この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

わたしは、地球にグラインドしています。 わたしの意識は地球に同調しています。 わたしの想いは地球の想いです。 わたしの叫びは地球の叫びです。 わたしの言葉は地球からのメッセージです。 少しでも、みなさんに 地球の想いを感じていただけたら幸いです。

カテゴリ: 思いやり

確かに 取っ付きにくい人って居ると思います。


何を考えているのかわからない人

自分のことを話したがらない人



また、こんなことを言って失礼かな と思いつつ、言わなきゃいけない時もあるし


人を全否定してくる人もいるし


横柄な人


上から目線な人


攻撃的な人


初めから、疑ってくる人


こちらの話を聞かない、遮る人


言わないけど、しぐさでバカにし てくる人


感謝を求めてくる人


誉めてもらいたい人


威張る人




それなら そこを満たしてさしあげればよいのです。


その方が満たされるまで満たしてさしあげればよいのです。



満たしつつ、心の中でバカにしていてはいけません。



満たしつつ、相手を敬い、思いやるのです。


心から敬い、出逢いに感謝をするのです。


誰に対しても変わらず接するのです。



相手が何か自分にとって不利になることをしてきたとします、


そしたら それは、何かの間違いだ と思えばよいのです。


それか よほどの理由があるはずだと思えばよいのです。



そう思えば、いさかいはなくなります。





どなたも 大切に接してもらいたいのです。



自分が大切にされたいなら まずは、相手を大切に接することなのです。




それを 日常にすることです。



仕事だからじゃない。


特定の人だけに限定しない。


目に映るすべての人に、そう接するのです。




そうやって、生きていると 心が穏やかになってきますよ。



お試しください。

施しには施す側と施される側があります。 



思いやりの気持ちが込められた施しと認められたい気持ち等条件付きの想いのある施し。 


どちらも施しですが想いは違います。 

だからと言って良い悪いはないのです。 


施しを受ける側は有り難く受け取ります。

受け取る側が条件付きだから良くないと考えるのは間違いです。


認められたい気持ちや条件付きの施しでも受け取る側が施しを受けることには変わりはありません。 

しかし、それが正しいわけではないのです。 


善悪はないのです。 


与えることが良いわけでも与えないことが悪いわけでも愛ある施しが良くて条件付きの施しが悪いわけではないのです。 



施しとはできる者がさせていただくことだからです。 


想いがあるからさせていただく。 


それは、感謝と同じです。 



感謝にも種類があるということです。 


思いやりの気持ちから起こる感謝と認められたい気持ち等条件付きの感謝は違います。 


これは種類が違うだけですね。 




種類が違うと巡りが変わってきます。 


与えたものが巡ってくるだけですね。 






無償で受け取れるはずの恵みを、受け取ることが出来る人と出来ない人との違いがあるものだなあ、とつくづく感じます。 

そこで、対価を支払って受け取れるように学んでいるのでしょうね。 



しかし、本物の感謝を理解していなくて、無償の愛を発揮できないのに、感謝を語る人がいる。 


間違った感謝が横行してる。 



間違った感謝を学んでも無償の愛は受け取れない。 


間違った感謝を学んでも無償の愛は発揮できない。 



自分の真実は無償の愛と繋がっているものです。 

自分の真実を見つけて無償の愛に繋がってくださいね。


人を思いやる心とか自分の魅力を発揮することとか伝えたい思いを素直に伝えることとか、今、全体的に そんなことを求められているんだなあと思います。 


根底に求められていることは思いやり、感謝の心です。 


人とのコミニュケーションが取れなくて悩んでる人は感謝の心が芽生えていないからだなあと感じています。 


だから、相手の気持ちがわからないし、想い図ることができない。 
だから、何を話したらよいかわからない。 
堂々としていられない。 

感謝の心が芽生えていないから自信が持てないのです。 



求められているのは思いやり、感謝の心です。 




どなたにたいしても平等に愛は降り注がれているのに受け取れないのは感謝の心がないからです。 

だから、お金を支払って受け取るのでしょう。


本来なら、無償で受け取れるはずの恵みを、お金を支払って受け取っている方も多いですね。 


だから、お金が必要になるのではないでしょうか? 



