この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 学び



謙虚な姿勢は何故、好まれるかというと そこには「学ばせていただこう」という心があるからです。 


謙虚になろうと頭で考えても姿勢に表れることはないでしょう。 


心が謙虚になろうと感じるとそこで姿勢が変わるのです。 



心と体(姿勢)は直結しています。 




「学ばせていただこう」という気持ちは「学びたい!」とは違います。

意欲の「学びたい!」は資格を取ろうとか目標がありそこに到達したいと言った気持ちが前に出る印象を受けますが
謙虚さの「学ばせていただこう」というのは、気持ちが前に出るというよりは一歩相手にへりくだった印象に思えます。 

相手にたいしての敬いの気持ちでしょうか?



敬いの気持ちなく、ただ「学ぼう」ではひとりよがりになりがちですね。 




よく見かけるのです。 

自分だけ、学習した気になっている人。 

そんな人の学びはひとりよがりで世のため人のためにもならないですね。 



学ぼうとする意欲は賛成しますが、ひとりよがりの学びは時として迷惑になるもので、協力しようという気持ちがなくなるものです。 



これからの世の中は、謙虚な姿勢を持つことが鍵と言えるでしょう。 



何かで得た情報をその時ばったりで行動に移していませんか? 


Aと言われたらAをやり、Bと言われたらAはやめてBをやる。 


AとBの関連性や規則性も考えずに、ただやみくもに行動に移すだけではないですか? 



☆☆☆☆☆☆ 


わたしは、やるべきこと(情報)がひとつでも増えたら、全体の見直しをして組み込み、新たなやり方を生み出します。。 



物事を考える(頭を使う)ということは、順序よく計画することや共通になることを抜き出すこと、違いを考えることなどをしながら、新たなものを生み出すことです。

そして、それは時間短縮に役に立つものです。 



頭を使うことをせずにダラダラ物事を進めることは 意識を集中出来ていないのでミスもするし、時間もかかるものです。 



学生のうちは勉強することが仕事と言われますが それは、計画を立てて実践することや時間を決めて学習することなどを勉強しながら学ぶことが必要だからです。 

学生は学びが本分だということですね。 



学生のうちに学び方を習得することで 社会に出てから、習得している人としていない人との差が出るのです。 


それに関して言えば、遊びの分野においても同じことが言えますね。 



要は、日々の生活で計画性を持つことや段取りを考えて動くこと また、人との関係の築き方などを経験しておくことなのです。 



小学生の頃、親から宿題をしたかを問われて、今 やろうと思ったのに〜と言われた方もみえるかもしれませんが、明らかにやろうとしているモードに見られないから言われるのです。 


せっつかれたらやる気をなくすと言われますが、もともとやる気が見られないのです。 


これは 子供だから言っていられることで 大人になってからなら仕事を失くします。 


意欲のない人に仕事は巡ってはこないので。 




まずは 習得しようとする意欲からです。 


とは言え、意欲とは 先述の頭を使うことや考えるというものです。 

ダラダラやぼーっと過ごすのではなく、意識を持って日々、過ごすことです。 


ハードルは高いとは思いませんがいかがでしょうか? 


