この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 感謝をして生きるということ


心が現実を作り出しているなら 心が変われば現実は変わる。 



でも その心をどうやって変えることが出来るのかといったら、 
その時々に訪れる神様のお試しなのです。 


お試しにより心を試されます。 


そこで、心が鍛えられて感謝出来るようになると 心が成長して、現実が変わります。 


すると 気づきが起こりやすくなります。 


それを繰り返して心が成長を続けます。 



心を鍛えやすくするために負の感情に向き合い浄化したり波動の高い場所に身を置くことです。 


そこで わたしからは神気の提供をさせていただいております。


波動の高い場所に身を置くとその心地よさを体が記憶するようになり、そこを欲するようになります。 


汚れが取り払われていくのですから当然ですね。 


そうやって 心が成長していき感謝する心が育つのです。 



神様からのお試しは神様からの慈悲により現実世界に反映されるものです。 



平等に誰をも変わらず見ていてくださっているのです。



平等に誰もが成長していけるようにお試しを降らせていただけているのです。




有り難いですね。 




感謝の心がないと現実世界も心も貧困になるようです。 


何か物をもらわないとありがとうと思えない、自ら歩み寄ろうという発想がないのは感謝がない証拠であり貧困を引き起こす。 




そんな状態で 誰が感謝出来ますか?という声が聞こえてきそうですが 
そんな状態になるずっと以前から、人に対する感謝の心がなかったのでは? 



この世には宇宙の法則というものがあり 出した物は返ってくるものです。 


感謝という心がなかったら、返ってくる物もナイのです。 


それなのに、人から愛情や物を搾取しようとしたり、乗り越えなければならないことから逃げる。 


わかっていない。 


宇宙は無限だが、そういう人には豊かさは訪れない。 

残念だが、感謝もなく人を批判しているような人や人生を逃げている人にも豊かさは訪れない。



コロナが蔓延っている世の中ですが潤っている場所と乾いた場所両方あるはずです。 



あなたはどちらに居ますか? 



原因はコロナじゃない。 

心が現実を作り出している。 





ここのところ 感謝の心のなさから起きる体の不調に関わる相談が続いています。 



その不調は、感謝の想いがわかないから起きています。 


感謝の想いがわけば、ちょっとしたことに目配り気配りが出来、早く不調に気づくでしょう。 


愛する人に迷惑かけたり不安にさせたり心配はさせないはずです。 




メールアドバイス内で話すことがあります。 



わたしのことを好きなら、わたしの教えたことを疎かにせずに実践してよ。 成長した姿を見せてくれるのがなによりもわたしは一番嬉しいと。 



でも
成長したからと、誰かに上から目線で人に物言いしていることではないですね。 

ご恩返しが出来ないのに大きな口を叩くのは張り倒したくなる^^ 



わたしは確かに人に迷惑はかけてきたけれど、裏切ることはしてはいない。なぜなら、感謝の想いをその都度、伝えてきましたから。 


感謝出来る人となるために成長させられたのだと思います。 



だけど 世の中は 自分のやりたいことを押し込めたままにしてはいけないとか自分の生きたい人生を生きなさいと 人から離れてでもやりたいことはやるべきだというような風潮があるように感じます。 


そこに感謝は存在しないように感じます。 


自分のやりたいことをやることがご恩返しになると言われますが 
本当にご恩返しをしているなら、相手から許されるし仲も元通りになるはずなのです。 


自分勝手に離れて、その後 感謝の言葉も謝罪もないのは、心が離れてるだけでご恩返しとは言いがたい。 


体で感謝の想いを感じたら必ず自ら歩み寄ってしまうものだからです。

そして、そんな姿を見たら相手は許してしまうものです。




感謝の想いがわき上がらないのに、感謝している気になっている人が非常に多いと感じます。 


感謝している気になるのは、感謝がわき上がるものだということを知らないから。 


知らないのに下手な小細工をしてみたり隠してみたりする。。

隠してもわかるのです。



感謝は、頭で感謝しなければと思うものではなくて 心や体で確信めいた何かを感じるものです。 


ズキン❗とかじわ〜とか体で感じるもの。 


そして そうなる前には、自分の情けなさに涙が溢れ出るし、有り難くて思わず神様にひれ伏してしまうものです。 



頭で考えるのが感謝ではないのです。 





日々 わたしはメールアドバイスをさせていただいております。 


アドバイスでは、わたしの口や手を介してままのままさんの言葉が降ろされています。 


わたしは言葉を降ろす自分になるために修行を詰んできているのですが、そこにはままのままさんの言葉を学びに変えて成長させていただこうという気持ちがあるから、その都度、言葉が降ろされ歩んでいくことができてきました。 


ままのままさんはわたし自身でもあるので、自分自身に繋がっているということでもあります。 


自分に繋がるとは、こういうことで、自分と自分自身との信頼関係を結ぶには、この方の言葉は自分を高めてくれる言葉だから有り難くいただこうという姿勢になることでもあるのです。 


