この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 悟ってみてわかったこと



FBの機能で一年前の投稿を出してくれる。これは選れものだなあと感じる。 
大概、一年前と同じように歩んでいて似たような投稿が現れてきます。 
違うと、あれ?と感じて振り返るきっかけをつくってくれる。 

今回、2017年の投稿とは同じなのに2018年の投稿は違っていて、間違いはここだったのかと気付いた。 


2018年のその後の歩みの原点だった。 



一年前の今日、わたしはある考えを採用した。 
それが内側の声を無視した結果に繋がったんだ。 


ホント、すべて、答えは内側にある。


自分の書いてる日記の中に答えはあったのだ。。。 


外側からの情報がひとり歩きした結果が。。。コレだった(-.-;)


外からの情報はあてにならない。 


わたしたちはこれからの地球で生きていくためには、何が起きても当事者に陥らないように生きることを試されているのではないでしょうか? 



テレビのチャンネルを合わせるように、意識ひとつで、世間が観れてしまう世の中だけれど、それは必ずしも自分の現実ではなくて、スクリーンを飛び越えて当事者になるのは自己責任だし自分の選択次第なのです。 


何かの当事者になってしまったとしたら、そこに意識を合わせているということ。 



わたしは、人にたいして的確にアドバイスできますが、その時だけチャンネルを合わせているだけなのです。 

その場にはいない。 

普段は、ピンボケした空間に漂ってます。 



ピンボケした空間は、一般的に言う神社のようです。



人が来たら、対象となるその人に合わせます。 

帰ったら、ピンボケ生活です。 


我が家はお寺のようです。
わたしは住職。住むのが仕事。 


先日も話をしていて、驚かれました。 

主催者の方はわたしの人となりををわかっているので、「それは、ままさんだからだよ」とおっしゃられます。 


今まで、内観浄化をして感情と向き合ってきました。 

そして 負のものが一掃されてきて、自ずとシンプルな生き方になり、周りが整えられていきます。 

整えられる、というレベルが以前にも増しているのです。 


手を入れなくても整えられている。 


家の中はお掃除しなくてきれいで、お庭は草刈り不要。 ほどよく苔がむされてます。 

夏は涼しく、冬は暖か。 
汗はあまりかかない。 

お肌もしっとり。 

食べたいものはやってくる。

生活に困らない。


そんな状態のまま、チャンネルを合わせると世界が観れるのです。 


自己責任でスクリーンの中に入り込むこともしますが、呼吸困難になる前には戻ります。


でも、ピンボケ状態で世間をうろつくこともありますね^^ 


ヤバイ、ヤバイ(;・∀・)

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こうやって人は目覚めていくんだ
2014.09.30
内観浄化を繰り返していた時に ある日、突然 心が軽くなった。 

そして、心の奥底から感謝が溢れた。 

それが、気付きだ。 


それを 何回も何回も繰り返してきた。 

心の奥底からわき上がる感謝の想いに、自分が満たされる。 

何て、甘美な感覚だろう。 

世の中すべてが美しい。 

この世界のすべてが感謝するために存在するとわかった。 


この心の内側からわき上がる想いは どんどん増していく。


自分の心も身体も満たしていく。 


すると ある日、突然 人が変わったようになった。 


何故か、背筋が伸びている。 

自分の口から発せられる声が変わる。 

また、自然に 自分を整えていくことを覚えていき、 
自分の内側から声が聞こえる。 


自分がどう生きたらよいかを教えられるんだ。 


誰かに聞かなくったっていい。 


確信できる声が聞こえてくる。 


そうやって 自分自身と繋がる。


感謝が増せば増すほど、繋がりも深くなり、確信度も高くなる。 


それを経て、人は目覚めていく。 



人が目覚める瞬間は。。。 


やはり 心の奥底からある想いがわき上がるんだ。 


ある想いとは? 



