この世界にあるすべてのものは感謝するために存在するbyままのまま

カテゴリ: 歩み寄り




人間関係の中で難しいのは、人と人との仲を取り持つことではないでしょうか?




例えば、


親と彼との仲


上司と同僚や部下との仲


友人同士の仲


など、挙げたら数え切れないくらいさまざまパターンがあることでしょう。



間に入って仲を取り持つ。


会社で言えば、中間管理職に課せられることですね。


会社組織では、そこで学び役職が上がっていくものです。


また、会社組織でなくても仲を取り持つということは、とても重要に思います。


一方では相手を敬い懐に入り、一方では自分を信用させて懐に入れる。


仲介するだけ紹介するだけの取り次ぎとは違います。


しかし、その取り次ぐことすらもままならない人は、少なくないように感じます。


それは何故かというと、自分の感情の入った自分視点で人を見て判断するからです。



ありのままを見てそのままを伝える、ということが取り次ぐことであるのに対し、自分視点で感じたことを伝えるのは、取り次ぎとは言えません。


感情が入った見方をしてそれを伝えていたのでは、相手にありのままは伝わらないのです。



人間関係においてわたしが厳しく教えることがあります。


それは、《ありのままを見る》ということです。


これは、基本です。



まずは、自分視点で見るのではなく、ありのままを見て伝えることを教えていきます。


自分の感情抜きに相手のありのままを見ること。


そのために、観念浄化ワークを用いた指導をさせていただいています。


復唱しますが、


ありのままを見て伝えるという取り次ぐことも出来ないのに、人との仲を取り持つことは出来ないのです。


人との仲を取り持つことができるためには、まずは取り次ぎができることからです。



右手で受け取ったものを左手に持ち替えて渡す。


ただそれだけの作業を右手で受け取ったら、左手に持ち替えた時に自分の感情を上乗せしてから人に渡す人が後を絶ちません。


最終的に

わたしが教えたいことは、仲を取り持つことですが、

取り次ぎが出来なくて止まっている人が少なくないので、まだまだ先は長いです。


右から左に流すだけなのになあ〜〜




人は誰しもひとりでは生きてはいけないものです。 




誰もが、誰かを頼り、誰かに支えられて生きていくものです。 




しかし、誰かを頼り誰かを支えにすればうまく生きていけるわけではないのです。 




それは、自ら歩み寄る心が必要だからです。 






頼りっぱなし支えられぱなしでは、関係は崩れます。 




相互間における歩み寄りがなければ、関係は続いてはいけないでしょう。 






親子関係にしても同じことが言えます。 






子供のうちは頼りっぱなし支えられぱなしでもよいかもしれませんが、自立する年頃になったら、互いに思い遣り労り合い歩み寄る気持ちがなければ良好な関係は続けてはいけないものです。 






自立というと、自分の足で立つ、頼らないと言われる方がいらっしゃいますがそれは違います。 


本当の自立とは、自ら歩み寄る心を持つことです。 






考え違いされてる方も少なくないので書かせていただきました。 






神様からの想いや歩みよりを感じるためには、
「自らの歩み寄り」と書きましたが ただ、仲良くしたい〜というような歩み寄りではなくて、根底に敬う心を備えての歩み寄りをしていくことです。


