この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 責任

『私の大切なものは、家族です。血を分け合った親兄弟子ども親戚だけでなく、地球に一緒に住んでいる全ての生物たちが大きな家族です。全ての家族が幸せになってほしいんです。』



ある人にあなたの大切なもの は?と尋ねて、返ってきた答えがこちらです。


わたしはこの言葉に非常に違和感があります。






大切にするってどういうことだろう?



たいせつ [大切][形動]きわめて重要なさま。大事にして,丁寧に扱うさま。


家族を大事にして、丁寧に扱う。


血を分け合った親兄弟子ども親戚だけでなく、地球に一緒に住んでいる全ての生物たちを大事にして、丁寧に扱う。



そこに自分は存在しない。



この人は何者だろう?


この人は自分を何者だと思っているんだろう?



大事にして、丁寧に扱うということは その人の立場になって考えて行動することに他ならないとわたしは感じて行動していますが この人はわたしが見る限りでは、していないと思う。




わたしは自分のできないことはやりたい、やりますとは言わない。

それは、自分の言葉に責任があるから。

責任の持てないことは言わないしやらない。




だから、この人の言葉は、無責任な言葉に感じます。




無責任な言葉を聞くとわたしは、苦しくなる。
切なくなる。辛くなる。

涙が溢れて止まらない。。。



悲しくて悲しくてたまらない。。。




救命救急センター


余計な感情は必要ない場所。

命を優先する場所。



わたしが今まで働いてきた仕事も同様、余計な感情は仕事の邪魔になっていました。


ミスなく的確に判断してお客様に提供する仕事です。


だからか、医師や看護師の気持ちが痛いほどわかります。

命を最優先にして動いてくださるという視点です。


しかし、医師や看護師には、何かはわからないけれど心の葛藤はあるかもしれません。


だけど、それは患者やお客様には関係ないことで自分の心の葛藤などは治療や提供するものに影響を及ぼすことなどあってはならないことです。


そのための国家資格で責任を担う証と言えるでしょう。

命を預かる責任や的確に判断して最適なものを提供することの責任です。




わたしは責任が好きです。


だからかこんな時は患者目線でなく管理者目線で見てしまいます。


感情優先で生きてる人は、わたしが書いてることに同意出来ないこともあるでしょう。

わたしが自分を客観的に見ることできるのは、たぶん、責任が好きだからだと思います。


好きこそ物の上手なれと言いますが好きだから得意です。

だからか、自分の言葉に責任を持ちますし逆に責任を持たない人には教えます。


そこが上から目線だと思われることがありますが、目の前の相手やお客様にとって最適なものを提供することを最優先にしているだけなのです。


感情が先走りする人とは優先順位は違います。


それを人それぞれだと言われる人もいるけれど、管理する側においてはその考え方はいただけない。





権利と義務の話しになりますが、

守られる補償されるためには、そのための過ごし方があるものだとわたしが考えます。


そのため守られる補償されるためにはそれなりに義務があります。

権利ばかり主張していても義務を果たしていなければ、守られないし補償もされないのです。



これを先述に当てはめてみると、

社会の中で守られ補償されるためには、自己管理という義務が必要でその義務を果たしている人は権利が認められますよ、ということですね。


これはどういうことかと言うと

社会の一員として日々自己管理しながら過ごしている人は最優先で守られるし補償されることを指します。


不摂生している人より自己管理している人の方が守られる率は高いのです。


不摂生している人がどれだけ助かりたいと生きる主張(権利)だけを訴えても叶えられるかといったらわかりません。

権利と義務とはそういうことです。


最近の若者は、そんな考え方は古いと言われますが、権利と義務は新しい古いで括られることではないのです。


自己管理という義務の前提に権利が成り立つことを知りましょう。



だけども、この社会では義務をきちんと果たしていても守られなかったり補償されない時があります。


そんな時こそ権利を主張するべきです。


管理する側も間違うことがあるかもしれませんので。


誰もが非を改める心を持つことが大切です。


誠実でありたいですね。

人間の器が大きくなるということは責任が増え、責任感も増すということです。


そして、器に応じての豊かさや住まいが与えられるものです。



住まいは大きくても器が出来ていない人は、その住まいに応じての器を求められます。


住まい(器)が大きくなればなるほど、メンテナンス 維持を求められますね。

結局、メンテナンスや維持ができてこそなのです。

それが出来ないことには豊かさは入ってこないし器も大きくはならないのです。



メンテナンスや維持することはいわば、その器を持つ上での責任なのです。



小さな家に住んでいる人が大きな家に憧れて、一生懸命にお金を貯めて家を建てたとします。


住んでみて初めて、その維持費やメンテナンス費に驚くのです。

そして、それに合わせて、せっせと働き続けます。
働かなきゃ維持が出来ないからです。



