この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

「わたし」が今、なぜ、ここで生きているのか。 人は本来この世の中でただ一つの命として、自然で無垢な、すがすがしくも清らかな存在です。 しかし現代では、その姿を保つには相当の努力が必要なことのようです。 心身を清浄に保つためには、神や祭り、自然の力をかりて謙虚な気持ちに立ち返ることが必要です。 自分の目の前に差し出されたことを真摯に受け止めてください。 出来ないことは求められないものです。 息の本体に帰ってください。 息の本体に帰り、愛となれば、望んだことは一寸の狂いもなく叶えられるもので、望みが叶えられないのは、我が身が愛でない証拠。 だから、息の本体に帰ってください。 ご自身の「根っこ」を見極めるために、父母 をこえる存在として神や仏、自然の世界やご先祖様の存在が解ると、大きな心のよりどころを得ることになるものです。 日本の文化や風習、特に日本人のこころに脈々と受け継がれてきている信念を取り戻すことは、古くからある豊かな心をとりもどさせてくれるだけでなく、新たな価値観を生み出す大きな手段ともなるものなのです。 そのために出来ることを日々、お伝えしています。

カテゴリ: 思いやり

敬う心は世界を救う
お題目をお唱えさせていただくと、させていただける身体のあることに有り難いと感じます。 



お題目をお唱えする、氏神様で手を合わせる、敬う心はさせていただける心を育てます。 


手を合わせることが目的ではないのです。 



手を合わせていればよい、お題目を何千回お唱えすれば、何かが叶うわけではないのです。 



目の前の人に優しく語りかけたり手を差し伸べるるためのお題目でありお詣りです。



それをお徳とも言いますね。 



ワクワクすることをしましょう、と言われます。



ワクワクすることも、最終的には、世のため人のためにさせていただけるためにあるのです。 



目の前の人に優しくしてください。 

隣にいる人に優しく語りかけてください。 




無宗教者が良いとされている昨今ですが、元々、宗教というのはこのように敬う心を育てるものです。 



そのことを忘れてはいませんか? 





それは思いやりとは言わない。 ただの気使い。 




思いやりをはき違えている。 

〜のために。 


愛する人は、あなたに気を使わせたりしない。 


愛してる人の自由を尊重するものなんだ。 



自由じゃないことを選択しているのは自分。 


愛する人はあなたの自由意思を尊重するものなんだ。 



「僕のために、〜してほしい」って言われたの? 


