この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

わたしは、地球にグラインドしています。 わたしの意識は地球に同調しています。 わたしの想いは地球の想いです。 わたしの叫びは地球の叫びです。 わたしの言葉は地球からのメッセージです。 少しでも、みなさんに 地球の想いを感じていただけたら幸いです。

カテゴリ: 感謝をして生きるということ


内側からわき上がる感謝を感じると、心がじ〜んとしてくるね。 



ありがとう。 

ありがとう。 



どれだけ口にしても足りないくらい、ありがとうが溢れ出す。 






『感謝』と一口に言うけれど、その根底には敬う心が隠れてる。 




そのため、その想いを形にしようと動くとき、その感謝の想いが体に浸透されて手足が動かされていく。 



それが謙虚さになる。 




溢れ出した感謝は謙虚さに変化して形作られるんだ。 







「ありがとう」だから、どうするの? 





「ありがとう」という溢れ出した想いを流れ出したままにしない。 


それは、わたしの命だから。 




それが感謝を感じて生きるということ。 


感謝を繋げるということ。





「ありがとうございます」という言葉は、有ることが容易ではないものを頭の上に掲げて頭を下げて頂戴するということを差します。 


有ることが容易ではないということは、本来なら無いものなのです。 


本来なら無いものが有るのです。 


それってどういうことなのでしょう。


不思議なことです。 
魔法なのかしら? 


本来なら無いものが存在していて、存在しているだけでなく自分にいただけるのです。 


だからこそ「ありがとうございます」と、言葉を発して、頭を下げて『感謝』申し上げるのです。 



「ありがとうございます」 
という言葉はそんな意味があるのです。 




本来なら、有ることが難しいものだから、頭を下げて(掲げて)頂戴する。 



頂くものは、それだけ神性さがあり貴い(尊い)ものなのです。 


「ありがとうございます」と頂いて、どこかに放置して腐らせたりすることは、「ありがとうございます」の言葉に恥じる行為です。 

口先だけで 「ありがとうございます」を使っている人が多いです。 




「ありがとうございます」と頂戴したなら、その時限りでなく、美味しかったとか役立ちましたとか、言えるはずなのです。 


『感謝する』とか『感謝して生きる』ということは、そう出来て当たり前のことなのです。 


その時、「ありがとうございます」と頂いたら 次にお会いした時に、もう一度、お礼がてら報告するのは当たり前のことなのです。 



「ありがとうございます」と頂いたなら、出来て当たり前のことです。 


出来ないなら、頂かないことです。 


相手に失礼です。 




どうして君は不平不満を言うの?

どうして君はあれが嫌い、これが嫌いって言うの?

空はこんなに青いのに、太陽はこんなにも 僕たちを照らし続けてくれるのに

それだけでもありがとうって思えることなのに

今、君は ご飯が食べれなくて困ってるの?

今、君は 死の恐怖におののくような戦場にいるのかな?

ちょっと 考えてごらんよ。

ご飯が食べれて、暖かいお布団で眠れて。。。

何が 不満なの?

寂しい?

君が壁を作っているからだよ。

好きな人に愛されたい?

君が君自身を愛していないからだよ。

自分の問題を他人にすり替えちゃいけないよ。

空はこんなに青いのに、太陽はこんなにも、暖かく包んでくれるのに
それを 当たり前にして 不幸探しをしたいのかな?

自分の不幸を自慢したいのかな?

この地球が、太陽が、大地が 君を包んでも それを当たり前にして 不幸探しを続ける限り 君は幸せにはなれないよ。

すぐ天を仰げば、愛を光を照らしてくれる。

私たちを 包んでくれる。

愛してくれる。

君は、この光を感じないの?

君は、この愛を感じないの?

ここに 生かされていることに感謝しよう。

私たちは愛されている。

私たちは守られている。



今、現代に生きている人は

『地球に感謝ができない』

という 障害を持って生まれてきている と感じるのは わたしだけだろうか?





やたらと、「ありがとうございます」を使う人がいる。 



何に、「ありがとうございます」なの? 


何に、感謝してるの? 

目的は?意図は? 



