この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

わたしは、地球にグラインドしています。 わたしの意識は地球に同調しています。 わたしの想いは地球の想いです。 わたしの叫びは地球の叫びです。 わたしの言葉は地球からのメッセージです。 少しでも、みなさんに 地球の想いを感じていただけたら幸いです。

カテゴリ: 思いやり

確かに 取っ付きにくい人って居ると思います。


何を考えているのかわからない人

自分のことを話したがらない人



また、こんなことを言って失礼かな と思いつつ、言わなきゃいけない時もあるし


人を全否定してくる人もいるし


横柄な人


上から目線な人


攻撃的な人


初めから、疑ってくる人


こちらの話を聞かない、遮る人


言わないけど、しぐさでバカにし てくる人


感謝を求めてくる人


誉めてもらいたい人


威張る人




それなら そこを満たしてさしあげればよいのです。


その方が満たされるまで満たしてさしあげればよいのです。



満たしつつ、心の中でバカにしていてはいけません。



満たしつつ、相手を敬い、思いやるのです。


心から敬い、出逢いに感謝をするのです。


誰に対しても変わらず接するのです。



相手が何か自分にとって不利になることをしてきたとします、


そしたら それは、何かの間違いだ と思えばよいのです。


それか よほどの理由があるはずだと思えばよいのです。



そう思えば、いさかいはなくなります。





どなたも 大切に接してもらいたいのです。



自分が大切にされたいなら まずは、相手を大切に接することなのです。




それを 日常にすることです。



仕事だからじゃない。


特定の人だけに限定しない。


目に映るすべての人に、そう接するのです。




そうやって、生きていると 心が穏やかになってきますよ。



お試しください。

誰もが尊重されたい。 


だったら、弱者と呼ばれる人の味方をしても良いと思う。 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


人は対等だと言うけれどそれは魂の話しで 男女の違いや身体面に年齢など様々な違いを持ってこの世界で生かせていただいている。 


この人は弱い人とどんな基準で決めるのかは定かではないけど、明らかに弱いと定められる人がいて、そのような人は法的に守られている。 


しかし その法的に守られていることを武器にして振る舞う人もいるけれど  どこから見ても、守らなければならない人自体いるのです。 



その認識が甘くなっているなあ、と感じます。




身体が自分の思うように動かせなかったり、明らかに介助が必要な人でもお口が達者だと人からそのように思われない。 


文句が槍のように出てくる人がいる。 


それは、自分の思うようにいかないことがあったり人が思い通りに動かないせいもある。 


確かに、自分の物差しで人を判断することは違うことかもしれないが、自分の身体を自分が動かせない身である場合は譲歩してもいいと思うな。 



幸せと感じることは人それぞれ違うもの。 



誰もが尊重されたいし誰もが幸せを感じていたい。 



だったら、隣に居る身体を不自由にしている人の槍を持った小さな願いを叶えてあげようと思う心は持ってもよいのだと思う。 


槍があったとしても願いに大きいも小さいもないと思う。 


誰から見ても明らかに身体が弱かったり不自由な人の明らかに小さな願いを叶えてあげようと思わない行為は、愛じゃない。 


優しくない。 


槍のある言葉でさえも包んであげられたなら、その槍の先はすぐに丸まるものなんだ。。。 



誰もが尊重されたいし優しくされたいんだ。 






お金が欲しい、お金持ちになりたい、収入を増やしたい と聞きますが、収入が増えたら増えただけ、責任も増えるってご存知ですか?  