そのため メールアドバイスを受け取ってくださる方々にも わたしから溢れる言葉を学びに変えていこうという姿勢をまずは教えています。 


そうでないと、言葉が降りてこないからです。 


バカなことを言ってるとか宗教まがいだとか洗脳されているだとか、そのような心の姿勢の方には、言葉は降りないのです。 

そのため 心の姿勢には、わたしはとても厳しいです。 



洗脳されているだとか依存させているというのは、言葉を降ろす方の心の姿勢がネジ曲がっているのでしょう。 


メールアドバイスでは、ままのままさんの言葉を降ろし教えることをさせておりますが、わたし一個人は神に遣え、ままのままさんに遣えている身です。 


わたしにとって 神様やままのままさんは、自分の知らないことを教えてくださる有り難い存在です。


そして、神様やままのままさんだけでなく、周りにいてくれる家族や友達も自分の知らないことを教えてくれる存在です。 


誰もがそのような心の姿勢になれば、いさかいもなくなり平和な世界が訪れるのだと思います。 





人から見るとここ最近のわたしは“変わった”と思われるかもしれない。 

だけど それは他者からの評価でわたし自身はまるで変わっていない。 


ただ 優先順位がハッキリしてきたようで、より自分のしたいようにしていて、自分らしくなってきてるに過ぎないのだ。 


自分らしくというのは際限がないと思う。 


どこまでも自分らしくいられる。。。 



**************** 


相手の立場になって考えるということは、友達同士と知り合い程度では異なるもので、雇用主と従業員や店主と顧客といった利害関係の有無でも異なるもので、それは、礼儀に通じることでもあると思う。 


そして、このような関係で相手の立場になって考えることは、冒頭にも書いた自分らしさが根底になるものです。 


自分らしく生きているから、相手の立場になって考えることが出来るのだと思うし自分らしく生きてるから、相手の立場を理解出来るのだと思うのです。 


相手の気持ちや立場を理解出来るということは、同時に自分がわかり、自分らしく生きることがどういうことかが理解出来ていること。 



自分のことが理解出来ているから相手のことが理解出来るのですね。 



昨日も少し書きましたが、主語や目的語がなく、脈略もない話や質問をされる人は、自分というものを理解出来ていないから、自分の言葉を相手がどんな気持ちで受け取るかが想像できないのだと思います。 

想像することと理解することは、違うものですが、似通っている のだなあと感じます。 



どんなことでも想像したり理解することで次に駒を進めるように感じます。 


理解するというのは、理解しようという意欲があるから出来ることであり、そこには対象となる者への礼儀や感謝がないと出来ないことなのです。 


このように、理解しようという意欲や想像しようとする意欲を示すことが感謝を表すことなのです。




意欲が見られないのは感謝がないと思われるかもしれないということです。 

意欲は自己主張とは違うものなので。 




日々の生活に追われて、忘れているかもしれない人から受けた恩恵を思い出してみてください。 




人は自分がしたことは覚えているのに 自分が受けた恩恵は覚えていない人が少なくないと言われます。 


また 被害者意識の強い方は、特に自分の傷には意識は強くあるのに人からの恩恵には意識を持たなくて、恩知らずの思考回路になるようです。



恩知らずほど罪の重いものはないと言われます。 


感謝で返すことが当たり前のこの宇宙の中で恩知らずや恩を仇で返す行為はカルマを増やし幸せにはなれない行為です。 

そのため悪口も同じくカルマを増やす行為ですね。 



恩知らずの思考回路とは自分がお世話になったにも関わらず感謝することなく そこに後ろ足で砂をかける思考を持つことです。 


そう言われてみたらわたしもありました。 




わたしに軽くメールでお願いしておきながらその報告なくこちらから問い合わせても要領を得なかったりわたしに会いたいとわたしに時間を使わせながらお代を一切払わず人に奢ることをして徳積みしなさいと言われたこと。。。 




その後、ままのままさんから一切関わるなと言われました。 



わたしは許しますがままのままさんは、そういうことはうるさいです。 


ままのままさんのそんなところが嫌だなあと思っていましたがままのままさんの方が正しいようで宇宙の法則が働くようです。





人からの恩恵を大切にしないとカルマが増えますよ。 




昨日、読んでいた記事にこんなことが書かれていました。 


『魂経験を積んで修行みたいにして感覚を獲得した人の言葉は重いんですww
だから、たぶん、そういうのは、地球レベルの超偉い、達観した人の語り。』


この一文を読んで、まさにわたしだわ〜と思いましたが、そう体験をしてない人は、いくらわたしが声を大にしてもわからないということだなあと感じました。 

体験しないとわからないもので。


体験を怖がっていたりその必要のない人には届かないものなのだなあ〜 



愛とは相手の幸せを願うことです。 

がんじがらめにしたり自分の思い通りにしないもので相手の意思を尊重すること。 

相手の意思、それは表面的なものではなくて、深いところにある想い。 

それは相手を推し量って推し量ってこないとわからないものです。 


相手の信実をわかる、ことかもしれません。 


たいして交流ない相手の気持ちは読めるものでもなく深い付き合いするからわかるものなのです。 

表面的な付き合いしかしない人には出来ないものなのです。 

そういうものと捉えると良いでしょう。 


それ故、相手の意思を尊重するということは、相手と深い付き合いをしないと出来ないものかもしれませんね。 



相手の幸せって何なのかを突き詰めて考えることをしてきたわたしだからこそ言える言葉です。 

わたしは内観ばかりしてきましたが、相手の幸せを考えることも同時にしてきました。 


だから、愛を発揮することが出来るのだと思います。 


自分の愛を発揮したいなら、相手の想いに耳を傾けてみてください。敏感になれということではありません。耳を傾けるということです。 




先の記事で、 

“わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。” 