『自分は完全なんだ。何も怖れるものはないんだ。』 

ということ。 




毎日の内観の積み重ねで、人は目覚めていく。 


自分の奥底の想いは、計り知れない力が備わっていることを自覚するんだ。 


誰かに聞かなくても、導かれる。 


怖くないんだよ。 



自分は自分のマスターなんだということがわかるんだよ。 



自分がどれだけのパワーを持っているかわからないほど 自分の内側からのわき上がる力を感じるんだ。 




人はこうやって目覚めていくんだ。




元来、善と悪、愛というものは 自分の心の中に存在するもので 外側にはないものなんです。



対象となる物を見て、善と悪、愛を判断するのは自分の心なのです。



外側に目に見える物や目の前で起こる出来事自体は、良いも悪いもないのです。



それに気づくことが『悟る』ということだと思います。



『悟る』って きれいなことではないのです。

何故なら、自分が悪だと勘違いしていたことに気づかされるわけですから。


勘違いしていたことに気づくって、冷や汗出ちゃうことですし、赤面ものです。


そこに気づきたくないから、自我が抵抗するのです。


でも、内側にいる神様はそんな自分を許してくれるのです。


だから、感謝が溢れるのです。


ありがたいなあって感じるわけです。


そして、もう二度と勘違いしないと誓うわけです。


それが『反省する』ということなのです。

自分の過ちに気付かないと反省はできないというわけです。

しかし 許されると、気持ちが楽になり安心して、また 同じ勘違いをしてしまいます。

繰り返してしまうのです。

何回か繰り返して、それでも許されていく。。。

すると、何回かの気づきの中で また違う気づきが生まれます。


それは、自分という存在は、純粋そのものなんだ、、、という気付きです。


内側に居る神様が何故、許してくれるかといったら、自分が純粋そのものだからなのです。


勘違いをしてしまっても 気づいたら、すぐに悔い改めることができるのは、純粋(素直)だからなのです。



自分は純粋そのものなんだと気づくと同時に、内側に居る神様は自分自身だと気づきます。


内側に居る神様=本当の自分は、どれだけ自分が勘違いをしようと許すのです。

計り知れないほどの愛があるなあ と感じるのです。


そして それが自分自身、本当の自分の姿なんだと気づくのです。



本当の自分って内側に居て自分を許してくれる自分なんです。


どんな過ちを犯しても許してしまう度量があることがわかり、それが自分そのものなんだとわかるのです。


どんなものでも受け入れ許すことができるんだなあ と心底わかるのです。

自分が今まで恐怖心を抱いていたものさえも受け入れ許すことができるんだなあってわかるのです。


それが『恐怖心を手放す』ということなのです。


『怖れるものは何もない』と感じるのです。


そして この世界には愛と呼べるものしか存在しないことがわかるのです。


わたしのブログタイトル『この世界にあるすべてのものは感謝するために存在する』は、この気持ちからつけました。



愛しかない、感謝しかないと、気づくのです。


これが、『目覚める』ということです。


しかし、人というのは繰り返す生き物です。


またまた、勘違いをして恐れを抱くこともありますが、 一度 恐怖心がなくなり、本当の自分は何をも受け入れ許すことができることを思い出すと 恐れなく、歩みを進めることができるようになるものです。