満たされたら満たされただけ、背負うものは大きくなります。 


そのため、何かしたいとか何か欲しいとか思わなくなり、結果 入ってきても自分のために使おうと思わなくなるものです。 




最近のわたしは、まさにそんな状態で、前にも増して欲がなくなったと同時に 責任感?も以前にも増したので なんともどっしりとした生活を過ごしています。 


これには、自分としても不思議で、ゆったりどっしり過ごしています。 



また 特に重要でもない話をされると 雑音にしか聞こえないため、受け答えも億劫になり口数も少なくなりました。 


それなのに、自分都合でわたしの都合を伺うことなく矢継ぎ早に話してくる人もいます。 


わたしの都合は関係なく、自分の意見だけ先に言っておけば、あとはわたしが考えて行動してくれるだろうと、わたしがすべてを受け入れてくれるとタカをくっているのです。 


わたしは最終的には受け入れますが、わたしの都合を伺ってこない人は最初は受け付けません。 


相手都合では動かないのです。 



自分が100%受け入れOKになってから話を聞くようにしています。 





相談内容で、具体性に欠けるものは、受けることは難しい。 


なぜなら、こちらから、「何があったの?」と聞かなきゃいけないようなことはメールのやり取り上で面倒だからだ。 


相談があるなら 単刀直入に具体的に言ってほしい。 


人の勘をひいて相談があるようなそぶりも迷惑です。  


こちらから、「どうしたの?」「何があったの?」と聞かなきゃいけないぐらい無駄なことはないと思うんだ。 


よく娘にも叱るけど、「〇時に電車に乗ります」と送られてくると、「何時にどこにつくの?」と返信しなければならない。 

「〇時に〇〇〇につくから迎えに来てください」 

と送られてこれば、「了解」と返信すればよいだけのこと。 



こんな些細なことと思うかもしれないが それができる人とできない人がいます。 


人を思いやる気持ちがないからできないのだと思います。 


人を思いやり気持ちがあれば気がつくはずだから。



言いたいことがあるならハッキリと。 


聞きたいことがあるならハッキリと。 


箇条書きにしてくれた方が受ける方も楽なのです。 


頭ともシッポともつかないことをダラダラ言われても いったい何が言いたいのかわからない文章は流すしかない。 


報告なら報告。 連絡なら連絡。質問なら質問。相談なら相談。 
らしく、書いてくれないと迷惑です。 




それが人とコミニュケーションをとるためのマナーです。 



そしてまた 自分の思い込みで話を進めている場合の相談も厄介です。 


事実は事実でしかないのに それに基づく自分の主観が根強く、思い込んでいる。 


その思い込みは思い込みなだけで 事実とは異なるからです。 


そして その思い込みが前提で相談される場合も厄介です。  


事実だけ教えてくれれば、それを判断するのはわたしです。 


思い込みの強い人はとかく自分の判断が間違いだと気づきにくい。 


ただの思い込みだと指摘しても それを受け入れることが容易ではないようです。 


自分の過ちを認められない。 


相談よりも間違いを訂正することから始めなければならないので厄介です。 


人とのコミニュケーションが苦手だと言う人は、このように 思い込みが激しいか 言いたいことを箇条書きにすることが苦手なのだと思います。 



でも 苦手というよりも思いやりがあれば、防げることですね。 


苦手だからと逃げていても解決しないものです。


まずは 相手を思いやる心からです。 




だったら わたしは思いやりがないですって? 