そのために、まずは、日記をつけることをお勧めしています。 



何か特定なものを毛嫌いしている人は、学ぼうとする意欲のない人です。 



学ぼうという意欲のない人は、自分の間違いに気付かないばかりか自分は間違っているのではないか?という疑問を持たず、受け入れようという意欲のない人です。 


新しいことは受け入れずシャットアウトするアレです。 



このように、何かを毛嫌いしていることをひけらかす人は、自分は学びのない人ですよ〜と宣言しているものです。 



だから、毛嫌いしていることがより寄り付くのです^^ 




SNSでは何を書いても自由な場所です。 

自分のバカさ加減を晒す場所でもあります。 




よく考えればわかること♪ 




********************** 


自覚すると、見直すことができます。 

だから わたしはあえて書き続けるのでしょう。 


こんな大きなお世話はしなくても、、、、と思うこともあるし、人に投げ掛けた分わたしにも返ってきます。 

何でやってるんだろ?とも思うよ。 


だけど 必要だから出すのだろうなあ。 


懲りないわたしだ。 



メールアドバイスやフルネーム鑑定をしていると そういう自分を知ることが大事だよ、と話をしても聞き入れない人はいらっしゃいます。 


感情を煽られるだけ煽られて、「知ることが大事だよ」と言われて納得出来ないようだ。


大概、離れていくのは、そんなタイプです。 





誰にも頼らず、コツコツ自分の内側と向き合ってきたわたしとしては、甘いなあの一言です。 


誰が好き好んで内観のお手伝いなどするものか、相手の魂からの要請があるからするだけだし、 元来
内観というのはひとりでするものだからだ。 

自分で自分の内側を探っていくのと内観の手引きしてくれるのとでは成長の度合いが違う。 


わたし的には内観の手引きをしてくれた方がうんと有り難いと思っていて、だから ままのままさん(内側の神様)が相手してくれたんだと感謝してる。 



しかし わたしのクライアントはそれを嫌がる人もいらっしゃいます。 


わたしがやりたいのではなくて その人の魂からの要請があるから引き受けるだけです。 


そこは、ハッキリと申し上げておきたいです。 


わたしは魂に忠実なだけです。 




先日も、ままさんが誰とでも仲良くできるなんて信じられない!と言われましたが、ソコ非常に引っ掛かってます。 


相手を想いやる、想い量ることをしないからわからないのだろうなあ。。。 

わたしは大概は、相手を想いやって想い量って接していて、教えているけど、教えていることが身に付いていないんだなあと寂しく感じます。 



そう、わたしは昨夜から寂しいからだらだら書いてるのだと気付きました。 


自分を知ること、大事ですね。 





意識の持ち方で人生は変わるなあとつくづく感じた昨年末でした。 

また 最後に大きな大きな学びをいただきました。 


平林さんと年末にずっと話し込んでいて、それに気づいたのです。 


平林さんは、わたしが話すことを瞬時に自分の言葉にして確認を求めてきます。そうやって 潜在意識に落とし込んでいます。 わたしも普段からそうしていることに気づかされました。 

そして、これが学びの原点なのだと気づいたのです。 



実践するためには、自分の言葉にして潜在意識に落とし込む。 
そうやって刻み込んでいく。 


一昨日のまやさんのコメントに書いたように、学びとは、自分の言葉で伝えることが出来るようにすること。 


その確認のために、試験があるに過ぎないのだということにも気付きました。 

人生の学びも同じで、学んだことを自分に取り入れて身に付けて繋げていくことなのです。 



だから 実践しかないのです。 

覚えたことを口に出してみる、そうやって身に付いていく。刻み込んでいく。 



一回で出来るかもしれない。 
何度か繰り返さないと出来ないことかもしれない。 


だけど 諦めなければ出来るようになる。 



普段、書いてること言ってることをもっと深く教えられた気がしました。 



意識して物事に取り組むことの重要性に気づいたのです。


学び続ける姿勢とは?を 噛み下して教えられたのだと思います。 


また 自分を振り返ると、無意識にやってきていたことで、意識ないから止めたことに気づかなくて、歪みが生じて理由がわからなかったことがありました。 


年末に爆弾落とされた原因がそれだったことに気づいたのです。 


気付けない自分でいないようにしないとなあ、と感じています。 


元来、省みるという機能を持ったものが霊なのです。 


霊を正常に保つために学びがあるのだなあと思います。 

学びがないと曲霊といって邪悪に転ぶようです。 



お掃除や整理整頓が出来ない人は 論理的に考えることは苦手です。


それは 論理とお掃除、整理整頓は同じだからです。



論理的に考えるには、筋道立てて考えることが必要です。


筋道立てて考えるということは 文章を整理整頓するということなのです。

だから
お掃除や整理整頓が苦手な方は、論理的に考えることが苦手です。


すなわち、お掃除や整理整頓が出来ない人は 筋道立てて話をすることが出来ないのです。



物事を頭に記憶するためには、整理整頓された状態で記憶すると効率がよいのです。

だから 子供に

勉強しなさい!

というよりも


家の掃除、洗濯、家事、整理整頓をさせましょう。



そうやって 身に付けさせると お勉強に役立ちます。



でも 親が指図するだけではいけません。


親が実践してこそです。

人生は、間違えた人生を送っていなければまっすぐに進んでいくものです。


人生を間違えていたら、人は正されるものだからです。


正されたら、そこで反省して進むだけです。



しかし 現代人は、自分の進む道が正しいか間違いかがわからなくて不安に陥っている方が多いようです。


自分の進む道が正しいか間違いかがわからなくて、進んでいる状態です。


自分の進む道が正しいか間違いかわからなくて留まっている人をお見掛けします。



留まっていると一見悪いことのように思って非難される方もおられますが わたしからしたら 自分の進む道が正しいか間違いかがわからないなら、そこに留まるべきなのです。


わからないのに 何故、進めるのでしょうか?


