この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 敬う心


先の記事で、 

“わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。” 

と書きましたが、 

待っていていただく間には、 

わき上がる想いがないことを詫びます。 



「感謝感じることが出来なくてごめんなさい」 

という想いがわき上がるからです。




自分の感情と向き合い続けると、感情の動きに敏感になります。 
敏感になるから、それを言葉にして伝えることが出来るのです。 



たまに言葉に出来ない想いが湧いてくる時もありますが、言葉にして伝えることを務めてきました。 



内観を繰り返すと、自分の心の動きに敏感になり それを伝えたり行動に表すことが出来るようになります。 
継続するから出来るようになるのです。 


日常的に生活の中で身に付けていくのです。 



礼儀や感謝を表すことは身に付いてこそ、だとわたしは考えています。 




伝統の記事で繋げていくと書きましたが、この想いこそが国常立宮豊雲野宮以前の伝統です。 


イザナギとイザナミの話しでイザナギがイザナミにたいしてそのような想いがあったなら、お姿を観てしまうことはなかったはずです。 
黄泉の国に踏み入れてしまったから、イザナギ以下は祓わねばならなくなったのです。 


祓いは無礼をお許しくださいという意味なのですから。 


美しいイザナミが愛する方に醜い姿など見せたくはない。 
そこで イザナギが驚いて逃げるだなんて、無礼以外何物もない。 


だから わたしはイザナギとは話しはしないんだ。 
イザナミさんとはよくお喋りするけど。 




昨日のコメントを読ませていただいて 
「内側からの想いに無視出来ない!」という想いは、人に対しての礼儀に通じると感じました。 




わたしは、今まで「感謝して生きる」というテーマで幾つも記事を書いてきていますが、この「内側からの想いに無視出来ない」という想いこそが感謝の根源だと思うからです。 




わたしは礼儀とは「〜しなければならない」ものではなくて、わき上がる想いが形になったに過ぎないと思うのです。 




礼儀正しい方の中でわき上がる想いでされてる方よりも形式的にされてる方の方が多いように思います。 




わたしは人に対してわき上がる想いが出ない場合 は想いが高まるまで待ちます。 

そんな時は何故わき上がらないのだろうと内観します。 

待っている間(要は人を待たせている)に相手から感謝の強要されることもあります^^ 

しかし、嫌な気持ちになりながらでも待ちます。(超自分本意) 

そうして やっと、自分の内側から想いが発動されて、、、、実践させていただくのです。 



見せかけの礼儀は相手に失礼だと思うからです。 


しかし 世間では見せかけの礼儀が求められているように感じます。 


それは、想いは見えないからです。 


心の中で舌を出していても頭を下げればまかり通る人が多いからでしょうね。 


しかし 神様は騙せませんよ。 





わき上がる想いこそが礼儀だと感じるので、そこには謙虚さがつきまとうものだと思います。 



そのため わき上がる想いは自己主張とは思いません。 




見せかけの礼儀をされてる方々がわき上がる想いから発せられる礼儀に変わっていけますように。 

また 今は想いがわき上がらない人にも想いがわき上がるようになりますように。 





感謝するとは
ありがたく頂戴するという 謙虚な気持ちが含まれています。


本当に そのような気持ちで この『感謝する』言葉を使っていますか?



この地球に生まれ落ち 地球に生かされていることを知ると 『生かされているいるだけでありがたい』という謙虚な気持ちが生まれます。


そうすると この地球にあるものを食させていただける喜びを感じ
『いただきます』という言葉が生まれました。


『いただきます』も また その謙虚な気持ちが前提にあるのです。



人と接する時 お話をさせていただく時にも 謙虚な気持ちを持つと
『お話しを頂戴する』という姿勢で お言葉を頂戴することができるのです。



言葉の意味を知ると すべてに『謙虚な気持ち』が含まれています。


人は 対等だと言うけれど 私はそうは思いません。

男女があり性質が違います。

また、親子もそうです。


性質が違うのに 対等であるわけがないと思うのです。



でも そこには 思いやりや 謙虚さが あれば お互いの関係を築いていけるのです。


男女間においても 謙虚な気持ちで お互いが接すれば 男性の役割 女性の役割を 生かすことができ、 その間で 尊敬という気持ちが芽生えるでしょう。


親子間でも同様です。

子供は親を敬い、親は子供を守るのです。


子供は宇宙の宝です。


宇宙の宝を育てさせていただける、守らせていただけることが 人として生まれてきた使命ではないのでしょうか?