言っていないはずだ。 


自分を縛っているのは自分。 



ただ、「あなたがわたしを縛るからわたしが自由を選択できないの」 

と言い分けしたいから縛られたふりをしてるだけ。 
愛してないのは貴女の方だ。 



愛していないことを悟られたくないから自分を縛っているだけだ。 



愛していないから彼に気を使う。 


気使いは思いやりじゃない。 
気使いは愛じゃない。



愛していないことを悟られたくないために、彼に気を使うのはやめようよ。 


自分のためにも、彼のためにも。。。

誰もが尊重されたい。 


だったら、弱者と呼ばれる人の味方をしても良いと思う。 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


人は対等だと言うけれどそれは魂の話しで 男女の違いや身体面に年齢など様々な違いを持ってこの世界で生かせていただいている。 


この人は弱い人とどんな基準で決めるのかは定かではないけど、明らかに弱いと定められる人がいて、そのような人は法的に守られている。 


しかし その法的に守られていることを武器にして振る舞う人もいるけれど  どこから見ても、守らなければならない人自体いるのです。 



その認識が甘くなっているなあ、と感じます。




身体が自分の思うように動かせなかったり、明らかに介助が必要な人でもお口が達者だと人からそのように思われない。 


文句が槍のように出てくる人がいる。 


それは、自分の思うようにいかないことがあったり人が思い通りに動かないせいもある。 


確かに、自分の物差しで人を判断することは違うことかもしれないが、自分の身体を自分が動かせない身である場合は譲歩してもいいと思うな。 



幸せと感じることは人それぞれ違うもの。 



誰もが尊重されたいし誰もが幸せを感じていたい。 



だったら、隣に居る身体を不自由にしている人の槍を持った小さな願いを叶えてあげようと思う心は持ってもよいのだと思う。 


槍があったとしても願いに大きいも小さいもないと思う。 


誰から見ても明らかに身体が弱かったり不自由な人の明らかに小さな願いを叶えてあげようと思わない行為は、愛じゃない。 


優しくない。 


槍のある言葉でさえも包んであげられたなら、その槍の先はすぐに丸まるものなんだ。。。 



誰もが尊重されたいし優しくされたいんだ。 






わたしは自己主張が強いせいか、お世話になった人に後ろ足で砂をかけるようなことをして、恥をかくことをたくさんしてきたんだ。 


みんな、黙っている。 


気づくまで待ってるのか知らないけど、教えてくれなかったよ。 


教えてくれなかったから幾度となく繰り返した。  


わたしは教えてもらいたかったんだ。 


その時、恥をかいても教えてもらいたかった。 



後々になって気づいたわけだけど 気づくまで待っていてくれたのか笑って教えてくれなかったのかはわからない。 


だから わたしはその場で指摘して教えるんだ。 



わたしに公衆の面前で恥をかかされた、と言われる方はけっこういると思う。 


だけど それだから、気づけるんだ。 


恥をかくから気づける。 

恥をかかなかったら繰り返す。 


教える行為は相手の学びを取る行為だと言う人もいるけれど、わたしはそうは思わない。 


教えなきゃできないことってあるし、その発想がわかないこともあるしね。 




また 先記事で書いたことに関連することで 

周りの家族から、わたしがこれをしてやった 俺がこうこうしてやったとよく聞いて育つと 同じように感謝の押し売りをしてしまうと言われた。 

わたしは、その逆の家族を反面教師として生きてきました。  


それって 相手をバカにすることですよね? 


でも 教えることは相手をバカにすることなのか? 

違うと思う。 


教えないことのほうが相手をバカにすることだと思う。 


相手を見守ると言いながら、心ではバカにしているかもしれない。 




おもいやりってなんだろう。 


相手を想うってなんだろう。 



相手の成長を望むなら早く教えることのほうが相手のためになることではないのかな? 