わたしは、無駄だと言いながらも教えます。 
迷惑だと言いながらも教えます。 



人を放置してそのままにはしないです。 





気づきが起きるためには、何か感謝できることが起きること。 


だから、人に気づきを起こそうと思うならば、人から感謝されることをすることなのです。 


人から感謝されること


相手の立場を思いやり行動を起こすこと 




相手の立場を考えない行動は逆に相手を怒らせてしまうことになり逆効果になります。 




人によって感謝のポイントは違います。 


人それぞれです。 



通りいっぺんのことをしても感謝される場合もあれば感謝されない場合もありますね。 



その時、その人の立場になって、その人を想い、考えることです。 


気配りとも言えます。




わたしは、日々 その時々において 人の立場を考えて行動をしています。 


心願祈願もそうですが、いつもいつもです。 


それが癖になってしまっているので、頭や身体が勝手に動いてしまいます。 


気付きを起こしたいわけでも感謝されたいわけでもなく ただ、自分がそうしたいだけなのです。 


だから 今回、このようなことを書いていて わたしが日々の生活でしていることは 人に気付きを起こすことなんだなあ と気付きました。 


わたしとしては無意識にやりたいからやってるだけなんです。 



鈍感なわたしです。 


だから こうやって書くとわかるのです〜 



心から詫びるためには、まずは 自分の過ちを認めることから始まります。

自分の過ちを認めない限り 人は謝る気持ちにならないからです。


「過ち」

間違いとも言います。


これは 人それぞれ認識の違いがあります。

育った環境もあります。

自分の認識では間違いはないのだけど、自分の言動で人を不愉快にさせてしまう場合もあります。

その時には、「あなたの言動で不愉快になることがあるんだよ」と事実を教えるのです。


そうすると

自分は間違いをおかしてしまったわけではないけれど、自分の言動の結果、人を不愉快にさせてしまったことは間違いない事実なんだな と認識します。


そう、事実を 素直に受け取ったら 「不愉快にさせてごめんなさい」と謝ることができるのです。


人は間違ったことをしていないのに、謝れないのです。


それは 人の尊厳に関わるからです。


不愉快にさせてしまったことに対して詫びるのです。


ただ、ごめんなさい ではなくて 何で謝るのかを自分にも相手にも認識させるのです。




また 実際に、間違った行為をしてしまった場合があります。

本人は認識していなくても間違いをおかすことはあります。


その場合にも、あなたの間違いは◯◯だよ、と教えます。


すると 娘は、顔を歪めて驚きます。


「知らなかった( ; ゜Д゜)」


穴があったら入りたい気分になるようです。


すぐ、謝りの電話なり手紙を書くように勧めます。

また 一度だけでなく 許していただけるまで、通わせます。


心からの謝罪は相手の心に響くのです。



わたしは、心からの謝罪はすぐに許します。早いです^^


だけど 人によっては、謝罪を受け取れないくらい心が傷ついている人もおられるのです。


それは、間違いの度合いにもよりますね。


その場合は、相手や自分の尊厳を保ちつつ低身低頭で接するのです。



言葉にするのは簡単ですが 手取り足取り教えます。


間違いをおかされた方の傷は計り知れないです。

傷が癒されるまでは、待つ心も必要ですね。


でも、謝り続ける心が大切で 謝り続ける心を肉体を使って表現することで相手は癒されていくのです。


どんなことでも 継続すること は大切なのですよ。


継続は力なり、です。

わたしは子供を持つ母親です。

だから、子育ての一貫で、人と付き合うときの想いの伝え方を教えています。


挨拶の仕方、謝り方、言葉使い、お辞儀の仕方、

直立不動で謝る人はいないです。


軽く、ごめんごめんはうちではないです。


謝罪というのは、心が伴ってこそです。


わたしは心がわかるので 本心からの謝罪でないとわかります。


だから、何回もできるまで謝らせます。


わたしのOKが出たら、そこで終了です。



わたしは、通り一辺のマナーではなくて 心(思いやり)の伝え方を教えているのです。


ありがとうという感謝の心、ごめんなさいという謝罪の心、心の開き方 など 想いの伝え方です。


想いがない人なんていない と思います。

ただ、表せないだけだと思うからです。

表せないなら、できる人が教えればよいだけです。


その場で徹底的に、その想いがわいて伝わるまで教えます。


わたしたちは、元は感謝のかたまりの存在です。

それを思い出させて、肉体を使って表現するだけなのです。


肉体がない時 わたしたちは、ダイレクトにコミニュケーションをとっていましたから、伝え方は特別には必要なかったけれど 今は肉体を持つ身なのです。


肉体を持っているからこそ、できることがあるのです。


肉体を持つ存在としてのコミニュケーションの取り方を教えています。


それは、娘だけでなく わたしを慕う人に対しても教えています。



このように、マナーというものは、軽んじることではないのです。


人付き合いの基本ですから。



人を軽んじることは自分自身を軽んじることです。


人から軽んじられることを自分に許してはならない。


それが人としての尊厳ですから。




わたしたちは、みんな同じ、尊厳ある存在なのです。

人間はとことんまで落ちないとわからないのかもしれないと 最近、特に想う。


わたしは先のことがわかってしまうから、手をさしのべてしまうけど、人は落ちたいのかな、と想う。

落ちてみたいのかな?