実際に、自分が産んだ子供がいなくても
宇宙の宝を守るのは、わたしたち社会の務めなのです。



ありがたく頂戴する


生かされているいるだけでありがたい


恵みをいただく


お話しを頂戴する



すべて、相手への尊敬の想いが込められています。



感謝をすることは、尊敬すること、敬うことです。



感謝をすることは 人を敬うことです。



あなたは 人を敬っていますか?


感謝をしていますか?

『信じること』


何があっても離れていかない と信じること。


また 学びが終わったら、離れるんだ と信じること。



信じることが大切です。



これからは分離と統合の時代ですと書きましたが、 自分自ら離れていく選択をしなくても 学びが終われば、離れられますし 離れない と信じていれば、統合していきます。


人は徐々に、その波動によって 引き合う人離れていく人がいるものです。
それは離れなければいけないと、離れる選択をしなければいけないものではないのです。


目の前に起こることに真摯に対応していけば、自ら離れなくても、嫌いな人とはそぐわなくなり、自然に別れがやってくるものです。


また、好きな人とは自然に、寄り添っていくものです。



これが これからは、分離と統合の時代です という意味です。




この信じる力を育てることが成長するということですし、自分の自信に繋がります。



どこまで、自分を信じられるでしょうか?

先日の記事『これからの時代を生きるために』は、書いていて脱線して 本当に言いたかったことが抜けていたため もう一度書いてます。


『どうやら これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代に入るようです。』


と書きました。



スピリチュアルなメッセージでは、これからは分離と統合の時代です とよく言われますが、それを正確に理解している人はいるのでしょうか?



具体的に、事細かに教えてもらわないとわからないと思います。


そのためには、自分自身を知らないと、よりわからないのです。



その人その人の分離、統合があるのです。


同じはないのです。


これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代。


これを読んで、自分に当てはめて どうしたらよいかがわかる人はいますか?



意味わかんない!って思いませんか?



だらだら、ブログを読んでいても 自分に置き換えて考えられないようでは何もならないのです。



ただ、読んでるだけの人が多いと思います。




わからなかったら人に聞くなり質問するなら調べるならしないのかなあ?