歩み寄りすればいいんだ〜と簡単に考えて、相手を逆に怒らせてしまうなら歩み寄らないほうが良いかもしれません。 




敬う心を持つことは、人として基本的なことで特別なことではありませんが それを持たない人が少なくないように思います。 



親子関係や師弟関係などこの世界には上下関係というものが存在します。 

あと 友達同士の対等な関係でも相手を敬う心は基本的なことです。 




歩み寄りと敬う心はセットなのです。 



先程は、受け入れようとか歩み寄ろうという概念がないと書きましたが、あることに気づくと思います。 


それは、ナイものは推し量れない。 


そうです。 
受け入れよう歩み寄ろうという相手からの気持ちがわからないのです。 

わからないならそれで良いのですがわからないからそこで不安になります。変な動きをされてる?と考えるようです。 




わたしの「グラウディング出来ていない直観は妄想だ」はこういうことです。 

いくら瞑想しても神様からの想いや歩みよりを感じられないのです。 



神様からの想いや歩みよりを感じるためには、人からの歩みよりや受け入れようとする気持ちが理解出来ないことには難しいのかもしれません。 



そのためには、自らが歩み寄ることからなのです。 


その実践、経験を積むことです。 




結婚して子供が出来てみて親の気持ちがわかるとはこういうことなのです。




これが出来て初めて人の気持ちがわかると言えるのです。 


エンパスの共感力の高い方やサイキックの能力で人の心を読む力が高い方でもこの歩み寄ろうとする気持ちのない方は正しく受け取れないですね。 




スピリチュアルな人と言われる人に多い傾向です。 



やはり、自ら歩み寄るという経験を増やすことで気付いていけるでしょうね。 



これはいわば、テレパシーを使う上での基本になるものです。




人から受け入れられたいと感じてる人は少なくないですが そのような方たちに自分から受け入れようとか歩み寄ろうという概念がないことに驚かされます。



受け入れてもらいたいしかない。 
自分から歩み寄るとかはない。



与えられたいしかないのです。  





◎◎すると人から受け入れてもらえるようだ。 

と聞くと、それが一見簡単そうに見えると手を出します。 

でも すぐにやめます。 



「自分には合わない」とか言って。 



それは、合わないわけではなくて 自分から歩み寄らなければならないことに気付くからです。 


人から与えられることは当たり前。 
だけど 自分が出すのは舌を出すのもイヤ。  


これはお金の観念とも関係しているようですね。 




先記事に投稿した歩み寄りは、豊かなままのままさんからの歩み寄りでした。 

ままのままさんは言わば神様ですから豊かさに溢れています。 


愛情たっぷりです。 



ままのままさんはわたし自身でもあります。 



わたしはわたし自身から愛情たっぷり注がれているのですが誰もが同様に自分自身から注がれているものです。 


気がついていないだけで。 


自覚もないですかね? 






一度、静かな場所で目を瞑り自分自身と対話をしてみてください。 



自分自身からたっぷりと愛情が注がれているのを感じとれるのではないでしょうか? 




これは真実のお話しです。 





人は誰しも救われたい。 だから 他宗教を受け入れてきた。 

「救われたい」想いがわかるからこそ他宗教を受け入れてきた先人逹。 

それが日本。



誰かに寄り掛かりたい、慰めてもらいたい、救われたいと何かに依存してしまうのは、それほどまでに辛い経験をしたからではないでしょうか? 



それを自分は選んで生まれてきたなんて知りたいわけではなくて ただただ、気持ちが楽になりたいだけ。。。 



人生で何故、そのようなことが起こるのかをわたしはわかっていても 辛い気持ちはわかります。 


ひとりになり自己と向き合うことが必要だとわかっていてもわたしは寄り添いたいと思う。 


それはわたしが経験してきているからだと思います。 





しかし 今は、悲しみを持たない子供が生まれてきているため、「救われたい」想いがわからない人が増えて、個としての自分を主張する人が増えています。 


悲しみを理解出来なくてもよいから、せめて否定しないで欲しいと願う。 


無宗教が良いことのように言ってる人が少なくない。 


信じるものがあることはいけないことなのか?


心の拠り所があってはいけないのか? 