自分の器以上のものを求めると、結局 働き蜂になるか破綻します。


自分の身の丈に合わない夢は無謀です。



先に器だけを大きくすると求められることも大きくなるものですね。


身の丈に合った生活をするのは基本です。



しかし この世の中、不思議なもので 身の丈以上のものを求められることもあります。


それは 将来、その器になるための修行のようなものです。


今はホント小さな器なのに、求められるものは巨大です。

挫折を繰り返しますが、何度も立ち上がり、結果 その器に育っていくのです。


このように 人はそれぞれなる器が違うものです。


今は合っていても 合わなくなると離れていきます。


器が大きくなればなるほど 最低限のメンテナンスや維持費がかかってくるものだから、シンプルに生きようとしてもシンプルではなくなってしまう場合もあります。


それは その人の持って生まれた器によるものです。



器というものは個性とも言いますし、豊かさや住まいでも現されます。



豊かになりたければ、まずは今の自分の器を知ることです。

そして、メンテナンスをしっかりとして その維持をすることが基本なのです。

そして、求められることをしっかりとこなすことです。


求められることというのはいわば基礎固めです。

基礎が出来ていない建物は崩れてしまいますね。


求められることはできること。



その人の器以上のものは求められないものです。

例外はありますが それでも、その人のなりたい器が基準となるのです。





今の世の中 責任を逃れて、小さな器で生きていく人が多いです。

分相応、自分の身の丈に合った生活をすることは基本ですが、自分を低く見積もる人も多いですね。


自分自身を軽んじて生きて楽しいのかしら?とわたし的には感じます。





自分の可能性や自分の内に秘めた力を信じて生きていきたいものですね。

最近 仕事において、プロフェッショナルを求められるようになりました。


プロフェッショナルな高い志

プロフェッショナルな高い倫理観

プロフェッショナルな高い信頼感


です。



わたしの本業は 特に専門職ではないのですが プロフェッショナルとして顧客に接することを要求されるのです。



でも、これって 仕事においては当たり前のことなのです。



最近の風潮では 社内仲良しごっこして協調性を重んじられているように思いますが
実際、顧客からしたら
社内、仲良くしようが厳しかろうか 顧客満足度が高ければよいと わたしは思います。



対顧客を大切にすることが第一条件だと思います。


顧客を満足させることが基本だと思うのです。



そのためには 自分のスキルを磨くことは大前提ですし 意識の高さも必要です。

いい加減な仕事は迷惑をかけますし、 けじめがないのも話しになりませんね。



顧客から高い信頼感を得るためには 日々、向上することだとわたしは考えています。




わたしは スピリチュアル方面の仕事もさせていただきますが
やはり こちらも同様で 意識が低いと話しになりません。



一旦、引き受けた限りは クオリティーの高いものを提供したいと考えています。


それまでは、低料金でお気軽に と設定していましたが 高レベルで提供できるように料金は高めに設定させていただいております。


そのため 施術前、一時間かけて 部屋の浄化、自分の浄化をしていきます。


場所の浄化を何かで代用したり
また、カラオケやさんやカフェで相談を引き受けることもしていません。



だんだん 最初の頃に戻ってきました。




そうすることで 顧客の意識も変わってくるようです。

あなたは、どうやって信頼される人になりますか?



わたしは、以前 生きているだけで愛される存在なんだよ


と書いています。


『生きている』 これをきちんとしていれば、人から信頼される人になります。



『生きている』
自分を意識して、相手も意識して生きることです。



そうやって 生きていれば、誰かの心を軽くしたり、気付きを与えたり、できるのです。



そうやって、信頼されていくのです。



漠然と、書きましたが 人には得て不得てもございます。



自分の出来ること!が、グラウディングになります。


生きる活力になります。



わたしはどうやって人から信頼されるか?と言ったら

まあ、このしつこさでしょう^^



この畳み掛けるほどのしつこさだと思っています。



これからもしつこいままのままをよろしくお願いします。

確かに、人は誰でも尊敬、尊重の対象になるので 誰もが信頼されて良いはずです。



だけど この地球においては、それをわかっている人はまだまだ、少ないのです。



誰もが信頼される人なんだよ!
と、声高々に言ったとしても聞き入れてもらえる人は少ないでしょう。



だって この地球は実績がすべてだから。



そこを受け入れずに、


わたしたちは元々が信頼される存在なのです〜


って、怪しい宗教にしか思われません。




口だけなら誰だって言えるのです。



実績をつくること。



それをするために、生まれてきているのです。




だから、この地上で信頼される人になるのです。

でもね


見ていると

そこでシナリオ通りに進まない人もおられます。



わたしは そういう人を視るとどうも、いらっときて執着しちゃうのです。



わたしがなんとかしてあげたい!