怖いものはない、何一つ存在しない

生まれてくる前のわたしたちはそんな想いで居たのです。



思い出すだけなのです。



わたしは愛。

純粋な光。


皆がみな、愛であり純粋な光なのです。



思い出しましょう。


一緒に思い出していきましょう。



わたしが先導します。


ついてきてくださいね。


ままのまま

わたしは、自分を高めることが大好きです。


だから、フアッションも好きだしお化粧することも好きだしお勉強もするだし内観することも大好きで得意なんです。


そんなわたしだから、人からは自己中心的だと言われたり自意識過剰だと言われてきました。

それで叩かれて、精神的にもおかしくなった時期があります。


自分のことにしか目が向かないのです。


人に対する奉仕精神は持ち合わせてはいますが、それよりも自己愛の方が優勢です。


今では、自分を高めることが大好きだと言えますが、昔は努力は嫌いでした。 お勉強も嫌いでした。


だから、人に誇れる得意なことがなくて、スポーツも絵画も音楽も才能はありません。


そして、いつも きれいなお洋服を着てきれいにお化粧をして 綺麗だね〜 と言われることが好きでした。


結局は、内面よりも外見ばかりを気にしている女でした。

だから、他になんの得意なことも見つからず、心はいじけていたのです。

外見ばかりを気にしていたせいで 綺麗で居続ける努力はしていました。


それって 自分では当たり前のことだから気付かないのですが、今 思うと、得意分野なのです。


それしか努力していなかったわたしだけど、それが自分にとって得意分野、誇れることになるとは思っていませんでした。

頭はないけど綺麗、綺麗にしていたわたしです。

あの頃のわたしがそのことに気づいていたら、もっと違った人生があったかもしれません。


だけど 気づかずに、自分に自信のないまま 親の勧める人と結婚をしたのです。



なぜ、こんなことを書いているかというと わたしのように 何にも得意なことがない と思って生きていても 足元を見てみると 自分に誇れることってあるよ ってことなんです。

そこに気づけるか気づけないか、なんです。



好きな人を振り向かせるために、お洒落やお化粧を頑張ってることって誇れるものなんです。


自意識過剰と言われても極めることって大切です。


それを頑張っていたら、それを後押ししてくれる人が現れたり苦手分野を手伝ってくれる人も現れるものなんです。


そこで、相手に対して感謝がわき上がります。



苦手なことをイヤイヤやっていてもストレス感じるだけですが 自分は好きなことをして苦手なことは誰かがやってくれたら、ありがたい〜♪って気分になりますよね?


自分はただ、好きなことをしてるだけなのに、苦手なことを手伝ってくれたりしたら嬉しいですよね?