落ちてみないと、わからないことってあるもんね。



いくら、人から指摘されてもやめられないけど 腑に落ちてみなけりゃわからないこともたくさんあるわ。


空ちゃんは 人の言葉で助けられた、ということを書いていたけれど 人によると思うわ。





わたしは魂からの要請があると、動かされてしまうけど そうじゃない場合はこれからは、ほかっておこうかな。


結局、甘えてるのよ。


誰かが助けてくれるって思ってるの。




誰かが助けてくれる場合は 人間的に思いやりがある人の場合だと思う。


愚痴って人のせいにして生きている人って人間がギスギスしている。


そういう人には神様は手をさしのべないし人も見捨てるわ。



一生懸命に生きればいいってものではなくて、人に対しての思いやりやちょっとした気づかいのない人には神様は見向きもしない。


自分のことしか考えていない。


自分の得になることしか考えていない。


まずは、自分を満たすことからだけど だんだんがあるわ。



ちょっとした気づかいって大切だな。


笑顔でいることや人に親切にすることが身に付いていない人は、人間がギスギスしている。


日々の心がけでありしつけだな。


暗い顔していたら幸せは遠退いていく。



そこに気づかない人たち。。。。

それもわからず、スピリチュアルにはまってるってあり得ない。



これって 基本的なことだから、いちいち書かないけど 大切なんだよ。



ちょっとした思いやりと気づかい。




それさえできていれば、人生はうまく回ることを人は知らない。



瞑想すると まずは、そういうことに気付くのよね〜


だから、瞑想をするとよいと言われるの。



瞑想して心を落ち着けたり神社に行くと まずはそういうことに気付かされるんだよなあ〜



最近の人は いちいち人に対して指摘しないから、代わりに瞑想を勧められるのです。



まあ いくら瞑想、神社に行っても 思いやりや気づかいのない人もいるけど、、、



結局は 人間的な思いやりや優しさは必要ですね。

思いやりを持ちましょう
人はその場所に立ってみないとわからないことがありますね。


責任感もなく自由をこよなく愛している人がわたしをみたら なんてがんじがらめに生きているんだろうと思われるかもしれません。


今までわたしは、責任感もなく自由を求めて生きてきた体験を経て、今のわたしは幸せだと感じています。


魂の求める幸せというものは責任感の上に成り立つものなのだと今、実感しています。


責任感を持って生きている幸せは、安定していて 他者を見守ることができているものなのです。

自由でいることや開放的でいることは、それはそれで素晴らしい感覚を得ることはできますが、心からの安定感は得られないのだと思います。


誰かを想い、誰かを敬う心こそが心からの安定を得るのだと思えるのです。


責任のない人生は糸の切れたタコのようで、どこに飛ばされるかわからない不安定なものです。

思いやりは責任感を生みます。

思いやりを持ちましょう。

責任感を持ちましょう。



人の幸せを願うということを考えてみました。


自分が人のために何かをして差し上げることで喜ばれることは、とても嬉しいと感じます。


だけど もし、相手が喜んでくれなくても わたしはさせていただくと思うのです。


相手が喜ぶことをしなさいと わたしはよく、姉から言われます。

あなたはいつも自己満足で人の気持ちがわからない。

とも言われます。



だけど わたしは いくら、相手がしてほしいことであっても 相手のためにならないことだったら身体は動かないのです。


相手のエゴを満たすためにわたしの身体は動かないように出来ています。



幸せと言うのは、相手のエゴを満たすことだと思えないからです。



相手が自分の意思で考え、行動することが 本当の幸せだと考えます。


だから、自分のエゴを満たすことが幸せと考える方とは意見が合わないのです。



だけど わたしはいつもいつも 相手の立場を考えて行動します。


相手のエゴは満たしてあげられないけれど わたしはわたしの考えで行動します。



わたしは 相手のエゴを満たすことはできないけれど いつもいつも、相手が自分の意思で考え行動できるよう願って行動しています。



人から与えられた幸せは本当の幸せとは言えない。


自分で乗り越えた時の言い様のない高揚感、安定感、安心感こそが幸せだと知っているから。



だから、誰もが 感じてほしいなあ〜 と願っています。



わたしの力で 一瞬、心が楽になることはあるだろう。

だけど それは、永遠ではない。


永遠の喜びを得るためには、自分の力で立つことなのです。

このページのトップヘ