この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 責任

ままのままという存在
たいがい、マスタークラスともなると どんなことでも自分で解決できるからたいして困ることはありません。 


ただ、その位置というのは、相談する人がいないし、わかってくれる人がいないので孤独です。 


だから、認めてもらいたいわけではないのですが、わがままを言いたくなります。 



マスタークラスの人たちは、主に 人を守ったり教える立場の人が多いです。 


マスタークラスの人たちは、自分自身に向上心があるから教えることが出来るのですが、教えることばかりだと 苦しくなるのです。 


呼吸で言うところの呼気です。 


呼気ばかりですと、苦しいです。 

吸気がないと、苦しいですね。 


取り入れる場所が必要です。学ぶ場所が必要です。




最近のわたしは、このマスタークラスの人に関わることが多いです。 


マスターたちを癒したり教えたり、ホント ままのままの役目です。 


また 神様からも呼ばれます。 


上に立つ人や人を導く存在というのは、その立場になってみないとわからないもので ストレスを感じる人、存在がいるものです。 


そんな時には、無性に癒しが欲しくなるものです。



誰でもどんな存在でも癒しは必要なのです。 


神々やマスタークラスの人たちに、呼ばれます。



学びが足りない者には教えます。 

癒されたい人には、そばにいて語りかけます。 

ナデナデされたい人にはナデナデナデナデします。 

愚痴を言いたい人には、延々と聞きます。 




ほんと わたしってゴミ箱のように、扱われてます。 

マルチです。 



そんなわたしですが この2、3日の間ですが、その責任感故に、ある人との関係が悪くなってしまいました。


そのため 凹んでいたのです。 


わたしの大切な人を傷付けてしまったのです。。。 


えらいこっちゃです。。。 



こう言っちゃアレですが こうやって24時間働かされてるままのままの大切な人がその責任感故に傷付けてしまったというのは、宇宙の責任です。 
だから、今日はわたしの業務すべてがstopして、大切な方につきっきりです。。。 