真剣に生きてる人に向かって、意味不明な感謝ほど不愉快なものはない。 


感謝をバカにするなと言いたい。



有ることが難しいと思っていないでしょ。 

有ることを当たり前にしてるでしょ。 

当たり前に受け取ってるから、いい加減な気持ちで扱う。 

丁寧に、大切に扱わない。
大切に扱わないから、汚れたらすぐに捨てる。

使い捨てですか? 



無償の愛を使い捨てする人には、その本質の想いは届かない。 


有ることが難しいから頭の上に乗せて賜ろうと想わない人には、本質の想い=真実は受け取れないし、届かないものです。 



「ありがとうございます」という言葉は軽々しく使うものではありません。


 実際、思いやり溢れた人となって人間生活送るのは至難の技なのです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



とはいっても 普通に、思いやり溢れてみえる人っているものです。 


神対応?される人。 


そういう人を観ると、つい 自分と比べてしまうのです。 


そういう人って 軽々、この世界を生きてるように見えるものです。 


実際、軽々 生きてるのですが ただ、軽い♪だけだったりする。 


深く考えずに生きてる。 
人に迷惑かけても、自分は思いやり溢れた人だからと 迷惑かけてることがわからない。 


そんな人を人は思いやり溢れた人だと称賛するから気づかない。 



実は、迷惑かける人と思いやり溢れると言われている人は紙一重なのです。 


そこを見習う人が増えていますね。。。 



思いやりなくてもいいのです。 


自分を知って、正直になってくださいね。 



本当に、思いやり溢れた状態で生きるというものは、人として生きていくのが辛いものです。 


辛く苦しいものです。


人に対しての不満は人一倍あるのに 人に対しての思いやりや謙虚さがまるでない人がいます。 

それでいて、神様仏様事をされている。 


自分は思いやり溢れた人だと錯覚している。 


そろそろ、自分の思いやりのなさを認める時期にきている。 




思いやり溢れる人は良い人だ。 

思いやり溢れることは素晴らしい。 



わたしは、そうは思わない。 


思いやりって、心からわき上がるものだし いつもいつもわき上がっていたら、人として生きるのに苦労するよ。 


結局、不満があるのは 思いやりで満たされる自分になりたい、とか 人から称賛されたい という気持ちがあるからだと思う。 

でも 実際、思いやり溢れた人となって人間生活送るのは至難の技なのです。 


そんなこと考えずに、思いやりない自分でもいいじゃないかと自分を認めていたら、正直に生きていると称賛されて、嬉しくなって 心が温かくなり、思いやりが溢れるものです。 


いつもいつも思いやりがわき上がっていたら まっすぐ歩けなくなるよ♪ 



そういうものだよ♪

日々、命のあることに感謝して粛々と生きる。 




昨日の天皇陛下のお言葉を拝聴して、そう感じました。 



今までは、天皇陛下が現人神として存在してくださっていましたが、退位されることで その役目を終えられます。 


次に続く皇太子様には継承されずに終わります。 

それは どういうことかというと 誰もが、現人神となって生きていく世の中になっていくことを指します。 



誰もが、現人神になって生きていくのです。 



そのためには、毎日 命のあることに感謝して粛々と生きていくのです。 


現人神である天皇陛下に頼っていた時代は終わろうとしています。 



神様は良い子にはプレゼントをくださいます。 

わたしは、それを預かりますから。


わたしがこの人に力を貸してあげたいと思うことがありますが、神様から許可されないことは、わたしは出来ません。 



わたしは神様に忠実に動かされます。 


わたし、個人の想いがあっても忠実に動かされます。 





わたしは、日々、わたしを動かされていきたいと願って生きています。 



願って生きています。 





感謝というのは厄介である。 

人によっては、感謝の意味の受け取り方が違うから。 

人それぞれの感謝の意味がある。 




『感謝が大事だよ』 

と言われたとする。 


何に感謝するの? 

感謝の強要ですか?