魂さんが泣いている!



と想い、関わりすぎてしまっていました。



だけど

それでも その人の人生です。




見守っていこうと思います。



最終的には、わたしが抱き抱えるのですから〜



やんなっちゃう

ヤな役回りだわ(-.-;)

なら、最初からわたしの言うこと聞いておけばいいのに〜


って想いがあるわたしは、まだまだ、まだまだな存在です^^



オホホ(*^O^*)

信頼される人になる



人の愛 でも書いたと思うのですが

愛というのは、信頼度なのだと思うのです。



求められることは出来ることなのですが

この『求められること』というのは、信頼される度合いで難易度が高くなってくるのです。



また、この信頼される度合いが高いのは 自ずとわかると思うのですが、家族です。



家族間で 信頼度が高ければ、他の方からも信頼されていきます。


家族の仲が良いというのは、信頼度、絆が強いということなのです。



だから、人からの信頼度も高くなりますね。



最終的に、魂というのはその信頼を家族からその周りへと広めていくことをしたいのだと思うのです。



また、ツインフレームの魂におかれましては、

この信頼度は家族間の比ではないくらい元々、高いのが特徴です。




だから 決して、裏切らないし裏切れないのです。



求められることは出来ることです。


信頼度に応じて、求められますので 着実に、丁寧に取り組んでいきたいものですね。




しかし、先ほど書きましたが 人生のシナリオというのは、そうはうまくいかないようにもなっている場合もあります^^




裏切ることもあります。

だから、面白い^^


それをすることで憎しみが生まれたり執着が生まれたりもします。


それが 血となり肉となるのです。



どう、行動するかは その人次第です。



意識を高め、絶対に間違わない!裏切らない!をモットーに生きるのもひとつですし
だらだらと逃げ腰で生きるのもひとつです。




まあ、決めてきてるのだから仕方がない〜



その渦中に居るときは辛いですが 魂的には大満足しているのですぅ



そういう体験を経て、人は成長していくのです。  




そうしてみると、挫折のない人生はつまらないもののような気がします。



でも 最終的には、みな気付きを経て 信頼される人になっていくのです。

頑張らなくていいんだよ
もっと、自由でいいんだよ



と、人は言います。




今朝のメールはこんな内容でした。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ままさん

今日、急遽 出勤になりました。
手薄で、私しか出勤お願いできないそうで。。
断ったんですが、明日の勤務が回らないとのことで、出勤を了承しました。

明日は、娘の卒業式です。
だから、今日は最後の授業なので、いってらっしゃいと見送りしてあげたかった。

それが、してあげられなくて悔しい気持ちになりました。

その気持ちを娘に伝えたけど、私が自分に許可してない
から、悔しいだけが残ってます。
求められることは、出来ると思うど、、
親として見送りしてあげることも、私は求めていたので、今日はちょっと、、
それが叶わなくて、仕事辞めたいとおもっちゃいました。
こんな気持ちでままさんごめんなさい


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


わたしの返信がこちらです。


娘さんの最後の送りをできなかったって
娘さんとA子さんの関係が壊れるわけでもないし

A子さんは立派に仕事をしているのだから、悲観することでもないよ


してあげたい という気持ちはエゴだよ


手をかけることが愛情ではなくて
仕事の厳しさや信念、決められたことを遂行する意思の強さを教えることが大切だよ。


プロでしょ A子さんは

仕事をなめたらあかんよ



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


わたしは こう、教えます。


与えられた仕事を責任を持ってこなす姿勢を見せることが 親の務めだと、教えます。

仕事をすることの大切さを家庭で教えていけば、娘さんは 外に出たときには一生懸命に働くことができるのです。


仕事をすることをぞんざいに考える人は 人からもぞんざいに扱われます。

与えられた仕事はどんな仕事でも仕事なのです。

それを きちんとこなすことで 自分に自信ができるのです。



頑張らなくてもいい。
自由でいい。


そんな意識レベルでいるから、人が育たないのです。



甘やかすだけが能ではない。




頑張り過ぎる人には、そこに意識を集中し過ぎているだけで
頑張りを おおいに認めることではないでしょうか?