親玉みたいなものですね。 



わたしは、ままのままです。 


わたしは、この役目を降りることはできません。


わたしは、ままのままとして生きるのです。 



あきらめない、間違えない をモットーに生きてるわたしですが、わたしはこの生き方が自分らしいし楽なのです。


楽と聞いて、不思議に思うかもしれませんが 楽なのです。


だから、自慢することでもなく書いてます。


自分を律することや自分に厳しいことも わたしは楽なのです。


難しくないし楽しいのです。


自分らしく生きてるだけだから。


だから、継続できるのです。



わたしは基本、できないことはやらないし、首も突っ込まないです。


楽だから、やってるんです。


なぜなら、感情がないから。


自分の行動を邪魔する感情がないから、サクサク動けるのです。




わたしは、内観浄化を繰り返してきて 感情がほとんどないので このように動けるようになり、一目置かれることになったに過ぎないのです。


だから、威張ったり自慢することでもないのです。



ホント、わたしは内観浄化を繰り返してきたおかげで 今まで苦手だったことが出来るようになったというだけです。


最初は、努力は必要ですが 加速がつけは誰でもできます。


サクサク出来るようになります。


「克服してきました」と先記事では書いたけど、そんなたいそうなことでもないのです^^



だって わたし、基本は、できないことはやらないし、首も突っ込まないです。


出来るようになってきたから、手が出る足が出て、お口も達者になってしまった ってだけです。




だから ホント、改まって感謝されると 恥ずかしいのです。


自分としては、自由に楽に生きてるだけで 一目置かれたり感謝されるのですから。。。



これがわたしにとっての楽で自由な生き方です。

いつのまにかなりたい自分になってる


と、ふと 感じました。


確かに、今まで 様々な努力はしてきました。

だけど、そのために努力してきたわけではありません。



わたしは、仕事はしていますが、そこで稼いだお金だけで生活してるわけでもなくて、主人に養われてる身でもあります。

だからといって肩身狭く生きてるわけでもなくて、自由に暮らしています。


主人には、わたしはドラえもんのポケットを持っている と言われます。


主人から投げ掛けられた一言で、様々な情報を受け取り、その時に必要なものをさっと差し出す、その技はスゴイと誉められ、一目置かれています。


そうそう、わたしはどんな人や場所においても一目置かれています。


わたしは芸術的才能はないですし、音楽にも疎いです。

事務的なことも苦手で、世間的にみたらできないことが大変多い人間です。

そして、勉強が出来たかと言ったら、そうでもないです。


だから、以前言われていた勝ち組負け組に分類したら負け組に分類される人間だったと思います。

でも 今では、勝ち組と言われる方々からも一目置かれるようになりました。


それはどうしてかと言うと、わたしは正確だからだと思います^^


どういうことかと言いますと、
苦手なことはたくさんありますが、その中でもわたしは苦手なことを克服してきました。

結果、出来ないから出来るに変えてきたのです。
また わたしはそれを継続してきたということもあります。

今でも、継続中です。



あきらめない。

間違えない。



わたしは、これをモットーにしています。



ブログには、わたしの見えない世界の話やエネルギーの話、指先ひとつでエネルギーを動かすことなどを織り交ぜて書いていますが、わたし一個人としましては、そんなことはわたしの一部分です。
また、さっきの話し(ドラえもんのポケット)もわたしの一部分です。


わたしは、普通に人間として、あきらめないし間違えない、をモットーにして生きてる人間なのです。


それが周りの人から認められて信頼され、一目置かれる要因です。


それをしてきたら、あら不思議?エネルギー的なことが次第に出来るようになり開けてきたのです。


人間らしく、人間として、人間に紛れて、生きていく努力をしているわたしの隠れたご褒美がドラえもんのポケットを授かった、ということになるのかもしれません。



一目置かれるためには、正確さを目指すことが鍵かもしれませんね。


わたしは人には甘いですが自分には超、厳しいです。

『自分の人生に責任を持って生きる』


以前のわたしは、この言葉がとても怖かった。


それは、それまでの人生に責任を持って生きてこなかったからです。



『責任』

重々しくて、怖かった。




でも 今は、違う。


ちゃんと 責任感のあるわたしになってる。


いつの間にかなってる。


責任感を持ちなさい!

と言われると、その重々しさに 躊躇して、心臓バクバクしてきて勇気を振り絞らないとできない と思えてしまう。

なんだか、責任感を持ちなさい!という言葉は、脅しのように思えてしまう。


人は脅されると、恐怖心を抱いてしまう。

そして、二の足を踏む。


それが原因で、できなくなってしまうんだと思う。


勇気を持って!という言葉も同じかもしれない。



今のわたしは、何でも 軽々とやる。

気負わないし、失敗を恐れない。



結局、責任を持つということは 失敗してもいいと思うことだと思う。


完璧を目指そうと思うから、怖いんだ。


失敗をしてもいい

と思っていれば、怖くない。



失敗したら誰かから責められないだろうか?とは思わない。


なぜなら、ちゃんと計画立てて、緻密に物事を考えて行動しているから。

物事をよく考えて行動するようになったから。

物事の本質がわかるようになったから。


物事の本質がわかるから、責任を負っても怖くないんだね。

こうして考えてみると 自分自ら怖い人や怖いことを造り上げている人もいるのではないかしら?



そしてそれは、勇気を出すというよりも 思い込みを外すことで越えられることに気づくのではないでしょうか?



最初から怖いものはなかった、ことに気づくのではないでしょうか?



人とのコミニュケーションの上で、最低限しなければならない『伝える』ということを疎かにしていたから、恐怖心が生まれてしまった。


伝えることは、人にとって大切なことだと感じています。



自分の感情を伝えるのではなくて、自分の現状を伝えるのです。


ありのままの自分を伝えるのです

それって難しいことですか?