意味わからない┐(-。-;)┌



この道が正しい!と信念があるならば、進んでも良いかと思いますが わからない というどっちつかずな状態で 何故、進めるって決めれるのかがわかりません。



「まずは 立ち止まること」なのです。


立ち止まって、考えるのです。

学びを進めるために、何が必要かといったら、それは考えることです。


考える力が自分を高めていくのです。



何かを読んだ時や観た時に、自分の考えを書き留めてみてください。

それを積み上げていくと、自分の考えがハッキリしてくるものです。


自分の考えがハッキリしてくると それを元に 自分の言葉で話ができたり書いたり出来てきます。


わたしが日記を書くことを勧めるのは、自分の考えや感じたことを自分の言葉で表現できるためです。


そうすることによって、考える力が養われます。



まずは 感じたことや考えを書き留めることなのです。



日記とまではいかなくても 読んだ本や出掛けた先であったこと、感銘を受けたことなどを要約して書いておき、そのことについて自分の考えや感じたことを書き留めることもよいでしょう。



わたしは 感銘を受けた言葉があると まずは書き移します。


そして 何度も何度も読み込み、自分の言葉にしていきます。


そうやって 自分の言葉を生み出していくのです。


考える力をつけるためには、それを日々、継続していくと得られるのだと思います。



一昨日、「生きる次元」を投稿したのは、人からわたしへのある想いを感じられたからでした。 


直接、言われたわけではなかったのですが、辛辣な言葉だったので落ち込みました。 


そこで自分の出した答えは、生きる次元が違うということでした。 でも、そうではないようで その後、昨日は丸一日 そのことが頭から離れませんでした。


そして やっと、今朝 まやさんのわたしの記事へのコメントの返事を書いていて閃いたのです。 


『そこは、相手に対して 自分も同じように学んでいる仲間だよ、という姿を見せることですよ。
親が子供に学んでる姿を見せるのと同じだね。』 


わたしは学ぶ姿勢を相手に見せてはいませんでした。 


そして、ここ最近は、いつも 楽しい顔しか見せていませんでした。 



そんなわたしに相手は、良い印象をもたなかったのです。




わたしにとって学ぶことは当たり前ですし、それをいちいち人に見せつけることではないと思っていますが それによって穿った評価をされる方には、自分を守るためにも見せた方が良いことなのかもしれません。 


ひとつ勉強になりました。



学びの秋です。 



皆様も何か習われてはいかがでしょうか? 




最近、あちこちと出掛けていろいろ話を聞くことが多いのですが、自己主張は強くても学ぶ姿勢のない方の多さに驚きを隠せません。


自分の学んだことを発信したいとか主張したいという気持ちの中に、もっともっと学ぼうという意欲や学ばせていただこうという謙虚さが見えてこないのです。 


その自分に大変満足しているのはわかるのですが満足し過ぎて、それ以上の学びを止めているのです。 


自分が上になって発信したり教えることはできても謙虚さがないからそれ以上の学びがないのです。 


もったいないなあと感じています。 



上になって発信したり教えることは比較的簡単で、人より控えて学ばせていただこうという意欲と謙虚さは身に付けないとできないことなのです。 


そうです。それは身に付けることなのです。 


これは姿勢です。 



最近は核家族化が進んで姑に上下関係を学ばせていただくこともないですし ましてや家庭間での親子関係でもお友達感覚の親子は多いです。 


配慮することや一歩控えて話をすることなどは日常的に身に付けていくものです。 


それが身に付いていないから人間関係でつまずくのです。 




学ばせていただきたいという心の姿勢ができていないと人は学びが身に付かないものです。 


その姿勢ができていない人がいくら学校に行ったところで身に付きません。 



メールアドバイスではそこから教えていますが、これこそが基本で和の精神です。 



メールアドバイスの方々には手取り足取り教えますが、普段はいちいち教えることはしないのでブログに書いてます。



人が成長したいとの想いは意欲と謙虚さを生むものです。 



学びたい気持ちは学ばせていただこう!という意欲と謙虚さを生むのです。 


発信したい、主張したい想いが強すぎては、身に付くものも身に付かないですね。 




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