何かを犠牲にするという意識は捨てて、目的を遂行するためには 何をするかだけなのです。


それが 仕事の本来の姿です。


仕事をできるだけの器があるにも関わらず、頑張らなくてもいいと 自分に制限をかけるから、息が切れるのです。



求められることはできるのです。


それが 自分の軸となります。



軸というのは、責任感の強さです。


自分自身に繋がって、自分は愛ある存在だとか生かされていることに気づいて 感謝する気持ちは芽生えますが、生きていく強さとは、別物です。




今は 自由やいい加減さを求める風潮がありますが それを求めることで 輪を乱してはいませんか?


本来、自由さいい加減さは、輪をまとめるためにあるものです。


そこを間違えて捉えていませんか?


いくら、自分が良いこと♪と思い、自由さいい加減さを求めても 輪を乱すことは 結果、人とのいさかいを呼びます。


そして その自由さ、いい加減さは 責任感のなさを生みます。



自由やいい加減さを求めるのは、責任を取りたくないからではないですか?

責任を取りたくないのは、自分に自信がないからで 自由さを求めるのは、自信のなさを隠したいからではないですか?


仕事に自由やいい加減さを求めることは、責任を取りたくないからではないですか?





家庭と仕事は違います。


家庭は一家の長がいて、まとまります。


責任は、親が取ってくれるものです。




しかし 仕事は、各自が仕事をきちんとこなすことを求められる場所です。


でも そこで 失敗したら、ペナルティーや上司が責任を取りますね。




その責任を取りたくないからと、責任のない仕事をしたいと 求めます。


自由がいいと、責任のない仕事を求めます。



結果、自分の人生に責任を取らずに生きていくのです。



と いうことは、誰からも 求められず、当てにされずに生きていくということです。



自由に生きるということはそういうことです。



だったら、寂しいと言うな!

しかし、寂しいから、責任を取れない者同士が集まって、コミニュティをつくる。。。


楽しいことばかりを探して歩き回るコミニュティ。


責任感のかけらもないコミニュティ。



そんな人たちも世の中には存在しますね。



なんの責任も持たないのに、権利だけ主張する。





この世界には、汗水たらして働いている人がいるのです。


その人達が働くから、成り立っている世界です。




責任のない人にはわからないでしょうね。。。


何も責任を取らずに生きている人は、わからないのだと思います。





頑張らなくてもいいんだよ。
自由でいいんだよ。

という風潮の中でも、頑張って働いている人がいるから 成り立っている、生かされていることを知ってほしいと思います。


責任感のない自分を認めてもらいたいなら、まずは 責任感のない自分になったことを人のせいにしてはいけない。




自分は責任感がないと自覚することです。


最近、迷惑かけられることが続いています。 


わたしは許すので、結果 迷惑には感じてはいないのですが、相手側の自己管理がなっていないことが原因に思います。 


自己責任というのかな? 

自己管理が甘いのでしょう。 


何故、自己管理が甘いかというと、感謝がないから。 


人に対する敬いの心も感謝の心もないから。 



そのような方は一度や二度じゃなく繰り返しているはずです。 


許されることを当たり前にして許されることに感謝がないから繰り返すのです。 


人に指摘されるなら良いと思いますが指摘されずに離れてかれるとようやく気づくでしょう。 



そうやって、感謝を学ぶのです。 




比較的、感謝ある人は何物事も丁寧にこなし確認を怠らないものです。 

そして 自分の非を感じたらすぐさま謝罪の意思を示すものです。


人となりは謝り方に表れるものですね。 





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これを逆の立場から考えてみます。 


つまり 相手側から。 


悪気があってしたわけでない、つい うっかりと。 


これは、それをするのは、違うよ〜 離れなさ〜い とのサインであることも。 


何かにしがみついていると 結果、うまくいかないことや人に迷惑かけることが続く とも言えます。 


スピリチュアルな人というのは、このように考えがちですが、それにしても 人となりは謝罪で表れます。 


感謝のない人は何かを切り捨てないと次に行けないものですね。 


学びを深めていける人は器が広いので、何かを手離さなくても同時進行できるものです。 


自分のお望みのままに。 



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