難しくさせてるのは、誰ですか?

相手に不満や意見があるなら、伝えるべきだと思う。


感情的になるのではなく、伝える。


それを相手が受け取って、どう感じるかはその人の問題。


伝えるまでは、自分の責任。


相手に伝えてからは、相手の責任。



相手がそれを受け取って泣こうがわめこうが喜ぼうが相手の責任。


だけど、それによって相手から攻撃されるようなことが考えられるなら、伝える方を考えるべきなんだ。


自分が傷つけられるために、相手に伝えるわけではないのだから。



相手に不満や意見がある場合意見を伝えるのは、自分を満たすためだから。



だから、言葉の使い方って大切だね。



結局、愚痴ばかり言って、不満や意見があっても言わない人は、言葉の使い方に自信がない人。



自分に自信がないから、自分の意見を言えないんだよ。

何もわからず、仕事もできない人に仕事を任せることはないと思う。


それを 自分は仕事ができるから任せられているとか、任せられて忙しいとか感じるのは、それは錯覚でしかなくて、ただ、集中できないから作業に時間がかかっているだけに過ぎない。


作業は、ただ作業でしかなく、仕事とは言えない。


仕事はただ作業するだけでなく、頭を使って計画立てて念入りに集中して進めるものだから。


仕事が出来ない人が多いし、仕事をしない人が多い。


それでよく、働いていると言えるなあ と思う。


効率を考えて行動することは当たり前なんだ。



そんな基本的なこともわからず働くのは、真剣に働いている人に対して失礼だ。


朝、起きたら掃除して身支度を整えて、神仏に手を合わせてから食事をする。
家事をてきぱきとこなし、食事をつくり、掃除をする。
そして、家計も管理する。


そんな主婦の仕事がきちんとこなせてこそ、社会に出て働けるのだと思うのです。



家庭に携わることは、いろいろ多くて、時間や家計のやりくりも必要で、掃除や料理も集中力をもってすれば、余った時間やお金を他に回せます。

計画立てて、集中して、やりくりすることって 社会生活のどんな場面でも求められていると思うのです。



何かに悩んで苦しんでいても、そうやって生活をすることは当たり前で疎かにすることではないのです。


違いますか?


昔の人は そんなことは当たり前にやっていました。
今の人は、さぼってばかりいるような気がします。


家の掃除もろくにせず、うろうろショッピングセンターをうろつき回ったり、遊び歩いたりしているから、不幸なことが起きるのです。



それが出来ていても悩みがあるならば それはスピリチュアル的に視てみる必要があるのかもしれませんね。

仕事の分担というか役割ってある。



わたしは最近、忘れっぽいです。


仕事でも 頼まれたことをよく、忘れるのです。

でも、自分の仕事は絶対に忘れないのです。


わたしの身体はとても正直で、自分の仕事(役割)は必ず、やりとげますが 自分の仕事以外においては、そうでもないのです。


どんな存在が わたしの身体を動かしているのかはわからないのですが、こうやって体験しながら様々なことを気付かされます。


先ほどの記事で 『これからは、誰もが 人のことなんて構っていられなくなるね。』と書きましたが、自分の役割を遂行するということは 自分以外の仕事には関われなくなるともとらえることができます。


いくら、人から頼まれた仕事でも その仕事自体はその人の仕事だから、その人がやるべき仕事だということなのです。


だから、人に頼もうとしても、誰かが代わりにやってあげようとしても 責任は元の人にあるということなのですね。



たまに、「頼んだわたしがバカだった」 と言われることがありますが、元々は 頼んだ人に責任がある仕事なのです。




わたしの身体は、実に正直だから、そのように反応をしてしまうようです。


わたしは、わたしの身体の動きがすべてです。

わたしが言うんだから間違いない。



こんな理屈、まだまだ この世界では通用しないかもしれませんが、そういうことなのです。



だから、忘れっぽい人や〜が出来ない って嘆いている人は、そもそも自分の役割以外のことをしようとしているんじゃないの?と思います。


最近、生まれてくる子供や 生まれてきているお子さんの中には、発達なんちゃらと言われている子もいますが、違う役割をやらせようと思うから、病名をつけられてしまうのではないでしょうか?

