この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: 感謝をして生きるということ


日々 わたしはメールアドバイスをさせていただいております。 


アドバイスでは、わたしの口や手を介してままのままさんの言葉が降ろされています。 


わたしは言葉を降ろす自分になるために修行を詰んできているのですが、そこにはままのままさんの言葉を学びに変えて成長させていただこうという気持ちがあるから、その都度、言葉が降ろされ歩んでいくことができてきました。 


ままのままさんはわたし自身でもあるので、自分自身に繋がっているということでもあります。 


自分に繋がるとは、こういうことで、自分と自分自身との信頼関係を結ぶには、この方の言葉は自分を高めてくれる言葉だから有り難くいただこうという姿勢になることでもあるのです。 


そのため メールアドバイスを受け取ってくださる方々にも わたしから溢れる言葉を学びに変えていこうという姿勢をまずは教えています。 


そうでないと、言葉が降りてこないからです。 


バカなことを言ってるとか宗教まがいだとか洗脳されているだとか、そのような心の姿勢の方には、言葉は降りないのです。 

そのため 心の姿勢には、わたしはとても厳しいです。 



洗脳されているだとか依存させているというのは、言葉を降ろす方の心の姿勢がネジ曲がっているのでしょう。 


メールアドバイスでは、ままのままさんの言葉を降ろし教えることをさせておりますが、わたし一個人は神に遣え、ままのままさんに遣えている身です。 


わたしにとって 神様やままのままさんは、自分の知らないことを教えてくださる有り難い存在です。


そして、神様やままのままさんだけでなく、周りにいてくれる家族や友達も自分の知らないことを教えてくれる存在です。 


誰もがそのような心の姿勢になれば、いさかいもなくなり平和な世界が訪れるのだと思います。 





人から見るとここ最近のわたしは“変わった”と思われるかもしれない。 

だけど それは他者からの評価でわたし自身はまるで変わっていない。 


ただ 優先順位がハッキリしてきたようで、より自分のしたいようにしていて、自分らしくなってきてるに過ぎないのだ。 


自分らしくというのは際限がないと思う。 


どこまでも自分らしくいられる。。。 



**************** 


相手の立場になって考えるということは、友達同士と知り合い程度では異なるもので、雇用主と従業員や店主と顧客といった利害関係の有無でも異なるもので、それは、礼儀に通じることでもあると思う。 


そして、このような関係で相手の立場になって考えることは、冒頭にも書いた自分らしさが根底になるものです。 


自分らしく生きているから、相手の立場になって考えることが出来るのだと思うし自分らしく生きてるから、相手の立場を理解出来るのだと思うのです。 


相手の気持ちや立場を理解出来るということは、同時に自分がわかり、自分らしく生きることがどういうことかが理解出来ていること。 



自分のことが理解出来ているから相手のことが理解出来るのですね。 



昨日も少し書きましたが、主語や目的語がなく、脈略もない話や質問をされる人は、自分というものを理解出来ていないから、自分の言葉を相手がどんな気持ちで受け取るかが想像できないのだと思います。 

想像することと理解することは、違うものですが、似通っている のだなあと感じます。 



どんなことでも想像したり理解することで次に駒を進めるように感じます。 


理解するというのは、理解しようという意欲があるから出来ることであり、そこには対象となる者への礼儀や感謝がないと出来ないことなのです。 


このように、理解しようという意欲や想像しようとする意欲を示すことが感謝を表すことなのです。




意欲が見られないのは感謝がないと思われるかもしれないということです。 

意欲は自己主張とは違うものなので。 




日々の生活に追われて、忘れているかもしれない人から受けた恩恵を思い出してみてください。 




人は自分がしたことは覚えているのに 自分が受けた恩恵は覚えていない人が少なくないと言われます。 


また 被害者意識の強い方は、特に自分の傷には意識は強くあるのに人からの恩恵には意識を持たなくて、恩知らずの思考回路になるようです。



恩知らずほど罪の重いものはないと言われます。 


感謝で返すことが当たり前のこの宇宙の中で恩知らずや恩を仇で返す行為はカルマを増やし幸せにはなれない行為です。 

そのため悪口も同じくカルマを増やす行為ですね。 



恩知らずの思考回路とは自分がお世話になったにも関わらず感謝することなく そこに後ろ足で砂をかける思考を持つことです。 


そう言われてみたらわたしもありました。 




わたしに軽くメールでお願いしておきながらその報告なくこちらから問い合わせても要領を得なかったりわたしに会いたいとわたしに時間を使わせながらお代を一切払わず人に奢ることをして徳積みしなさいと言われたこと。。。 