相手に対してのありがたいという感謝の気持ち

これがあるから、好きなことに集中できるのです。


だから、自分のやっていることが人のためになると確信が持てるのです。


これが わたしの考え方です。


まずは、相手に対しての感謝です。


好きなことをさせてくれてありがとう♪

と、わたしは主人にも娘にも空ちゃんにも感謝しています。


わたしは料理は苦手ですが、独創的なものをつくります^^


それでも食べてくれる主人や娘に感謝です。

社会人一年生の娘ですが 未だに、わたしの手作り弁当を持ってきます。


ありがとうと言われれば何でもつくる母です^^


単純♪

最近、人から話を聞くと、何かに依存したくて何かを探している人がいます。


依存する何かが欲しくて、何かを探している人がいます。



それは、楽しみではなくて 依存する何かです。


依存することで満たされるのです。


自ら楽しむのではなくて、楽しみを与えられることで満たされようとする。


だから、満たされないと辛くなり寂しくなるのです。


依存するということは、相手から与えられることを待つ状態になることです。


待っていないと与えられません。


待つからストレスを感じるのです。

だから、相手が何もしてくれないと怒り出すのです。

何かを見つけても、誉められたい、認めてもらいたい と自分の欲を満たされないとストレスを感じるのです。



誉められなくても認めてもらわなくても 自分が楽しければ、それが楽しみです。



依存と楽しみの違いです。


結局、依存する相手や物があってもなくても、ストレスを感じるのです。


これは、余談ですが
わたしは人のためになりたいとか人の笑顔が見たいから頑張る という気持ちがわかりません。


わたしは、自分がしたいことしか出来ないからです。
人のためになるからとか人の笑顔が見たいからという理由で努力出来ないです。

自分がやりたいことしか出来ないです。

認めてもらっても認めてもらわなくても構わない。  
そんなことどうでも良いことなんです。

なぜなら、自分のやりたいことは、必ず 人のためになることをわかっていて その確信があるからです。

わたしのやることで役に立たないことがあるわけないと思って、日々を過ごしています。

自分の軸さえ持っていれば、
自分の楽しみさえ持っていれば、
愛する人に依存して、寂しさを感じることはないのだと思う。


人に対しての自分の感情と向き合うことは大切だけど 手っ取り早く 自分の楽しみを見つけることが自分に自信をつけることにも繋がるのだと思うのです。


愛する人に執着してると 自分の楽しみを見つけられないように思います。

寂しさを紛らすために始めたことでも、極めることで財産になります。



自分の感情と向き合ってばかりいるのではなくて楽しみを見つけることですね。


わたしは自分の感情と向き合うこと自体が好きでそれを極めました。


好きなことなら時間を忘れて集中できるものです。



時間を忘れて集中できること=楽しみです。



集中してできること、寸暇を惜しんでできることを見つけることで 誰かに依存して生きることから抜け出せるようです。



どうやって見つけるかといったら、まずは手当たり次第やってみることなんです。

そうすると、見つかります。


やる前から、出来ないと言い分けしているのは もしかしたら、執着を楽しんでいるのかもしれません。


それも楽しいかもしれないですが、そこから離れて 自分だけの楽しみを持つことをわたしはお勧めします。



でも 自分だけの楽しみに没頭することと愛する人と語らうことを天秤にかけることはできないもので、自分だけの楽しみに没頭すればするほど 愛する人との時間も増えてくるものです。


不思議ですね〜♪

人に対して奉仕をしたいなら、自分がまず、身も心も物質的にも満たされることなのです。

そうなって 初めて、人への奉仕が出来るのだと思います。

心を癒すことも大切だけど お腹を満たしてあげることの方が大切だとわたしは思います。

講演会できるお金があるならば、ひとりでも多くの人のお腹を満たすことを考えることの方が現実的だと思います。

だから、わたしはスピリチュアルなことを仕事にしないのかもしれません。

人を視るのは出来て当たり前だから、わざわざそれで収入を得ようとは思わないです。
それよりも 苦手なことを努力して収入を得ることの方がわたしは好きです。


常に、人と同じ目線に立って生きていきたいです。

何が言いたいかというと、事件は会議室で把握できるものですし、対処もできるということです。


現場に行かなければいけないということでもないのです。


現場でないと出来ないことでもないということです。


この世界は、人の心の持ちようで如何様にも変わります。



人のために尽くしたいと、そばでいたとしても心を変えるまでするのは難しいのです。


絶望している人に手を差し伸べても手を払いのけられます。

手を払いのけられた人は傷付くのです。

傷付かない人がされることなら構わない。

また 現場に出向いたことで、憎しみを持つ人を増やしてしまうかもしれない。

憎しみが復興の手助けをする場合もあります。


そのような方がまだまだ、多いです。



わたしは憎しみの中では息ができなくなります。

だから、会議室でないと意識を向けることができないのです。


これが わたしの特性です。


だけど わたしと同じような特性を持ちながら、現場に出向いて身体を悪くされる方もいらっしゃいます。


だから、わたしはあえて書かせていただいております。



自分の居る場所で事件を知っても 想いはあっても現場に行けない人もいるということです。


想いがないわけではないのです。


現場に行かないから、想いがないわけではないのです。



離れていても、惨状がありありとわかり動きが取れない人もいるのです。


まあ、このような特異体質は稀かもしれませんが あるのです。


現場に行くから誇らしいものでもない。


現場に行くなら、自分の力を最大限に出し切ることです。


どのような場合でも 自分の力を知り、最大限に発揮することが美しい姿だとわたしは考えています。


だから、自分を知ることが大切です。


生半可な想いで生きているんじゃないんのです。



現場を見なくても すべてがわかることがどれほどのことなのか、わからない人にはわからないことなのです。


だから、わたしのテリトリーは会議室だけで良いのです。

事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!


という名言があります。


うちの娘は、わたしにこれをよく言います。


「お母さんは被災地に行ったこともないのに、わからないでしょ!どんな生活して、どんな想いを抱えているかわからないでしょ!口、はさまないでよ!」


わたし、わかります。


現場に行かなくてもわかります。


わかるとしか言えませんが




人は自分のわかる範囲でしか物事を考えられないように出来ているようです。


そのため わたしという存在は理解できる範疇を越えているようです。



わたしの中では 常に、事件は会議室、わたしんちで起きているのです。





このわたしが被災地に出向いたら、何も出来ません。

会議室の中だから、できるのです。



わたしはわたしのことをよくわかっています。

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