世界的、宇宙的に見たら 優秀な人材として生まれてきているに過ぎないのだと思います。



芸術に秀でている、スポーツに秀でている、頭脳を動かすことに秀でている、身体を動かすことに秀でている、手先の器用さに秀でている、音楽的に秀でている、、、、、

誰もが、何か秀でているものを持って生まれてきているものです。




それが この世に生まれてきている人間という生き物なんだと思います。



わたし、ですか?

わたしはお口が達者です^^



まあ こうやって、本来の自分に戻っていくのです。



すべては、うまくいっている。

わたしは普段はスピリチュアルとは真逆な仕事をしているんです。


その仕事をしていて思うのは、仕事というものは片手間に出来るほど甘くないし、責任感が伴うものだ ということなのです。



わたしがひとつミスをおかすと、周りの人に迷惑がかかるし、時間も余計にとられます。


だから、仕事に取り組んでいる時は、非常に集中しますし、注意力も求められます。


そのため 仕事が終わると脱力感で、あとは何にも出来なくなるのです。


ハッキリいって主婦との両立はキツいです。



仕事には必ず、責任がついて回るものです。


ひとつ間違えば、命に関わることも出てくるのです。


それ故、資格試験が難しくなっているのだと思います。


その資格があれば、プロとしての責任が問われるのですから責任重大ですね。


だから、おいそれと許可できないこともあるわけです。




今の世の中は、このように、責任感を持って仕事をしている人もいれば、責任感を持たずに暮らしている人もいるわけです。



スピリチュアルな記事を書いて読者の方と交流していると 責任感のない発言をされている方が目立ちます。



現実のわたしの周りには、責任感を持って仕事をされている方々が多いです。

そして、スピリチュアルなことも知らずに生きていても幸せを感じて過ごされています。



人として生きるためには 反省することが大切だと 先記事で書かせていただきましたが、責任感を持って仕事をするためには まず、反省をすることで集中力や注意力が育つのだと思います。


スピリチュアルなことに目を向けることは楽しいかもしれませんが、集中力や注意力を育てることにも関心を向けていただきたいものです。

お金があったら〇〇〇出来るのに
という裏には、自分の責任感のなさを嘆いていることなのです。



自分の責任感のなさ、信頼のなさ に不満があるからです。


豊かさが入ってこないのは、自分の人生に責任を取りたくないからではないですか?



心が安定していれば 何事もゆとりを持って行動ができるから失敗もありません。


しかし 心に余裕がないと失敗したり事故したりします。
すると それに伴って、失敗なら謝り挽回をしなくてはいけませんし、事故なら修理代の支払いもしなくてはいけません。


それは余分なことです。


心が安定していたら起こり得ないことです。


シンプルに生きるとは、このようなことを起こさないように生きるということなのです。



自分を万全に努めていたら、何事も起こりません。

時間も余裕が出来、余暇も増えます。




忙しい、忙しいといっている人は 結局、失敗するからです。


失敗を直す時間に時間がかかっているだけで 失敗しなければ 何事も早く終わるのです。


失敗するからお金も余分にかかるのです。


お金が欲しい、豊かさが欲しいなら、失敗しない人になるべきです。


たったそれだけのことなのに、出来ない人がいる。


それは 感情の浮き沈みが激しいからです。




何事も落ち着いて物事に取り掛かれば、失敗もないし集中できるものです。




結局、感情的な人ほど 豊かさからほど遠い生活を送るでしょう。




自分の人生に責任を持って生きると書くと、大袈裟なように思うかもしれませんが 心に余裕を持って生活を送るだけのことです。

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