出来るのです〜

自分の身に辛いことが起きると、それは感謝すべきことなんだとは、言えないと思う。


だから、すべてに感謝して生きることは、所詮 無理なことだと思えるよ。



だけど 辛い想いをしなかったら、すべてに感謝をして生きていけるのだと思うんだ。


だったら、どうやったら辛い想いをせずに生きていけるのかなあ?


それは 起こることすべてに意味があると思うことなんだと思う。

起きたことは、自分の責任だと常に腹を括ることだと思うんだ。

自己責任。


何が起きても、受け入れることだと思う。


受け入れるしかない。


受け入れないという選択をしないということなのです。


感謝できなくたって辛くたって受け入れるしか生きていくすべがない。


受け入れて、そこで生きることなんだ。


今、自分の身に起きていること、すべてを飲んで生きる。


自分のした選択に責任を持つ。



どんな感情に支配されようと、揺らがずに、受け入れて生きていく。



今の日本人に足りないことだと思う。



足りないから、試されるんだよ。

わかってる?



それを 試されていると知らずに、感情に翻弄される人達。


落ち着いてよく、考えればわかること。



すべてを受け入れて生きていれば、お試しは起こらない。


そうなった時に、本当に自分のやるべきことが見えてくる。




わたしたちは 感情に翻弄されることをしたいわけではなくて それを越えた世界を生きていたいと願って生まれてくるんだよ。



勇気にはふたつあると思います。


離れる(壊す)勇気と受け入れる勇気。


離れる(壊す)勇気は、発信する力が必要です。


受け入れる勇気は、内側に向かう力が必要です。


どちらも、力は必要です。



離れる(壊す)勇気がないと、そこに留まることになります。

留まるのは 一見、受け入れてるようにみえますが、そこに力は働いていません。



人が何か決断するときには力が働きます。

外に向くか内側に向くかです。



どんな時に決断するのでしょうか?


人生の岐路と言える時だと思います。


何らかの決断をして 方向性を決めますが、勇気がなくて 決断出来ないときには そこに留まることになります。




わたしが 今まで、生きてきて感じることがあります。


それは

勇気がなくて、決断できなくてそこに留まる場合

それは、岐路ではなかった といえることです。




どういうことかと言うと

実際に 岐路だと感じていたとしても 決めれないのは、岐路ではない、時期じゃない ということです。



逆に 岐路でないのに、決断してしまう場合もあります。
早合点してしまうのですね。



早合点すると 取り返しのつかないことにもなりかねしませんので
ここは やはり、早合点せずに 落ち着いて決断する時期を待たなくてはいけません。



想いでは、GOサインが出ているのに 先に進まないのは、時期じゃないからです。




決断する時期というのは 誰にでも訪れます。



それまで ゆったりと、感情と戯れているのも楽しいものです。




一時の感情に流され、翻弄されて決断してしまうよりも
感情を味わい尽くせば、否が応でも 決断せざるを得なくなるものだから とことんまで 味わうことが楽しいのかもしれないですね。



出てくる感情を追いやろうとせず 味わい尽くすこと。。。




人は そんなことがしたいのかなあ と思いました。




自分に自信がないの〜 って

寂しいの〜

悲しいの〜

辛いの〜


そんな感情を味わってみたいのかもしれません。

良心に従うこと。。。


って意外と簡単なことだったりする。



もし、それに反した想いがあれば その想いを我慢したり抑えつければよいのだから。



だけど それでは、人は成長しないのです。



良心とそれに反した想いと折り合いをつける


これをすることによって、人は成長することができます。



折り合いをつけること。。。



清濁併せ呑むこと。


それは、中庸とは違うと思います。




清濁併せ呑む:
良いことも悪いことも、善人も悪人も、綺麗なものも汚いものも、隔てなく受け入れることが出来る。その度量の大きさ、器の大きさなどを表す例えで使われることわざです。



清濁併せ呑むとは、善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れる度量の大きさを表すたとえ。

大海が清流も濁流も隔てなく受け入れることから、心の広い人のこと。

「清濁」とは、善と悪・善人と悪人・賢者と愚者などのたとえとしていう。




今の世の中は、清濁併せ呑むことができる人が求められているのかもしれません。

自分を許す。。。のは、難しいようで、簡単。


簡単だから、バランスを崩しかねません。



何故、自分を許すかというと、他者を許すためなのです。




他者を許すために、まずは自分を許すのです。

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