その後、ままのままさんから一切関わるなと言われました。 



わたしは許しますがままのままさんは、そういうことはうるさいです。 


ままのままさんのそんなところが嫌だなあと思っていましたがままのままさんの方が正しいようで宇宙の法則が働くようです。





人からの恩恵を大切にしないとカルマが増えますよ。 




昨日、読んでいた記事にこんなことが書かれていました。 


『魂経験を積んで修行みたいにして感覚を獲得した人の言葉は重いんですww
だから、たぶん、そういうのは、地球レベルの超偉い、達観した人の語り。』


この一文を読んで、まさにわたしだわ〜と思いましたが、そう体験をしてない人は、いくらわたしが声を大にしてもわからないということだなあと感じました。 

体験しないとわからないもので。


体験を怖がっていたりその必要のない人には届かないものなのだなあ〜 



愛とは相手の幸せを願うことです。 

がんじがらめにしたり自分の思い通りにしないもので相手の意思を尊重すること。 

相手の意思、それは表面的なものではなくて、深いところにある想い。 

それは相手を推し量って推し量ってこないとわからないものです。 


相手の信実をわかる、ことかもしれません。 


たいして交流ない相手の気持ちは読めるものでもなく深い付き合いするからわかるものなのです。 

表面的な付き合いしかしない人には出来ないものなのです。 

そういうものと捉えると良いでしょう。 


それ故、相手の意思を尊重するということは、相手と深い付き合いをしないと出来ないものかもしれませんね。 



相手の幸せって何なのかを突き詰めて考えることをしてきたわたしだからこそ言える言葉です。 

わたしは内観ばかりしてきましたが、相手の幸せを考えることも同時にしてきました。 


だから、愛を発揮することが出来るのだと思います。 


自分の愛を発揮したいなら、相手の想いに耳を傾けてみてください。敏感になれということではありません。耳を傾けるということです。 




先の記事で、 

“わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。” 

と書きましたが、 

待っていていただく間には、 

わき上がる想いがないことを詫びます。 



「感謝感じることが出来なくてごめんなさい」 

という想いがわき上がるからです。




自分の感情と向き合い続けると、感情の動きに敏感になります。 
敏感になるから、それを言葉にして伝えることが出来るのです。 



たまに言葉に出来ない想いが湧いてくる時もありますが、言葉にして伝えることを務めてきました。 



内観を繰り返すと、自分の心の動きに敏感になり それを伝えたり行動に表すことが出来るようになります。 
継続するから出来るようになるのです。 


日常的に生活の中で身に付けていくのです。 



礼儀や感謝を表すことは身に付いてこそ、だとわたしは考えています。 




伝統の記事で繋げていくと書きましたが、この想いこそが国常立宮豊雲野宮以前の伝統です。 


イザナギとイザナミの話しでイザナギがイザナミにたいしてそのような想いがあったなら、お姿を観てしまうことはなかったはずです。 
黄泉の国に踏み入れてしまったから、イザナギ以下は祓わねばならなくなったのです。 


祓いは無礼をお許しくださいという意味なのですから。 


美しいイザナミが愛する方に醜い姿など見せたくはない。 
そこで イザナギが驚いて逃げるだなんて、無礼以外何物もない。 


だから わたしはイザナギとは話しはしないんだ。 
イザナミさんとはよくお喋りするけど。 




昨日のコメントを読ませていただいて 
「内側からの想いに無視出来ない!」という想いは、人に対しての礼儀に通じると感じました。 




わたしは、今まで「感謝して生きる」というテーマで幾つも記事を書いてきていますが、この「内側からの想いに無視出来ない」という想いこそが感謝の根源だと思うからです。 




わたしは礼儀とは「〜しなければならない」ものではなくて、わき上がる想いが形になったに過ぎないと思うのです。 




礼儀正しい方の中でわき上がる想いでされてる方よりも形式的にされてる方の方が多いように思います。 




わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。 

そんな時は何故わき上がらないのだろうと内観します。 

待っている間(要は人を待たせている)に相手から感謝の強要されることもあります^^ 

しかし、嫌な気持ちになりながらでも待ちます。(超自分本意) 

そうして やっと、自分の内側から想いが発動されて、、、、実践させていただくのです。 



見せかけの礼儀は相手に失礼だと思うからです。 


しかし 世間では見せかけの礼儀が求められているように感じます。 


それは、想いは見えないからです。 


心の中で舌を出していても頭を下げればまかり通る人が多いからでしょうね。 


しかし 神様は騙せませんよ。 





わき上がる想いこそが礼儀だと感じるので、そこには謙虚さがつきまとうものだと思います。 



そのため わき上がる想いは自己主張とは思いません。 




見せかけの礼儀をされてる方々がわき上がる想いから発せられる礼儀に変わっていけますように。 

また 今は想いがわき上がらない人にも想いがわき上がるようになりますように。 




わたしは 自信満々のように見えますが、人よりも出来ないことが多いです。


思考が分散するため事務仕事も苦手だし、創作意欲はあるものの家事も苦手です。


だから、誰かしらに迷惑をかけて謝っています。

与えられたことは、自分の出来る限りを尽くします。
だけど、できないこともあるのです。
だから、ここまでは出来たけど ここからは助けてください とお願いをします。
お礼も欠かさずします。
そのお礼がピッピとペッぺであることも多々あります。


わたしはそれで良いと思っています。


だけど、いつも 最善を尽くしているつもりです。

でも、たまには抜けてます。たまじゃないかもしれないです^^



何かに秀でることは誇らしいことだけど 過剰に威張ることでもないと思います。


助けてくださる人がいるから、誇れることもできてくるのだし、そのためには 人に対しての感謝と思いやりと反省が必要だと考えています。



だから、何か得意なことがなければいけないことではなくて 自分のできなさを嘆いたり悲観するのではなくて そこを認めて真摯に受け取る気持ちが大切だと思っています。


絶えず、感謝するココロモチ、謝る清さが心を強くするのではないでしょうか?