わたしは、そう捉えてしまうほど 感謝という言葉には敏感です。 


感謝って自分自身の内からわいてくるものだから、人から強要されることではないと考えています。 




自分の内側から感謝がわき上がるようなココロモチで常に生きていれば良いだけでしょ。 


自ら、『ありがとう』 と言葉を発することや感じることや 人から『ありがとう』と言われることは まあ、素直に受け取れます。 

感謝の心が感じられるからです。
こちらも温かい心に満たされます。 

まあ、と書いたのは 心が伝わってくるので、わざわざ言葉に出さなくてもいいよ、という意味です。 
わたしとしては当たり前のことだから わざわざ必要ないです。 




しかし、感謝を「今のあなたが居るのは誰のお陰ですか?わたしにに感謝をしなさい」という意味で相手に使われる方がいらっしゃいます。感謝の強要ですね。 


有難うございますという言葉は、本来なら有ることが難しいものが「有る」ということを示されていて、「有る」ことが難しいのだから、頭を下げて 頭の上に献上していただきましょう という意味なのです。労い、敬いが込められています。
だから、有難うございます と頭を下げるのです。 


ということは、感謝の強要というのは、有ることが難しい存在は感謝を強要している本人を指すことになります。


自らが有ることが難しい存在だと示しているのです。

労い敬われなければならないと自らが発しているのです。



わたしにはそんな発想がないので、
固まってしまいます。 



頂戴するものは、何人かの手によってつくられたりするため、労い敬う心で有難うございますと頭を下げるのはわかります。 


労う心や敬う心も自らの心からわき上がる心です。 


それを自らが強要するという発想がわたしには理解不能です。 



わたしがぴっとかぺってエネルギーを動かす行為は無意識に簡単にやってしまうので 難しいことではないから、有難うございますと頭を下げられることがこそばゆいのです。 


だから 感謝の強要をされる方は、自分にとってとても難しいことをやって捧げているのだから、相手から労いや敬われたいということです。 


確かに、「有ること」は難しいことかもしれませんが 相手にそれをわざわざ強要しなくてはいけないココロモチというのがわたしには理解ができないです。 


いつも無理している、ということなのです。 


何かを犠牲にしているから そんな発想になるのかもしれませんね。 




感謝というのは 様々な立場で使い方が違うということですね。 





自分の信念を貫き通すことはある意味スゴいと思う。 


なぜなら 周りを見ないから。 


なりふり構わず、そこに意識を集中できるから。 




だけど わたしたちは一人で生きているわけではなくて、家族や仲間と一緒に生きているんだ。 


周りを考えない生き方ってどうだろう? 


敵をつくるのではないだろうか? 




結局 周りの者が、そんな周りを見ずに生きている人を許すんだ。


わかっているのかな? 


自分は許されているってわかっているのかな? 



わかっていたら、もっと 周りを見渡して、共存し合って仲良くし合って生きていけると思うんだ。



許されていることをわかっていたら感謝できると思うんだ。 




わたしは 自分が何者なのかが知りたくてスピリチュアルな世界に興味を持って探究をしてきました。 


最近では、ドンドン自分が何者かのサインが降りてきます。 


そのため その自覚をし、使命や役割を実践してきていますが、その一方で落胆することがあります。 



人が人として生きるということは、魂の使命や役割だけで生きてはいけなくて、肉体を持っている人間としての欲も必要なのですね。 


なかなか叶えられない欲をわたしは持って生きています。 


それがあるから、人として生きていられるし、人の想いを思い図ることができる。 


人として生きるってとても貴重なのですよ。 




わたしは、いろいろと神様と呼ばれる存在とお話しをさせていただくことができますが 人として生きたことがある存在とそうでない存在とでは違いがあります。 


想いを推し量ることです。 


なってみないとわからないことがある。 



そのために、わたしは地球に来たんだなあとわかります。 






自分が何者であるかを自覚させられる度に、想いが交差します。 


歴史的なことも思い出しています。


思い出しています。 


この地球での歴史的なことです。 



これからの地球のいく末。。。 



人それぞれ、役割が違い それを全うするだけなのですが、全体的なことがわかるがだけに さまざまな想いが交差します。 


人として生きていないとわからない想いってあるのです。


人として生きているから、アセンションの牽引を任されているんだなあとわかるのです。 



人としての想いを大切にしたいですね。 




次元上昇を助ける存在はいくらでもいる。 

だけど 人として生きていないとできないことがある。 

それをこれから創り上げていく。 




このページのトップヘ