一昨日、FBのメッセンジャーからメッセージをいただいた方がいらっしゃいます。

わたしは、ワケわからないまま電話します。

メールのやり取りは面倒なんです。

セッションの詳細を、と言われましたが 今はセッションはやってないです。

それは 大概が人からの相談内容がスピリチュアルな能力は使わなくても解決するからです。


だから、当然 無料です。


お風呂に入る前の15分ぐらいの間にお話しをしていました。


全部が全部、解決には至りませんが 今、できることをお伝えしました。


ただ、それだけです。


そして また、わからなくなったら電話をしてきてくだされば良いのです。


自分自身にしっかり繋がらないと、 スピリチュアルなメッセージを正確に読み取ることや具体的なことってわからないものです。


わからないうちは、聞けばいいのです。


わたしと話をするって、大袈裟なことでもないですし、ほんと隣の口うるさいおばさんです、わたしは。


聞かれれば、何でも答えます。


便利だと思います。


だから、周りからは便利に使われますし、重宝がられます。

だから、神様からも使われるのです。




あっ また、話が脱線しちゃった。。。スンマセン

自分がこうしたい!こうなりたい!という目的があるならば、きちんと筋道立てて考えなくてはならない。


また それは、感情に左右されるものではなくて ちゃんと ビジネスライクに考えなくてはならない。

そのためには、手放さなきゃ話しにならない感情もあるのです。




内観浄化というのは、自分の内側にある感情と向き合い、手放していく作業です。


人は感情を味わい乗り越えることで成長します。


乗り越えたら、離れていくものです。


また まだまだ、乗り越えられなくて 味わい足りない感情は、離れていかないものです。





人生の目的がわからずに過ごされている方もみられます。


それでも 味わいつくした感情は離れていきます。

そのため 目的はわからなくても目的に近づいているものです。


だから、目的がわからなくても 目の前に起きていることを確実に生きていくと 知らないうちに目的にたどり着きます。




どうやら これからの時代は、目指す目的のために 何をしたらよいか、どう行動するとよいか という具現化する時代に入るようです。


そのため この12月は、最終的に感情の手放しが起こるように仕向けられているようです。




わたしはたまに、自分でもわからない行動をとります。


それは 人に対して追い込みをかけます。
感情を煽るとも言います。


それは どうやら、上からの指示でやらされているのです。


その人の感情の手放しが起きるようにわたしが動かされます。


嫌な役です。
嫌われる役目でもあります。


しかし、それは一度だけ行われます。


二度はありません。


一度だけ行い、相手がわたしに耳を貸さなかったら そこで切り上げます。

あとは、神の采配によるでしょう。


わたしは一度は手を差し伸べるのです。


それは わたしの目の届くところにいる人に対しての責任感からです。


一度は口を開くのです。

説教する、とも言います。


だけど 二度目はありません。


あとは神に委ねます。


そんなお役がわたしにはあります。


わたしはままのままだから。



わたしの声を聞いて 人生の目的に着実に近づいていく人もあれば、
わたしの声を無視して 人生の目的から離れていく人もいらっしゃいます。


仕方がない。


それが宇宙の自由意思というものだから。。。




わたしの声を無視した人は病が離れないようです。


仕方がない。


相手の想いを感じ取ることを努めると、自ずと相手を敬うことが出来るだろう。 



相手の立場になって考えることも大切。 


それ以上に、相手の想いを感じ取ることも大切。 




人は優しい。 


人は優しいことに気づかされるね。 




何か指摘したい時ってそんな優しさを受け取っていない時なんだ。 


相手の想いを感じ取ることに意識を向けてみよう。 


すると 自分も優しくなるね。 






今の時代は古いものを排除して新しいものを取り入れる傾向がありますが、その中でも変わらないものがあります。

それは、人心、つまり「敬う心」です。



今まで付き合ってきた方との別れや新しい出会いの中で大切にするべきことは、この、敬う心なのです。




それが、人としての基本であり常識です。 






人として生きるということは、これが根底にあり、軸とも言えるでしょう。 





感謝を感じることも謙虚さも人にお願いすることもこれを忘れなければうまくいくはずです。 



人との関係も、常に人を敬うことを忘れなければ、うまく進むでしょう。 



人に甘えてもいいし嫌ってもいいのです。 



だけど、根底に、「敬う心」を持って接してください。 



相手も笑顔で接してくださるでしょう。 





結局、気難しい人は 自分を尊敬できないから 人に気を使われたいのだと思います。



自分のことをバカにしているんだね。


そして 人に気を使われたり認められることで、自分を満たしているんだね。



逆に、人に気を使わせない人は 自分の良さをわかっているんだと思う。


気難しい人と接するには、気を使うのではなくて 配慮が必要なのです。


認められたい、自分を大きく見せたい、バカにされたくない。。。

そんな想いをわかってあげる広い心を持つとよいでしょう。



そのためれには、何かあるから、尊敬するのではなくて
何もなくても 肩書きも立場を関係なく 人間性が尊敬できる、好きだよ と伝えることが大切です。



〇〇〇だから、好き。

〇〇〇だから、尊敬しています。


ではなくて

気難しいその人、そのままが尊敬できるんだよ と伝えることですね。




『そのままのあなたがいいんだよ』


のフレーズは、このことから来ているのですね。



でも 実際、この地球で生きているのは 親子関係、師弟関係とあります。


先日の記事『認めることと受け入れること』で、


『認める』というのは、対等な立場であって出来ること。


魂は対等ですが 人間的立場があって わたしたちは生きているのです。


と書いた通り


『そのままのあなたでいいんだよ』


という言葉は、対等な相手に使う言葉であって

目上の方に使うことは失礼になります。


その場合には

礼を尽くすのです。



礼を尽くすのは、言葉や態度、行動があります。


その基になる行動が『笑顔』なのです。


『笑顔』で感謝を表すのです。



自分のために笑顔でいるのではなくて


相手を敬うため、慈しむために笑顔でいるのです。


気難しい目上の人に対しても、笑顔で礼を尽くすのです。


決して、苦虫潰した顔で気を使わないでくださいね♪


笑顔ですよ〜

人を敬うことと、気を使うことは違います。

よくよく、世間を観ていると

人に気を使っている人はよく見掛けますが
人を敬っている人はあまり見掛けません。

敬うことは気を使うことではありません。

[敬う][他]相手を目上と考え,礼をつくしてふるまう。敬(けい)する。

[礼儀]社会生活の秩序や円滑な人間関係を保つために守るべき行動規範。特に,相手に敬意を表す作法。

けいい [敬意]尊敬する気持ち。

このように、人を敬うことは、人を尊敬する気持ちがあることが前提です。

人を尊敬する気持ちがあるならば 気を使って、肩が凝ったり 頭が痛くなることはないのです。

気持ちがよくなるはずなのです。

逆に 人に気を使われて、頭が痛くなったり肩が凝ったりされる場合は 尊敬されていないということなのです。

人に気を使われない人、尊敬される人になるように心掛けるといいと思います。


気難しい人と思われるか尊敬される人になるか、ですね。

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