見守るって ボケっと突っ立って見てることではないんだ。 


いつでも 手を差しのべることのできる位置にいて、目を離さずに見ていることなんだ。 


だから、わたしは 見守る一環で、教えるんだ。 

直接、教えるんだ。 



気づくまで辛抱強く待つことも大切かもしれないけれど 教えなきゃわからないこともある。 


一度、教えたら それからは、手は出さない。 


待つ。 


辛抱強く待つ。 



大切な人だから、大切にしたいのです。




相談内容で、具体性に欠けるものは、受けることは難しい。 


なぜなら、こちらから、「何があったの?」と聞かなきゃいけないようなことはメールのやり取り上で面倒だからだ。 


相談があるなら 単刀直入に具体的に言ってほしい。 


人の勘をひいて相談があるようなそぶりも迷惑です。  


こちらから、「どうしたの?」「何があったの?」と聞かなきゃいけないぐらい無駄なことはないと思うんだ。 


よく娘にも叱るけど、「〇時に電車に乗ります」と送られてくると、「何時にどこにつくの?」と返信しなければならない。 

「〇時に〇〇〇につくから迎えに来てください」 

と送られてこれば、「了解」と返信すればよいだけのこと。 



こんな些細なことと思うかもしれないが それができる人とできない人がいます。 


人を思いやる気持ちがないからできないのだと思います。 


人を思いやり気持ちがあれば気がつくはずだから。



言いたいことがあるならハッキリと。 


聞きたいことがあるならハッキリと。 


箇条書きにしてくれた方が受ける方も楽なのです。 


頭ともシッポともつかないことをダラダラ言われても いったい何が言いたいのかわからない文章は流すしかない。 


報告なら報告。 連絡なら連絡。質問なら質問。相談なら相談。 
らしく、書いてくれないと迷惑です。 




それが人とコミニュケーションをとるためのマナーです。 



そしてまた 自分の思い込みで話を進めている場合の相談も厄介です。 


事実は事実でしかないのに それに基づく自分の主観が根強く、思い込んでいる。 


その思い込みは思い込みなだけで 事実とは異なるからです。 


そして その思い込みが前提で相談される場合も厄介です。  


事実だけ教えてくれれば、それを判断するのはわたしです。 


思い込みの強い人はとかく自分の判断が間違いだと気づきにくい。 


ただの思い込みだと指摘しても それを受け入れることが容易ではないようです。 


自分の過ちを認められない。 


相談よりも間違いを訂正することから始めなければならないので厄介です。 


人とのコミニュケーションが苦手だと言う人は、このように 思い込みが激しいか 言いたいことを箇条書きにすることが苦手なのだと思います。 



でも 苦手というよりも思いやりがあれば、防げることですね。 


苦手だからと逃げていても解決しないものです。


まずは 相手を思いやる心からです。 




だったら わたしは思いやりがないですって? 