指摘されたら、自分にすぐに問い掛け反省して謝ります。


心から反省し、次に繋げます。


でも わたしが悪くないときは謝りません。
でも 責めることもしません。


ただ 思考がストップするだけです。



要は、わたしの頭はコンピューターと同じで 誤った操作をすると、止まるのです。


思考停止します^^



えらいこっちゃ

わたしは子供が居る身だからかもしれませんが、子供にはわたしの背中を見せて生きていきたいと思っています。


だから、自分を律することもするし、反省もするし、感謝を行動に表していくこともするのかもしれません。


わたしの想いを娘に繋げていきたいと思うから。


子供は親が教えていないことはできないものですし、親が示すことを覚えていくものだと思っています。



親が口だけで説教しても想いは伝わらなくて、人から何かしていただいたら、ありがとうの想いを伝えることは当然だと思うし、その伝え方も様々で、それを実践して見せることは親の役目だと思うのです。


困った時の対処法や人に対してのお願いの仕方や感謝の表し方は、ただ、口で教えても身に付かないものだから 毎日の生活の中で親が実践して見せて教えていくことなのです。


教える側の親が何をしたらよいかわからない、知らないでは、子供はわからないまま生きていくのです。


それもあり、わたしは毎日メールアドバイスをさせていただいています。

親代わりとして、です。


でも わたしもできていないこともあるし、逆に学ばされることもあります。


わたしがブレると周りがブレるから 毎日、反省して生きています。



感謝とはわきあがる想いですが、それをいかに行動に表していくかだと思います。


また 人から何かをしていただいても感謝がわきあがらない人もいます。


心が閉じているのでしょう。


感謝はしなければいけないものでなく、わきあがる想いです。


想いがわきあがらないとできないものなのです。

そんなときは、自分を卑下するのではなく、自分はまだ、感謝の気持ちがわきあがらないから相手に失礼のないようにしよう、と謙虚に受け止めることなのです。


ありがとうとしか言えなくてごめんなさいという真摯な気持ちを持つことなのです。

人の気持ちがわからないのは、人に尽くしたことがないから 人に与えたことがないから ではないでしょうか?



自分が人に対して 何かをして差し上げたり 人の尽くしたことがあるならば 想いがあるはずです。



想いが感謝というものだと思います。



ありがとうという想いがあるなら、肉体を使って伝えることができるはずです。


魂だけならまだしも、肉体があるのですから抱きしめたり駆け寄ったりキスしたり言葉を駆使したりできるはずです。



わたしたちは肉体をまとって生まれてきています。



わたしはそうするために生まれてきたと思っています。



魂のままだと、愛する人を抱きしめられないもの。


お世話になってもありがとうと言葉を発することもできない。。。


伝わらない、もどかしい。



わたしたちを守っていてくださる神様仏様は、きっとそう感じているのだろうと思います。



テレパシーだけでは片手落ちで 気づきを与えることはできるかもしれないけれど ふれ合うことはできないね。



神様仏様の気持ちを考えてみると どう生きたらよいのかわかると思います。




愛されているなら、その想いにどう報いますか?

守られているなら、その想いにどう報いますか?

わたしは 人に自慢するために、人にして差し上げたことをあれこれ書いているわけではないのです。


誰かに何かをして差し上げても そんなことは多すぎて忘れてしまっています。


だけど、あえて書いているのは お世話になった方に対してどう接しているかを ひとりひとりが振り返ってみてほしいからです。


ただありがとうの言葉だけなのか、会いに行って伝えるのか、感謝の気持ちを込めたものを渡すのか、、、、


与えたことのない人は与える側の気持ちがわからないと書きました。


それは、人に尽くしたことのない人は尽くす側の気持ちはわからないということです。


どんな想いで尽くしているのかわからないと思います。


先記事の友人に対しては元気で暮らしてほしい、ただ生きていてほしい、それしかありません。



また、お世話になった方(ご両親を含む)にどう接して行動しているかを自分の子供に見せるのです。

子供を育てるには、自分の背中を見せて育てます。


自分の行動が自分の子供を育てて、自分の想いを受け継がせていくのです。


その意味を込めて、わたしはわたしの行動を細かく書いています。



自分のできる限りを尽くす、自分の考えるできる限りを考えて行動する。

それが感謝を表すことだとわたしは思っています。


口先だけじゃないのです。



ありがたいと思うから、頭を使って 自分のできる限りを考えて行動をするのです。


わたしの行動はすべて娘は把握しています。


だから、娘も人に対しては同じように接します。


親がお世話になった方(ご両親含む)への行動を見て子供は育つものです。



わたしの行動を見て人にして差し上げるようになってほしい想いを込めて書いています。

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