と書きましたが、 

待っていていただく間には、 

わき上がる想いがないことを詫びます。 



「感謝感じることが出来なくてごめんなさい」 

という想いがわき上がるからです。




自分の感情と向き合い続けると、感情の動きに敏感になります。 
敏感になるから、それを言葉にして伝えることが出来るのです。 



たまに言葉に出来ない想いが湧いてくる時もありますが、言葉にして伝えることを務めてきました。 



内観を繰り返すと、自分の心の動きに敏感になり それを伝えたり行動に表すことが出来るようになります。 
継続するから出来るようになるのです。 


日常的に生活の中で身に付けていくのです。 



礼儀や感謝を表すことは身に付いてこそ、だとわたしは考えています。 




伝統の記事で繋げていくと書きましたが、この想いこそが国常立宮豊雲野宮以前の伝統です。 


イザナギとイザナミの話しでイザナギがイザナミにたいしてそのような想いがあったなら、お姿を観てしまうことはなかったはずです。 
黄泉の国に踏み入れてしまったから、イザナギ以下は祓わねばならなくなったのです。 


祓いは無礼をお許しくださいという意味なのですから。 


美しいイザナミが愛する方に醜い姿など見せたくはない。 
そこで イザナギが驚いて逃げるだなんて、無礼以外何物もない。 


だから わたしはイザナギとは話しはしないんだ。 
イザナミさんとはよくお喋りするけど。 




昨日のコメントを読ませていただいて 
「内側からの想いに無視出来ない!」という想いは、人に対しての礼儀に通じると感じました。 




わたしは、今まで「感謝して生きる」というテーマで幾つも記事を書いてきていますが、この「内側からの想いに無視出来ない」という想いこそが感謝の根源だと思うからです。 




わたしは礼儀とは「〜しなければならない」ものではなくて、わき上がる想いが形になったに過ぎないと思うのです。 




礼儀正しい方の中でわき上がる想いでされてる方よりも形式的にされてる方の方が多いように思います。 




わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。 

そんな時は何故わき上がらないのだろうと内観します。 

待っている間(要は人を待たせている)に相手から感謝の強要されることもあります^^ 

しかし、嫌な気持ちになりながらでも待ちます。(超自分本意) 

そうして やっと、自分の内側から想いが発動されて、、、、実践させていただくのです。 



見せかけの礼儀は相手に失礼だと思うからです。 


しかし 世間では見せかけの礼儀が求められているように感じます。 


それは、想いは見えないからです。 


心の中で舌を出していても頭を下げればまかり通る人が多いからでしょうね。 


しかし 神様は騙せませんよ。 





わき上がる想いこそが礼儀だと感じるので、そこには謙虚さがつきまとうものだと思います。 



そのため わき上がる想いは自己主張とは思いません。 




見せかけの礼儀をされてる方々がわき上がる想いから発せられる礼儀に変わっていけますように。 

また 今は想いがわき上がらない人にも想いがわき上がるようになりますように。 




わたしは 自信満々のように見えますが、人よりも出来ないことが多いです。


思考が分散するため事務仕事も苦手だし、創作意欲はあるものの家事も苦手です。


だから、誰かしらに迷惑をかけて謝っています。

与えられたことは、自分の出来る限りを尽くします。
だけど、できないこともあるのです。
だから、ここまでは出来たけど ここからは助けてください とお願いをします。
お礼も欠かさずします。
そのお礼がピッピとペッぺであることも多々あります。


わたしはそれで良いと思っています。


だけど、いつも 最善を尽くしているつもりです。

でも、たまには抜けてます。たまじゃないかもしれないです^^



何かに秀でることは誇らしいことだけど 過剰に威張ることでもないと思います。


助けてくださる人がいるから、誇れることもできてくるのだし、そのためには 人に対しての感謝と思いやりと反省が必要だと考えています。



だから、何か得意なことがなければいけないことではなくて 自分のできなさを嘆いたり悲観するのではなくて そこを認めて真摯に受け取る気持ちが大切だと思っています。


絶えず、感謝するココロモチ、謝る清さが心を強くするのではないでしょうか?



指摘されたら、自分にすぐに問い掛け反省して謝ります。


心から反省し、次に繋げます。


でも わたしが悪くないときは謝りません。
でも 責めることもしません。


ただ 思考がストップするだけです。



要は、わたしの頭はコンピューターと同じで 誤った操作をすると、止まるのです。


思考停止します^^



えらいこっちゃ

このページのトップヘ