わたしは、無駄だと言いながらも教えます。 
迷惑だと言いながらも教えます。 



人を放置してそのままにはしないです。 





気づきが起きるためには、何か感謝できることが起きること。 


だから、人に気づきを起こそうと思うならば、人から感謝されることをすることなのです。 


人から感謝されること


相手の立場を思いやり行動を起こすこと 




相手の立場を考えない行動は逆に相手を怒らせてしまうことになり逆効果になります。 




人によって感謝のポイントは違います。 


人それぞれです。 



通りいっぺんのことをしても感謝される場合もあれば感謝されない場合もありますね。 



その時、その人の立場になって、その人を想い、考えることです。 


気配りとも言えます。




わたしは、日々 その時々において 人の立場を考えて行動をしています。 


心願祈願もそうですが、いつもいつもです。 


それが癖になってしまっているので、頭や身体が勝手に動いてしまいます。 


気付きを起こしたいわけでも感謝されたいわけでもなく ただ、自分がそうしたいだけなのです。 


だから 今回、このようなことを書いていて わたしが日々の生活でしていることは 人に気付きを起こすことなんだなあ と気付きました。 


わたしとしては無意識にやりたいからやってるだけなんです。 



鈍感なわたしです。 


だから こうやって書くとわかるのです〜 



事実を教えるのと、事実を突き付けるのは違うと思います。


事実は事実でしかなくて そこに感情や想いは存在しないものです。


だけど 事実を突き付けるという手法は、裁く意味合いがあると思うのです。


どうだ!どうだ!と、勝ち誇ったように 事実を突き付け、謝罪を認めさせるのって違うと思うのです。


それは 人の尊厳を無視したやり方だと思うのです。


事実は、そっと教えるものだと思うのです。


公開処刑のように、事実を突き付けられている方を観ると、心が痛みます。




以前のわたしは そのような方を見ると、わざと 公開指摘しました。


そうすることで気付かせたいという上からの要請があったからです。


わたしは一度はやりますが、気づかない場合は 手を引きます。


わからない人はわからないでしょうね。。。



でも わたしは想いがあるのです。

離れてもわたしの想いは変わらない。

気付いていただいて、一緒に歩みたい という気持ちです。


わたしの想いが伝わらない方もおられます。

心から詫びるためには、まずは 自分の過ちを認めることから始まります。

自分の過ちを認めない限り 人は謝る気持ちにならないからです。


「過ち」

間違いとも言います。


これは 人それぞれ認識の違いがあります。

育った環境もあります。

自分の認識では間違いはないのだけど、自分の言動で人を不愉快にさせてしまう場合もあります。

その時には、「あなたの言動で不愉快になることがあるんだよ」と事実を教えるのです。


そうすると

自分は間違いをおかしてしまったわけではないけれど、自分の言動の結果、人を不愉快にさせてしまったことは間違いない事実なんだな と認識します。


そう、事実を 素直に受け取ったら 「不愉快にさせてごめんなさい」と謝ることができるのです。


人は間違ったことをしていないのに、謝れないのです。


それは 人の尊厳に関わるからです。


不愉快にさせてしまったことに対して詫びるのです。


ただ、ごめんなさい ではなくて 何で謝るのかを自分にも相手にも認識させるのです。




また 実際に、間違った行為をしてしまった場合があります。

本人は認識していなくても間違いをおかすことはあります。


その場合にも、あなたの間違いは◯◯だよ、と教えます。


すると 娘は、顔を歪めて驚きます。


「知らなかった( ; ゜Д゜)」


穴があったら入りたい気分になるようです。


すぐ、謝りの電話なり手紙を書くように勧めます。

また 一度だけでなく 許していただけるまで、通わせます。


心からの謝罪は相手の心に響くのです。



わたしは、心からの謝罪はすぐに許します。早いです^^


だけど 人によっては、謝罪を受け取れないくらい心が傷ついている人もおられるのです。


それは、間違いの度合いにもよりますね。


その場合は、相手や自分の尊厳を保ちつつ低身低頭で接するのです。



言葉にするのは簡単ですが 手取り足取り教えます。


間違いをおかされた方の傷は計り知れないです。

傷が癒されるまでは、待つ心も必要ですね。


でも、謝り続ける心が大切で 謝り続ける心を肉体を使って表現することで相手は癒されていくのです。


どんなことでも 継続すること は大切なのですよ。


継続は力なり、です。

わたしは子供を持つ母親です。

だから、子育ての一貫で、人と付き合うときの想いの伝え方を教えています。


挨拶の仕方、謝り方、言葉使い、お辞儀の仕方、

直立不動で謝る人はいないです。


軽く、ごめんごめんはうちではないです。


謝罪というのは、心が伴ってこそです。


わたしは心がわかるので 本心からの謝罪でないとわかります。


だから、何回もできるまで謝らせます。


わたしのOKが出たら、そこで終了です。



わたしは、通り一辺のマナーではなくて 心(思いやり)の伝え方を教えているのです。


ありがとうという感謝の心、ごめんなさいという謝罪の心、心の開き方 など 想いの伝え方です。


想いがない人なんていない と思います。

ただ、表せないだけだと思うからです。

表せないなら、できる人が教えればよいだけです。


その場で徹底的に、その想いがわいて伝わるまで教えます。


わたしたちは、元は感謝のかたまりの存在です。

それを思い出させて、肉体を使って表現するだけなのです。


肉体がない時 わたしたちは、ダイレクトにコミニュケーションをとっていましたから、伝え方は特別には必要なかったけれど 今は肉体を持つ身なのです。


肉体を持っているからこそ、できることがあるのです。


肉体を持つ存在としてのコミニュケーションの取り方を教えています。


それは、娘だけでなく わたしを慕う人に対しても教えています。



このように、マナーというものは、軽んじることではないのです。


人付き合いの基本ですから。



人を軽んじることは自分自身を軽んじることです。


人から軽んじられることを自分に許してはならない。


それが人としての尊厳ですから。




わたしたちは、みんな同じ、尊厳ある存在なのです。

誘われて断れないこと、あると思います。


断ると迷惑をかけてしまうとか
断ると嫌われてしまうんじゃないかとか
頭で考えて、結局 断れないのです。


そうやって、ストレスを抱えてしまいます。



それは 相手への思いやりだったり ただ、自分の意見が言えないだけだったり 理由は様々だけど、自分にストレスを抱えてしまいます。



人はストレスを溜め込むと、身体や心に不調をきたします。



人への思いやりや自分の意見を言えないことが そのストレスによって身体や心を蝕むのです。



以前も書いたのですが、病気になったり不調になることは当たり前ではないのです。


ストレスを溜めないことが当たり前なのです。



我慢することや自分の意見を言わないことや断れないことって 人にとって当たり前にあることではないのです。




最近では、それが浸透してきたからか、自分の意見を言える人や自己主張をされる人も増えてきていますね。


だけど 言えば良い、わけではないですね。



やはり それは人への思いやりは必要なのです。


我慢は必要ないけど お断りする際に人への配慮は必要です。


人への配慮なく、ただ主張する人もいらっしゃいます。


そのような楽天的な人はストレスは抱えないでしょう。

だけど、相手にストレスを与えてしまうのです。


自分にも相手にもストレスを与えないようにすることが大切で そのような方は、前向きな人と言えるでしょう。


前向きな人とは、相手にも自分にも思いやりがある人のことを言うのです。


前向きと楽天的とは違います。

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