感謝の心を育てましょう。 
思いやる心を持ちましょう。 




敬う心は世界を救う
お題目をお唱えさせていただくと、させていただける身体のあることに有り難いと感じます。 



お題目をお唱えする、氏神様で手を合わせる、敬う心はさせていただける心を育てます。 


手を合わせることが目的ではないのです。 



手を合わせていればよい、お題目を何千回お唱えすれば、何かが叶うわけではないのです。 



目の前の人に優しく語りかけたり手を差し伸べるるためのお題目でありお詣りです。



それをお徳とも言いますね。 



ワクワクすることをしましょう、と言われます。



ワクワクすることも、最終的には、世のため人のためにさせていただけるためにあるのです。 



目の前の人に優しくしてください。 

隣にいる人に優しく語りかけてください。 




無宗教者が良いとされている昨今ですが、元々、宗教というのはこのように敬う心を育てるものです。 



そのことを忘れてはいませんか? 





それは思いやりとは言わない。 ただの気使い。 




思いやりをはき違えている。 

〜のために。 


愛する人は、あなたに気を使わせたりしない。 


愛してる人の自由を尊重するものなんだ。 



自由じゃないことを選択しているのは自分。 


愛する人はあなたの自由意思を尊重するものなんだ。 



「僕のために、〜してほしい」って言われたの? 


言っていないはずだ。 


自分を縛っているのは自分。 



ただ、「あなたがわたしを縛るからわたしが自由を選択できないの」 

と言い分けしたいから縛られたふりをしてるだけ。 
愛してないのは貴女の方だ。 



愛していないことを悟られたくないから自分を縛っているだけだ。 



愛していないから彼に気を使う。 


気使いは思いやりじゃない。 
気使いは愛じゃない。



愛していないことを悟られたくないために、彼に気を使うのはやめようよ。 


自分のためにも、彼のためにも。。。

誰もが尊重されたい。 


だったら、弱者と呼ばれる人の味方をしても良いと思う。 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


人は対等だと言うけれどそれは魂の話しで 男女の違いや身体面に年齢など様々な違いを持ってこの世界で生かせていただいている。 


この人は弱い人とどんな基準で決めるのかは定かではないけど、明らかに弱いと定められる人がいて、そのような人は法的に守られている。 


しかし その法的に守られていることを武器にして振る舞う人もいるけれど  どこから見ても、守らなければならない人自体いるのです。 



その認識が甘くなっているなあ、と感じます。




身体が自分の思うように動かせなかったり、明らかに介助が必要な人でもお口が達者だと人からそのように思われない。 


文句が槍のように出てくる人がいる。 


それは、自分の思うようにいかないことがあったり人が思い通りに動かないせいもある。 


確かに、自分の物差しで人を判断することは違うことかもしれないが、自分の身体を自分が動かせない身である場合は譲歩してもいいと思うな。 



幸せと感じることは人それぞれ違うもの。 



誰もが尊重されたいし誰もが幸せを感じていたい。 



だったら、隣に居る身体を不自由にしている人の槍を持った小さな願いを叶えてあげようと思う心は持ってもよいのだと思う。 


槍があったとしても願いに大きいも小さいもないと思う。 


誰から見ても明らかに身体が弱かったり不自由な人の明らかに小さな願いを叶えてあげようと思わない行為は、愛じゃない。 


優しくない。 


槍のある言葉でさえも包んであげられたなら、その槍の先はすぐに丸まるものなんだ。。。 



誰もが尊重されたいし優しくされたいんだ。 






お金が欲しい、お金持ちになりたい、収入を増やしたい と聞きますが、収入が増えたら増えただけ、責任も増えるってご存知ですか?  