わたしたちは信じたものを信じた人生を歩むのだ。 




悲しみを知らないことが良いことだとわたしは思わない。 


悲しみを知り乗り越えてこそ深みが出るものだから。 


「救われたい」想いがわからない者は人を思いやる心がないのと同じで、それはAIと同じでAI以上にはなれないだろう。 



今、この地球は過度期で悲しみがわかる人と悲しみがわからない人が共存しています。 



互いを思いやっていけたら良いね。。。 



今は悲しみを理解出来ない人の傍若無人さを悲しみがわかり思いやる心を持った人が許していく世の中なのだなあと感じています。



悲しみを持たない人たちには、そんな辛い想いをしてきた先人たちの歴史があり自身が成り立っていることを知ってほしいです。 





敬う心を忘れずに。 






自分で考えて行動できるようになる。 
失敗したなあと感じたら、すぐに反省して前を向いて進む。 



これこそがAIで言うところのバージョンアップですが



しかし、本当なら
自分や周りが病気に倒れないと気付けない、
「〜だから気付けた。有り難い。」

よりも 


何もなくても、気付けるようになること、何もなくてもバージョンアップ出来るようになることが大切だとわたしは感じています。 



もっと早く気付いてくれたら、周りが苦しんだり犠牲にならなくてもよかったのに。。。 




失敗して周りに迷惑かけながら成長(バージョンアップ)することも良いかもしれませんが どうせなら何もなくても気付けた方が良いと思うのです。 




最初は失敗から学んでいても徐々に段階を経ていきながら何もなくても気付けることを目指して欲しいと感じています。 




そして、周りの者や子供に自分でも学んでいる姿を見せることで信頼、尊敬されていきます。 



上から目線になってる暇はないのです。 



それがいのちの尊厳を守るということかなあと感じています。




これはAIにも真似できないだろうと思います。 
バージョンアップは出来ても熱心に何かに取り組む姿を見せることは出来ない。信頼はされるけど尊敬はされない。


やっぱり、たましいがないからかなあ。





わたしたちは何らかのカルマを刈り取るために生まれてきています。 


まずは個人的カルマ、次は家族(ご先祖様含む)的カルマ、次は社会的カルマ、民族的カルマ。。。 



わたしは個人的カルマは外れていて 今は家族的カルマに取り組んでいます。 


家族、一族の中でわたしひとりが外れているので、 周りを引き上げるべく、日々、働きかけをしています。 


これらは、わたしから歩み寄らないと出来ないことです。 




わたしたちはひとりで生きているわけではないので、家族、親族の中で重大な問題を抱えていたら 自分自身にも影響を及ぼすのです。 



自分の家族は違うけど、親戚にうつ、不登校、病気といった問題を抱えている方は少なくありません。 

そのため、自分の家族は大切にするけど 親戚とは付き合わないという方も少なくありませんが、付き合いなくても 自身の家族、自身に影響するものなのです。



もしかすると 自分の病気がなかなかなおらないのは、親戚の人の不登校と関わりがあるかもしれません。(実際は関係大有りです。) 





フルネーム鑑定で一族ひとまとめに視させていただくのはそのためです。




いくら自分だけ良くなりたい!と願っていても、親族間でいさかいがあったり恨みや妬みがあっては、良くなりません。 



〜されたから許さないなど言い分を聞かされることも少なくありません。 





良くなりたいという想いでわたしの元に来てくださっても それが親族間のいさかいで許すことからですと話すと受け入れられない、、、、、。 

最初は受け入れられないかもしれないですが そこが原因だから、受け入れ許すしかなすすべはないものです。 


それをいつまでもいつまでも 足踏みしたままの方が多すぎるなあと感じています。 



わたしは原因を取り除くすべをお教えしてるのだから、やればいいだけなのに、やらない。 


それを邪魔してるのは、自身のプライドなのだと思います。 



許すことは自身が乗り越えること。 

自宅学習と同じです。 

簡単なことから事細かにお教えしても、お願い系はやっても自習系はやらないというのでは、力がつくはずはないのです。 


真面目にコツコツ取り組むことからで、
そのために毎日、日記を書くことをお勧めしています。 



日々の生活をひとつひとつ振り返り見直す作業をしていくことから、人を許せるようになるのです。 


許せるようになったら、親族にたいしては親身になり手を差し伸べることをしてこそわだかまりが溶けるもので、まずは自分から歩み寄ることのできる人になることなのです。



そうやって 家族、親族間のカルマを刈り取ることが出来ると民族レベルのカルマも解消されていき 世界が平和にしていくことが出来るのです。 





よく、仲間を大切にと言われますが まずは家族です。 




間違えないでください。 




人を応援したり共感したり認めたりすることは 人から応援されることに繋がります。



自分の人生をよりよく生きたいと願っている人は目標があります。


そこで 相手が何を望んでいるのか、どうやったら相手を応援できるのかを考えてみてください。


相手の立場を考えて動くわけです。


ひとりでも 多くの人を応援したり その人の立場になって行動することで やがて、あなたのやりたいことを応援してくださるようになるのです。


お互いに応援しあえるようになるのです。



目の前の人に共感したり、出掛けていって共感することで 人から共感される人になるということですね。



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人を敬うことと、気を使うことは違います。

よくよく、世間を観ていると

人に気を使っている人はよく見掛けますが
人を敬っている人はあまり見掛けません。

敬うことは気を使うことではありません。

[敬う][他]相手を目上と考え,礼をつくしてふるまう。敬(けい)する。

[礼儀]社会生活の秩序や円滑な人間関係を保つために守るべき行動規範。特に,相手に敬意を表す作法。

けいい [敬意]尊敬する気持ち。

このように、人を敬うことは、人を尊敬する気持ちがあることが前提です。

人を尊敬する気持ちがあるならば 気を使って、肩が凝ったり 頭が痛くなることはないのです。

気持ちがよくなるはずなのです。

逆に 人に気を使われて、頭が痛くなったり肩が凝ったりされる場合は 尊敬されていないということなのです。

人に気を使われない人、尊敬される人になるように心掛けるといいと思います。


気難しい人と思われるか尊敬される人になるか、ですね。

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