満たされたら満たされただけ、背負うものは大きくなります。 


そのため、何かしたいとか何か欲しいとか思わなくなり、結果 入ってきても自分のために使おうと思わなくなるものです。 




最近のわたしは、まさにそんな状態で、前にも増して欲がなくなったと同時に 責任感?も以前にも増したので なんともどっしりとした生活を過ごしています。 


これには、自分としても不思議で、ゆったりどっしり過ごしています。 



また 特に重要でもない話をされると 雑音にしか聞こえないため、受け答えも億劫になり口数も少なくなりました。 


それなのに、自分都合でわたしの都合を伺うことなく矢継ぎ早に話してくる人もいます。 


わたしの都合は関係なく、自分の意見だけ先に言っておけば、あとはわたしが考えて行動してくれるだろうと、わたしがすべてを受け入れてくれるとタカをくっているのです。 


わたしは最終的には受け入れますが、わたしの都合を伺ってこない人は最初は受け付けません。 


相手都合では動かないのです。 



自分が100%受け入れOKになってから話を聞くようにしています。 





相談内容で、具体性に欠けるものは、受けることは難しい。 


なぜなら、こちらから、「何があったの?」と聞かなきゃいけないようなことはメールのやり取り上で面倒だからだ。 


相談があるなら 単刀直入に具体的に言ってほしい。 


人の勘をひいて相談があるようなそぶりも迷惑です。  


こちらから、「どうしたの?」「何があったの?」と聞かなきゃいけないぐらい無駄なことはないと思うんだ。 


よく娘にも叱るけど、「〇時に電車に乗ります」と送られてくると、「何時にどこにつくの?」と返信しなければならない。 

「〇時に〇〇〇につくから迎えに来てください」 

と送られてこれば、「了解」と返信すればよいだけのこと。 



こんな些細なことと思うかもしれないが それができる人とできない人がいます。 


人を思いやる気持ちがないからできないのだと思います。 


人を思いやり気持ちがあれば気がつくはずだから。



言いたいことがあるならハッキリと。 


聞きたいことがあるならハッキリと。 


箇条書きにしてくれた方が受ける方も楽なのです。 


頭ともシッポともつかないことをダラダラ言われても いったい何が言いたいのかわからない文章は流すしかない。 


報告なら報告。 連絡なら連絡。質問なら質問。相談なら相談。 
らしく、書いてくれないと迷惑です。 




それが人とコミニュケーションをとるためのマナーです。 



そしてまた 自分の思い込みで話を進めている場合の相談も厄介です。 


事実は事実でしかないのに それに基づく自分の主観が根強く、思い込んでいる。 


その思い込みは思い込みなだけで 事実とは異なるからです。 


そして その思い込みが前提で相談される場合も厄介です。  


事実だけ教えてくれれば、それを判断するのはわたしです。 


思い込みの強い人はとかく自分の判断が間違いだと気づきにくい。 


ただの思い込みだと指摘しても それを受け入れることが容易ではないようです。 


自分の過ちを認められない。 


相談よりも間違いを訂正することから始めなければならないので厄介です。 


人とのコミニュケーションが苦手だと言う人は、このように 思い込みが激しいか 言いたいことを箇条書きにすることが苦手なのだと思います。 



でも 苦手というよりも思いやりがあれば、防げることですね。 


苦手だからと逃げていても解決しないものです。


まずは 相手を思いやる心からです。 




だったら わたしは思いやりがないですって? 


わたしは、無駄だと言いながらも教えます。 
迷惑だと言いながらも教えます。 



人を放置してそのままにはしないです。 





気づきが起きるためには、何か感謝できることが起きること。 


だから、人に気づきを起こそうと思うならば、人から感謝されることをすることなのです。 


人から感謝されること


相手の立場を思いやり行動を起こすこと 




相手の立場を考えない行動は逆に相手を怒らせてしまうことになり逆効果になります。 




人によって感謝のポイントは違います。 


人それぞれです。 



通りいっぺんのことをしても感謝される場合もあれば感謝されない場合もありますね。 



その時、その人の立場になって、その人を想い、考えることです。 


気配りとも言えます。




わたしは、日々 その時々において 人の立場を考えて行動をしています。 


心願祈願もそうですが、いつもいつもです。 


それが癖になってしまっているので、頭や身体が勝手に動いてしまいます。 


気付きを起こしたいわけでも感謝されたいわけでもなく ただ、自分がそうしたいだけなのです。 


だから 今回、このようなことを書いていて わたしが日々の生活でしていることは 人に気付きを起こすことなんだなあ と気付きました。 


わたしとしては無意識にやりたいからやってるだけなんです。 



鈍感なわたしです。 


だから こうやって書くとわかるのです〜 



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